「医学」:小川仁志先生のオンライン哲学カフェ参加の御報告

2022/01/29 23:30:01 | イベント参加 | コメント:2件

小川仁志先生の哲学カフェ、今回のテーマは「医学」でした。

このコロナ禍の一連の医学界の混乱ぶりを見ていて、「医学」とは何なのか、「医者」とは何なのかについて問い質したいと思っていたタイミングだったので良い機会でした。

当ブログでも「医学とは何か?」について考えてみることにします。

今回の哲学カフェ内では大きく3つの問いかけがあったように思います。

①「医学」にどんなイメージを持つか
② なぜ「医学」は特権的に扱われているのか
③「医学」はどこへ向かうべきなのか


①について参加者からは「命を救ってもらう」「頼りにするしかないもの」など、「医学」という言葉にインスパイアされておそらく「医者」に持つイメージが多く語られました。 確かに日々の診療の中でそんな風に期待されていることはひしひしと感じますし、なるべくその期待に応えたいと思う一方であまりにも期待が重く感じられてしまうことも正直あります。

ある進行性の進行難病で飲み込みの力が日ごとに衰えていき誤嚥を繰り返している状況の患者さんに対して、その患者のご家族が「プロなんだから何とかしてもらわないと困る」と言われた時もありました。

「あなた(医者)に諦められたらこちらとしてはどうしようもない」という気持ちは理解できるのですが、医者ができることにも限りがあります。この状況で誤嚥を起こす根本的な原因を解除することは残念ながらプロだろうとなかろうと医者が行うことはできません。

そこに共通の納得点がないと、このような行き違いが生まれてしまうことになってしまいます。ともあれ「医学」を司る「医者」という存在は、それくらい患者から特別視されているものだという一般的な認識を感じさせられます。

そこで②のテーマに移りますが、大学の中でも「医学部」は特別扱いされているところがあります。受験の中でも「医学部」受験はある種特別に扱われていますし、医学部受験専用の塾もあったりするくらいです。

コロナ禍においても「医学」の専門家はとりわけ強い発言権を持っているようにも感じされられます。その根源はどこにあるのでしょうか。

これに関して私は明治時代に近代医学が取り入れられる前の医学は、感染症や栄養失調などで若くして人が亡くなることも珍しくなかった状況の中で、

栄養指導や抗生物質などの西洋医学的アプローチが次第に確立していき、しかもその存在がまだ少数であった時代背景も手伝って民衆の中に「命を救ってくれるお医者様」という確固たる意識が定着していき、

その文化のまま時代を経て、よく言えば伝統を重んじる、悪く言えば物事を容易に変えられない日本社会の中でその意識だけが脈々と受け継がれていった結果ではないのかと、

つまり合理的な理由があって「医学」が特権的になったのではなく、平たく言えば単なる歴史の名残なのではないかと私は考えました。

ただそれに対して小川先生からは、日本以外の文化圏の他の国々でも医学部の「特権」的なところはないのかという問いかけがありました。これに対して回答できる知識と経験を持ち合わせていなかったのでとりあえず保留にさせてもらいましたが、実際のところはどうなのでしょうか。

一方でこのテーマの中でも、「命を扱う最後の砦的な存在だから」とか「一般人が気軽に触れられない個人情報や生死にまつわるシビアな情報を扱う必要がある職種だから」などという医者の特権に対する肯定的な見解も多く聞かれました。

私は自分が医者で、しかも医療の限界を認識し、現代医療の変わらない体質に問題を感じている立場であるが故に、「医学」に対する否定的な側面ばかりが目についてしまうのかもしれません。

そして最後のテーマ③が話として非常に重要です。医学はどこへ向かうべきなのでしょうか。

「再生医療」に注目する意見も聞かれました。生存の可能性をできる限り高めることだという意見も聞かれました。科学の力で不可能だと思われたことをどんどん乗り越えていってほしいと。

しかし私はそんな風に「医学」が人間の寿命を引き伸ばすとか、難病をどんどん治していくように発展させていくという発想は、気持ちとしては理解できますが、

そのように「医学」の目的を設定すること事態が実は無理難題で、私は自然法則の軌道に引き戻すことが「医学」が進むべき道ではないかと思っています。

もっと端的に言えば、これが寿命だと納得できる生き方を最大限援助するという方向に発展すべきだということです。

しかしこれに対して、「自然に従うのが良いとは限らない。実際、医学が発展したおかげで日本人の寿命は伸びたではないか」という意見が聞かれました。

確かに、「医学」の発展が寿命の進展に一部貢献したことは確かです。前述の抗生物質もそうですし、1型糖尿病の患者さんなどインスリンが開発されたことによって受けた恩恵は計り知れないでしょう。

ですが、私は寿命が進展した、特に健康寿命が進展した最大の原因は、上下水道の整備と食糧の安定供給体制の方だと考えています。つまり「医学」よりももっと幅広い分野の文明が発展したことによる成果だということです。

一方で「医学」が寿命を延ばしたように見える行為も、本質的には自分が持っている力を上手に発揮できるように導く作業だと思っています。だから自分が持っている力以上に「医学」が寿命を伸展させることは、今後どれだけ「医学」がどれだけ発展しても無理難題のままなのではないかと私は考えています。

もっと言えば、江戸時代に若くして感染症で亡くなるような事例が発達したことも、人間本来の力が上手に発揮できなかった社会環境のせいであって、その時代でもあるいはそれより以前の時代でも長寿を達成していた人は少数ながら存在していました

そうした長寿が少数派の時代から多数派の時代へと変わるきっかけを作ったのは「医学」よりも「社会」の変化がもたらした影響の方が大きくて、そうなのに「医学」の手柄のように扱われてしまった結果、医学の分不相応な特権意識が長く受け継がれてしまうような歪みが許されてきてしまったのではないかとさえ思うのです。

でもそう考えると、一つの疑問が生まれます。「どこまでが自然法則に沿った生き方なのか」ということです。

人間も自然の中に生まれた動物で、自然法則に従って生きているので、人間がどんな行為を成し遂げようとも、それは自然の一部であり、例えばタバコを吸い続けて身体中の血管がボロボロになって早死にした人がいたとしても、それはそれで自然法則に従った結果ではないかという考えもあると思います。

確かにどこからどこまでを自然だと考えて、どこからどこまでを人為的だと考えるかは非常に恣意的、すなわち人によって感覚が違うところがあると思います。私にとって不自然だと思えたとしても、ヘビースモーカーの人にとっては喫煙はごく自然なことで不自然だと断言される筋合いはないだろうと思います。

ですので、自然法則と言っても多様性のある概念であるということは理解の中に置きつつ、「医学」がすべきこと、ひいては「医者」がすべきことは、患者の価値観に寄り添いながら、自分の価値観も照らし合わせながら、どのような生き方が自然であるか、ひいてはどのような生き方になれば納得できるかということを一緒に考えていくこと、特に私の場合は、それを患者自身が決めていけるように医者が最大限のサポートを行うことだと思っています。

特に高齢者医療においては、先述の「生存の可能性をできるだけ高める」「病気を治し克服する」という風に「医学」の目的を設定することによる弊害が大きく現れてしまっているように思います。その歪みは「過剰な延命治療」という形で現実的な問題として今もなお医療者の前に立ちはだかり続けています。

私にしてみれば「自然法則」に反した目的を設定し続けるが故に、あるいは「医学」が特権的でありすぎるが故に患者は主体性を喪失し「お医者様にお任せするしかない」という感覚を強固に持ち続けるが故に、終末期の意思表示が難しい高齢者へのバランスを欠いた延命治療という決断が繰り返され続けてしまっているように私には思えるのです。

人工呼吸器装着、心臓マッサージ、胃ろうや静脈点滴は高齢終末期においては治すというより延命で、確かに生きてはいるかもしれないけれど、かえって苦しい時間が続くという現実も私は幾度となく目の当たりにしてきています。

それでも家族としては「見殺しにするわけにはいかない」「生きているからこそ価値がある」という良かれという想いからもの言わぬ本人に代わって延命の選択をしている場合も多いでしょう。

でもだからこそ自分の人生の最期をどうするかを本人が主体的に考えて判断していくということを基本に置くべきで、「医学」はそれを支える存在であるべきだと私は考えているのです。

今のコロナ禍も「命絶対主義」に基づいて「医学」の専門家達がバランスの欠いた提言、厳格な感染対策を進め過ぎてしまっていると、この点においても「生存確率を高めよう」と目標設定している「医学」の悪いところが如実に出てしまったように私は思っています。

「医学」は根本的に変わらなければならない。その端境期にあると私は強く感じています。


たがしゅう
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コメント

安楽死

2022/01/30(日) 22:56:46 | URL | neko #-
今読んでいる本の中で「何故スイス人の幸福度は高いのか?」「好きな時に死ねるから」という会話がありました。スイスは安楽死が認められているということでヨーロッパ中から人が集まって来ていたそうです(今は他国でも可能)。
日本でも安楽死が認められたら、逆説的ですが幸福度が高まるような気がします(素敵な景色のホスピスで気分よく安らかに。。。という最期)。日本はお金や病気、介護など老後の不安に怯えている人ばかり。かと言って自殺する勇気も気力もないし倫理的にも罪悪感を感じます。私個人としては安楽死できたらとても嬉しいですね!心配なペットの行く末などもちゃんとできますし。ただ、「安楽死させる側の医師の心の負担が重い」とどこかで読んだことも心に残ってます。患者の希望であってもやはり嫌なものでしょうか。まあ、日本が安楽死を認めることは私の生存中にはあり得なさそうなので単なる妄想ですが。

Re: 安楽死

2022/02/03(木) 10:04:32 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
neko さん

 コメント頂き有難うございます。

 安楽死については難しいですね。これという一つの結論には到底落とし込めない、人の価値観の多様性に関わる問題だと感じています。逆に言えば、安楽死を認めない社会は、それだけで多様性が受け入れられていない社会であることを告白しているようにも思えます。主体的医療を考える上でも重要なので、個人的にはもう少し時間をとって熟考してみたいテーマです。

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