価値観が真逆な相手を尊重することはできるのか

2021/12/16 15:25:00 | オープンダイアローグ | コメント:0件

前回記事で私は「どれだけ異なる価値観の相手であっても、相手を尊重すること」の重要性を述べました。

そこから初めて様々な価値観が共存できて、互いを認め合える居心地のよい世界への一歩が踏み出せると考えているからです。

ただ「言うは易し、行うは難し」という言葉があるように、口で言うのは簡単ですが、これを実際に行うにはかなりの修練が要るように私は感じています。

例えば、私はテレビを時々見ますが、国の動向や専門家達の発言を聞くにつけ、

プライベートな時間では、正直結構な頻度でテレビに向かって愚痴や暴言を吐いてしまっていると思います。

愚痴や暴言を吐くということは、その時点で「相手への尊重」があるとは到底思えない態度です。

「対話」的でありたいと願っている私は、少なくとも現時点で全く「対話」的でいられていないのです。 逆に言えば、「対話」的であるためには何かしらの人為的な努力を必要とし続けるということになるのではないかと思います。


何の人為的な工夫も取り入れていなければ、

普通の人であれば気に入らない何かと遭遇すれば、それに対して自然と愚痴が出てしまうものだと思います。

私は自然重視型医療を推進する立場の医師ですが、

この自然と愚痴が出るという部分は、自然重視型医療における「自然」とは意味が違うと考えています。

なぜならば、人間は言葉による概念を生み出し、概念から来る価値観によって行動しているわけですから、

愚痴は言葉という人為物から生まれる価値観に起源を持つ現象だと考えることができるからです。

本当に「自然」だと思える現象には、人間以外のあらゆる動物、ひょっとしたら植物にも共通性を感じるものだと思っています。

おそらく動物であれば嫌なものと遭遇したところで、愚痴を言ったりはしません。「戦うか、逃げるか」のどちらかだろうと思われます。

そこを「愚痴を言う」という選択ができる背景には、人間ならではの言葉によって生み出される価値観が影響していると考えることができます。

しかし人間界に限定すれば、気に入らないものに遭遇して「愚痴を言う」という行動もある意味で「自然」だと言えるかもしれません。

また、その延長線上に「暴言を吐く」「攻撃する」「断絶する」「排除する」などの行為があるのかもしれないと思うと、「戦うか、逃げるか」の選択を行う動物的「自然」との共通性もなくはないのかもしれません。

ですが、この「愚痴を言う」というほっとけば必ずハマる落とし穴に、ハマらないようにするための工夫を行い続けて始めて、「対話」的であれるのではないかという気がしています。


でも価値観が少しずれている相手であればまだしも、

自然と愚痴を言いたくなるほどに、価値観が見事にずれている相手を「尊重する」なんていうことは、

下手するときれいごとのようにも聞こえて、とても現実的ではないとさえ感じられてしまうかもしれません。

「嫌だと思う相手のことを嫌だと思って何が悪いのか」と、自分に余計なストレスをかけてしまう行為にさえ思います。

感情と価値観はリンクしていると言います。ここは「対話」という目標に近づくためにも解消しておく必要のある問題だと思います。少し深く考えてみましょう。


私は「嫌だ」という感情に噓をつく必要はないと思います。

「嫌なものは嫌」、それでいいと思います。

その「嫌だ」と判断するもの、及びそれに関わる人物が持つ価値観が、自分とは大きくズレているであろうという点もいいと思います。価値観がズレているからこそ嫌だと思うわけですから。

ではここが動かしがたいものだとすれば、「嫌だ」と思うものからは素直に離れていいと思います。

動物で言うところの「逃げる」という選択肢に通じるものがあります。

ここで「戦う」という選択肢をとらないところに一つ人為的な工夫を入れる余地があります。

なぜ「戦う」という選択肢をとらないかと言えば、「戦う」という選択をとると「分断」という「対話」とは真逆の方向に進んでしまうからです。

今「対話」的でありたいということを目標におくのであれば、動物界ではフェアに「戦う」と「逃げる」の選択が用意され、どちらの選択をとってもよいのだとしても、

ここは「離れる」という選択をとるのがベター、というかそれ以外の選択肢はないように思います。

そうすれば少なくとも「嫌だ」という感情に噓をつくことなく、かつ「対話」への道もひとまず途絶えさせないで済むように思います。

さて、そうやって「離れた」相手に対して、さぁ今すぐにその価値観を尊重しようというのも随分無理のある話ですね。

さっきまで口をついて愚痴が出ていた相手に対して、ちょっとやそっと距離を置いたからといって、その相手のズレた価値観を途端に尊重できるようになるとは到底思えません。

だからここは「無理に相手の価値観を尊重しようと思わない」こと、ただし「相手のことを尊重する可能性を完全には捨てないこと」がよいのではないかと思います。

具体例でいきましょう。例えば私は、大金持ちで庶民の気持ちも顧みずに隠れて大金を自分の欲望を満たすためだけに使って遊び尽くしているような大物政治家のことが大嫌いです。

この相手の価値観を今すぐに尊重しなさいと言われたところで私には到底無理な話です。

ひょっとしたらある程度同じような立場にある人であれば、私に比べると相手を尊重しやすいこともあるのかもしれませんが、とにかく私にはこれほど難しいことはありません。

だから単純にその人の話題をテレビなどで見かけ、私が思う価値観通りの行動を取り続けていれば嫌悪感を感じ続けます。嫌悪感を感じていいと思います。

けれど未来永劫ずっとそのような状況かどうかはわかりませんので、ひょっとしてその人が理解可能な価値観を示す、少なくとも自分にそう感じられる行動を行った時には、少し近づいてみることを検討します。

その上で徐々に価値観の全貌が見えて、全部とまでは行かずとも部分的にも理解できる要素が出て来るようであれば、その部分に対しては尊重するようにします。

例えば自分の欲望に従って行動するという部分でいえば、その大金持ちも私も大差はないわけですから、

そこは理解できるかもしれないと無理なく思えるようになれば、それを受け入れるようにします。

それを受け入れることに無理している感が否めなければ、やはり無理せず離れるようにします。場合によっては愚痴を言うことも許します。でも未来の可能性を含め、完全な断絶だけは避けるように心がけます。

これは「世界で一番嫌いな相手と縁を切らずにおく」というくらい難しい行為に通じる話なので、なかなかの理想論というか、綺麗事に聞こえる部分が拭えないかもしれません。

「嫌いな相手」のことは考えるだけで気持ちが沈んでしまいますからね。

だからより現実的な落とし所を考えるとすれば、「嫌いな相手」「あまりにも真逆の価値観を持った相手」は「後回しにする」と考えるのがよいのではないかという気がします。

まずはそこまで価値観のズレがない、少なくとも自分には大きく違うとは感じられない、ある程度言っていることに一理あると本心から思える相手との「対話」を行うことから練習していって、

次第に「価値観のズレの大きい相手」への「対話」的接触にも挑戦していって、その抱え込める相手の幅を拡げていくという人為を加え続けていくことが、

本当に誰とでも「対話」的になれる世界へと進む道なのではないかという気がしています。

「全く価値観の異なる相手」というのは、ロールプレイングゲームで例えればラスボスですね。

いきなりラスボスに挑戦するという無謀なことは避けて、強い敵からは逃げてもいいから、

最初は弱い敵、すなわち価値観のズレがそこまで大きくない相手との「対話」経験を積み重ねていき、

最終的にラスボスへ挑戦することを目指す冒険、というイメージで、

「対話」の経験を積んでいくとよいのかもしれません。


たがしゅう
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