安楽死の訴訟事件の問題はどこにあるか
2022/02/17 15:50:00 |
主体的医療 |
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日本の法律で安楽死は認められておりません。
もし、患者本人が真摯に死を望んでいたとしても、患者の要望に基づいて殺害し、または自ら命を絶つのを援助する行為 は、自殺関与・同意殺人罪(刑法 202 条)に該当します。
さらに、患者本人が死を望んでいたとは認められないような場合には、殺人罪(刑法 199 条)で処罰されます。
ただ一口に安楽死と言っても、積極的安楽死と消極的安楽死があります。また積極的な安楽死の中には意図的に致命的な薬物を投与する場合と、鎮静剤や鎮痛剤など末期症状の緩和目的に使われる薬剤が結果的に死期を早めることへと繋がりうる場合とがあります。対して消極的安楽死は薬物を投与する行為ではなく、従来の延命につながる治療を中止する行為です。
①積極的安楽死(積極的):致命的な薬物の意図的投与による死亡
②積極的安楽死(間接的):症状緩和的な薬物の有害作用による死亡
③消極的安楽死:延命につながる全ての治療の中断
上述の刑法に厳密に乗っ取れば、積極的安楽死であろうと、消極的安楽死であろうと、安楽死を行った医師を罪に問うことができます。
でも実際の医療現場では、特に終末期医療の中で、③の消極的安楽死が選択されている場面はたくさん見受けられます。
ところがその選択を行った医師が皆、罪に問われているわけではありません。なぜならば③の選択が行われる時の当事者には、まず間違いなく死が不可避だと信じて疑われない状況が前提としてあるからです。 その前提があるが故に、これを独断で行ったのならまだしも、家族や医療者間で話し合いを重ねた結果、③消極的安楽死を実施した医師のその行為を誰も殺人だとは思わないが故に、罪として問われないということだと思います。
でも万が一これを罪だと捉える人が一人でもいて、その人が訴訟するという行為に至れば、法律上、医師を罪に問うことはできます。
どういうボタンのかけ違いがあったのか、こうしたケースで医師側が訴えられたケースもこれまでに色々あったようですが、幸いほとんどのケースで不起訴となってはいるようです。
でも不起訴になっているとは言え、「訴訟」に至る背景には、医師側の独断と思われてしまうような家族を中心とした関係者とのコミュニケーションエラーがあることが想定されますので、
誰も幸せにならない不毛な裁判が引き起こされてしまわないためにも、互いの納得の上に決断が実行されていくようにコミュニケーションを進めていく重要性を、私は医師として強く感じる次第です。
そんな中、医師が③だけではなく、②や①の積極的安楽死を施したとして訴えられて裁判で有罪判決が下ったケースがありました。
③や②であれば、私も同じ医師として他人事ではなく、状況が状況であれば考慮するかもしれないと感じますが、①に関しては一線を超えている感覚が私にはあります。
でもこのケースではどのような事情があって①の積極的安楽死に至ったのであろうということに興味があり、その裁判の詳細に書かれた記録を読み込んでみましたが、
驚くことに「もしかしたら私でも同じ状況に置かれたら同じ行動をとっていたかもしれない」という感想を持ちました。
長い文章なので読み込むのも大変ですが、もし安楽死の問題に興味のある方にとっては一考の余地がある内容です。是非、有罪だからと言って加害者の医師が一方的に悪いという思い込みを持たずに読んでみてもらえればと思います。
どういうケースであったかを私なりに概要だけまとめると次のようになります。
罪に問われた被告人の医師は当時医師7年目、大学病院の血液内科系の医局に所属する医師でした。
その年の4月1日に出向先の病院から大学病院に戻ってきた際に、数名の担当患者を割り当てられる中で、血液がんの一種である多発性骨髄腫という病気の終末期状態にある58歳男性の患者の主治医もするように大学医局から命じられます。
担当開始時点でそれまでに前主治医から施されていた抗がん治療の影響もあって、嘔吐を繰り返したり、全身倦怠感も著しくうつらうつらとされているような状態で、4月8日頃からは意識レベルも低下し、4月10日には呼名にも応答しなくなり、4月12日には疼痛刺激にも反応しなくなる経過をたどりました。
一方で患者の家族である妻と長男は、患者を見舞い続ける熱心な姿勢を持っていましたが、4月8日頃からの病状の悪化を病室で目の当たりにして、本人が辛そうにしている状況に耐えられなくなり、当該医師に「治る見込みのない治療をこれ以上しないで欲しい」と強く懇願されるようになります。
また他方で当該医師には「たとえ治る見込みのない病気であっても、医師として自ら治療を放棄すべきではない」という強い価値観があり、家族に対して「治療の中断を行うべきではない」と説得して、家族の希望を一旦は退けます。
しかしここから最終的に亡くなられる4月13日までの間に、家族側から再三「治療中断を」との意思が伝えられ、その繰り返される強い要請に当該医師は次第に冷静さを欠いていきます。
これはあくまでも記録を読んで感じた私(たがしゅう)の個人的見解ですが、当該医師は医師として治療を諦めずにやり遂げたいのに、家族の再三の「楽にさせてあげたい」との要求に、自分が望むあるべき医療の姿を家族の無理解によって不本意に阻害されていると感じ続けていたのではないかと推察します。
当該医師は心理的に追い詰められ、ひょっとしたら半ばやけくそのような心境で、4月13日に結果的に家族の希望に沿うように、安楽死に相当しうる行為を行います。この日は土曜日でした。
その冷静さを欠いた状況においても当該医師が最初に行った行為は、③の消極的安楽死でした。冒頭で述べたようにそれ自体は終末期医療の現場でしばしば行われている選択です。医師として逸脱しているとは思えない一般的な行為です。
具体的にはフォーリーカテーテルという尿道に留置する管を外し、点滴を中止し、痰の吸引なども行わないという行為です。これが実行されたのがその日の午前11時すぎでした。ただ気道を確保するためのエアウェイは外すと即座に死亡してしまう危険が高く倫理的にも問題があると思われたのでしょうけれど、そのまま留置され、脈拍や血圧の状態を監視するモニターも装着されたままでした。
ところが、家族は③を実施することで夕方か夜には自然の状態で眠るように亡くなると思っていたのに対して、実際には午後5時になっても家族から見て「荒い苦しそうないびき呼吸をしている」という状態であったため、
午後5時30分に家族が当該医師を呼び出し「苦しそうなのでエアウェイをとってほしい」との要望を伝えます。悩みながらも既に③の決断を下していることもあり、当該医師は家族要望に従い午後5時45分にエアウェイを外すことを実行されます。
しかしエアウェイ除去後も、家族から見ると「依然として苦しそうな呼吸が続いている」ということから、午後6時過ぎに再び当該医師は家族に呼び出され、「いびきを聞いているのが辛い、苦しそうで見ているのが辛い、楽にしてやってほしい、早く家に連れて帰りたい」と懇願されます。
これに対して当該医師としては死期を人為的に早めうる①や②の積極的安楽死に相当すると感じられたのか、「そんなことはできない」と一旦は断りますが、家族も引き下がることはなく「楽にさせたい。早く家に連れて帰りたい」と強く主張し続けます。
考えうる全ての③を実行している状況にも関わらず、「楽にさせたい」と強く主張することは当該医師にしてみれば、②や①を行ってほしいということに他ならないと考えられたためか、
一向に引き下がらない家族の主張を受け入れる形で、当該医師は午後6時15分、まず②の決断に踏み切ります。
具体的には、鎮静剤で呼吸抑制の副作用のあるホリゾンという薬を使用し、いびき様呼吸を抑えようと試みました。用量は規定の通常量の倍量が用いられたそうですが、これは呼吸抑制の副作用の効果を期待していたためと思われます。
ところが、ホリゾン注射後1時間が経過しても、家族からみて相変わらず苦しそうないびき呼吸をしているということで、午後7時前に再び家族に当該医師は呼び出され、家族は強い口調で「いびき呼吸が止まらない」と訴えます。
午後7時過ぎには同様に使いすぎると呼吸抑制作用のあるセレネースという鎮静剤を、これまた倍量で追加投与されます。
しかし結果的にはホリゾン、セレネース追加後1時間経過しても、いびき呼吸は持続したままの状態でした。
当該医師はこれ以上家族からの安楽死に相当する行為の要求を制止する意味も込めて「法律上許されていないそうした(死期を早めうる医療行為)を医師としてこれ以上実施することはできない」と強く伝えられました。
ところが不幸なことに、結果として依然本人を苦しみから解放させることができていない、この当該医師の行動に家族は腹を立ててしまい、「先生は何をやっているんですか。まだ息をしているじゃないですか。早く家に連れて帰りたい。なんとかしてください。」と激しい口調で当該医師に迫りました。
激しい苦悩と葛藤の末に、ついに当該医師は①に相当する医療行為の実行に踏み切りました。具体的には心抑制作用のあるワソランという頻脈性不整脈治療薬を規定量の倍量と、心伝導抑制作用のある塩化カリウムという低カリウム血症への治療薬を本来の目的とは違う形で追加投与されました。午後8時35分のことでした。
そして午後8時46分に死亡が確認されたという経緯でした。
皆様はこのケースを見てどのように感じられますでしょうか。
多分、立場によって感じ方は変わってくると思います。「どれだけ家族にせき立てられてても、医師として①を行うべきではない」という意見もありそうな気がします。
でも私は同じ医師だからか、どうしても当該医師の方に強く共感してしまいます。何度も一線を越えないよう踏みとどまろうとしていたけれど、その強い意思を揺れ動かし続けたのは、家族からの強い要請でした。
少なくとも当該医師はいきなり①に踏み切るような暴挙はしていなかったし、今、結論が分かった上で考えれば後出しじゃんけんのように当然①は行わないと誰もが判断してしかるべきでしょうけれど、
その当時、その先どうなるかわからない状況で、その場にいた本人にしかわからない家族からのプレッシャーを感じ続ける精神状態の中にいたらどうだったでしょうか。自分も冷静でい続けられたかどうかわかりません。
ひょっとしたら③を行った段階で数時間後に亡くなっていた可能性だってあったわけです。もしそうなっていれば今回の悲劇にはつながらなかったと思います。
また誰がどの立場から訴えられたのだろうかというところも気になります。そもそも家族の強い希望に後押しされる形で不本意ながら行った当該医師の行為だったのに、その後押しをした張本人である家族から訴えられる形となっている点は不思議に感じます。
形式的に①を罪だと考える第3者からの助言や情報提供がきっかけとなって裁判沙汰に発展したのか、それは裁判記録を読む限りではわかりませんでしたが、最後まで読むと、最終的に家族は当該医師に対して「何ら悪感情を抱くことなく、刑事処分も望まない意思を有している」という境地に至っているようです。
一体、この裁判で誰が得したというのだろうと私は考えてしまいます。
ただもし、このケースを振り返って、不毛な裁判に至らないようにできることを考えるのだとすれば、
一番大きな原因は互いの価値観を押し付けあってしまっていたことに大きな原因があったのではないかと考察します。
当該医師は「医師として治る見込みのない病気でも自ら治療行為を中断することはできない」という使命感にも似た価値観を、
家族は「治る見込みのない病気であれば本人の苦しみが最も少なくて済むのは不要な延命治療を行わず安らかに眠りにつくこと」という価値観があります。少なくとも私にはどちらも十分に理解できる価値観に思えます。
もしも両者に「対話」という発想があれば…とも悔やまれます。
両者は互いの価値観を理解できないが故に「分断」してしまい、それが「裁判」へと発展してしまった本質的要因であるように思えるのです。
価値観は違ってもいいから、互いの価値観を尊重して、それぞれの価値観に沿った打開策を検討するという発想で考えれば、一つは「死前期呼吸は客観的に見ると一見苦しそうに見えるかもしれないが、二酸化炭素貯留状態からの準麻酔状態も伴って実は苦しみを感じていない死への典型的なプロセスの一部」という情報を当該医師から患者家族へ与えるというのは一つの選択肢だったかもしれません。
つまり「治療をやり遂げたい」という当該医師からすれば、やり尽くした治療の結果として死前期呼吸を受け止めて、自分の価値観に沿って患者家族に説明することもできるし、患者家族からすれば「苦しみから解放してほしい」という価値観に沿う説明だと受け止められるという、両者の異なる価値観における接合点として解釈できる可能性があるということです。
勿論、そう説明したところで、「いや、(患者は)苦しんでいる!」と家族の価値観は変わらず、相変わらず医師へ安楽死の要請を迫るかもしれなくて、結果は変わっていなかったかもしれません。それでも「対話」の発想があれば、「分断」せずにまた別の接合店を探そうと「対話」をし続けていたかもしれません。
ある意味ではこのケースでは患者家族の価値観に無理矢理接合したと受け止められないこともないわけですが、医師の価値観は捻じ曲げられてしまいましたので、「対話」的な接合とは程遠い形です。しかも無理矢理価値観を合わせたことで、合わせた側の当該医師が罪に問われることになってしまうなんて、悲しすぎます。
もしも患者家族側にも「対話」的姿勢で、相手の価値観を尊重するという姿勢があれば、医師は自分の価値観の中でできる範囲、すなわち③という形で「楽にしてほしい」という患者家族の要望に応えていると納得して、その後それほど遠くない時期に互いに「分断」することなく死を迎えることができていたかもしれません。
つまり互いの「対話」的姿勢がこの悲劇を予防したかもしれないということです。
もっと言えば、患者本人の主体的な意思が存在していれば、当該医師も患者家族もここまで苦しむことはなかったのではないかとさえ私は思います。
「お医者様にお任せ」の医療を見直す必要性を私は当ブログで訴え続けていますが、このケースは最期の最期まで「お医者様にお任せ」にし続けてしまうことによって生まれた不幸という見方もできるように思います。
主体的医療は自分のためのみならず、残された人達を守るためにも大事な医療のあり方になってくるのではないかと私は思います。
もちろん、急死や脳損傷など死に至るまでに死にまつわる主体的意思について熟考できない場合も存在する以上、
あるいは一定の割合で「それでもお医者様にお任せし続けたい」と思う人もいるだろうことを考えますと、全ての患者に主体的意思を明示してもらうことは不可能ですし、その意思も常に変わりうるわけですから、患者の主体的意思だけに頼る主体的医療はそれはそれでまた絵空事です。
だから、本人の主体的な意思を大事にしながらも、それがない場合も本人の推定的意思を本人の人生・生き方から推定し、周囲の人・関係者達それぞれで異なる価値観を互いに尊重し合い、皆が一応の納得をすることができる接合点を模索し合う「対話」的な姿勢が、
本人の主体性だけではカバーすることのできない主体的医療の不足点を補ってくれるのではないかと私は思います。
このケースからの教訓を自分ごととして最大限に生かしながら、
今後自分の身も起こるかもしれない同様の悲劇を未然に防げるように
「主体的医療」は「対話」とともに発展させていきたいと考える次第です。
たがしゅう
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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