安全な教育と厳重な感染対策

2022/01/14 06:00:01 | ふと思った事 | コメント:1件

コロナ騒動が始まってもう2年以上経過するというのに、

世の中は専門家を中心に「厳重な感染対策」モードを緩められない風潮が続いています。

「万が一のことがあったらよくないから」
「他人様に迷惑をかけるわけにはいかないから」
「みんな我慢しているんだから、自分も協力するしかない」


日本では特に「絆」「忖度」「思いやり」「空気を読む」などの周囲とうまくやっていこうという文化、よく言えば「他者尊重」、悪く言えば「自己犠牲」の発想がアダとなって、

「全体主義」とも称されるような「全体のために個人を犠牲にせよ」という狂気へとつながっている現実を感じずにはいられません。

相手のことを考えるが故の行動が自分自身を苦しめることになるなんて、なんと皮肉なことでしょうか。一体どこで間違ってしまったのでしょうか。

私は、昨今の「厳重な感染対策」の発想は、「安全な教育」の発想に近いように感じています。 私にはこどもがいないので、「安全な教育」というものをあくまでも私の中で想像します。

もしも実際の経験に基づいていないが故に、ピンとのずれた発言をしてしまったら申し訳ありません。

「安全な教育」は子育ての際に最も想像しやすい概念で、要するに「被教育者になるべくリスクを負わせずに提供する教育」のことです。

例えば、泳ぎを教えるのに危険な海よりも安全なプールで泳がせることを選択したり、

怪我をしやすいスポーツよりも、そうしたことが起こらない室内での活動を勧めたりする行為が具体例に相当するでしょうか。

身体活動は安全重視となる一方で、なぜか勉学に関しては逆にかなりリスクが高まる負荷をかけるような家庭が多いと感じるのは気のせいでしょうか。学歴社会がもたらす風潮のせいでしょうか。

それはさておき、もちろん我が子に余計なリスクを負ってほしくないと考えるのはたぶん多かれ少なかれ皆に共通する親心だと思いますし、

そのように安全を第一に考えて教育することがすべて悪いことだとは思いません。

ただ安全な状況だけで過ごしていると、こども達が学ぶことに限りが生まれないでしょうか。

人生における困難に遭遇した時に、困難を乗り越えにくくなってしまう可能性はないでしょうか。

安全な環境で色々なことが経験できるのは、親が目を光らせている時/目を光らせることができる時期に限っていて、

将来的にそれが不可能となって、こどもが自分だけで生きていかない時期にさしかかってしまうと、途端に安全とは限らない世界がいきなり広がっていることに気づくことになります。

そう考えると、安全に安全を重ねた教育が必ずしもこどもの将来にとってよいことかというには疑問の余地が残るのではないでしょうか。

勿論、多くの家庭ではそこまで安全ばかりを重視しているわけではなくて、

基本的にはこどもが望むことを叶えてあげようと、安全なことに限らずいろいろなことを経験させようとしている親御さんが大多数ではないかと想像します。

しかしそうした家庭の親御さんであっても、こどもがなるべく安全でいてほしいという気持ちはあるはずです。

この誰の親心にもあるであろう「安全な教育」の感覚が、まるでお化けのように膨らんでしまったとしたら何が起こるでしょうか。

ひょっとしたらこどもをむやみに出かけさせないかもしれませんし、学校に行かせたとしても常に監視の目を光らせるかもしれません。

交友関係もいちいちチェックして、いじめられていないかどうかを見張り、少しでもその予兆があれば芽を潰すように行動するかもしれません。

そんな状況はこどもにとってどうでしょうか。安全はあるかもしれませんが、安心できるでしょうか。

私が想像するに、きっと居心地がよいと感じられることはないだろうと思います。

この「安全な教育」が行き過ぎた状態と現在の「厳重な感染対策」の方針が私にとってはすごくリンクするのです。

子育てにおけるリスクは、こどもにとって学びのチャンスであったりもするわけですし、リスクをゼロにするとろくなことがないことは今の思考実験からも納得してもらえるのではないかと思いますが、

それと同じように感染対策において多少のリスクを受け入れることは学びのチャンス、言い換えれば「健康のチャンス」にもなりうるのです。それは身体的な意味でも精神的な意味においても、です。

感染対策を緩めて、感染したとしてもよいと思って行動することは、もしも感染した際に自分の体調管理を見直す機会となりますし、

感染対策を緩めることで精神的な自由度は高まり、自由な発想で色々なことに挑戦できたコロナ前の世界へと近づくことでしょう。

そして感染したとしても決してそれを他人のせいだと思わないことこそ、日本人の文化的な良さが存分に発揮される「思いやり」となるのではないでしょうか。

私はそんな世界に戻ることを強く望んでいます。

私達一人ひとりが感染対策に厳重を求めないこと、他者を許容するゆとりを持つこと、

ゼロリスクを求めずに、適正リスクを求め、常に揺れ動くリスクの中で常に最適を自分の頭で考え続ける努力を行って、

みんな違って当たり前の人々が織りなす社会の中で、みんなでうまくやっていける世の中に近づけることができるのではないかと信じています。

教育も医療もある程度のリスクを許容する方向に動いていってほしいと切に願います。

その為に身近なところから、できることがきっとあると思います。


たがしゅう
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コメント

2022/01/16(日) 08:00:37 | URL | neko #-
そうですね、美容院等で手の消毒を強制さるのは嫌ですね(全体主義もありますが意味なく手荒れしたくない)。笑ってしまうのは、そのくせ支払いで現金はOKなこと。
日本ではコロナよりインフルの方がよほど実際的なダメージが大きかったのに、対策もワクチンもインフルはゆるゆるでした。その辺の矛盾を感じないのはテレビのせいなのでしょうか。
私の母も(ありがたいことに)私の安全を強く願ってくれまして、例えば公務員になって欲しかったそうです。でも私は住む場所も仕事も新しい物好きで変化が大好き。公務員になってたら心が死んでました。「安全」って何なのか、「豊かな人生を送る」とは何なのか。モーツアルトは39歳でしたっけ?若くして亡くなりましたが、あのような音楽を創造できた人生を羨ましく思う人も多いはず。本文とズレたコメントばかりで失礼しました。

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