八方美人と全人的尊重

2021/11/04 10:35:00 | オープンダイアローグ | コメント:0件

オープンダイアローグの実践を繰り返す中で、「相手を尊重する」という感覚を持つことの重要性を感じ続けています。

相手を尊重すればこそ、「対話」の前提となる「平等感」が生まれやすいですし、異なる見解に遭遇したとしてもなぜ相手がそのように考えるに至ったかという裏側を見ようとする視点が養われます。

ただ現時点で私が主催する練習会は、必然的に私の理念の共感して下さる方が集まっているという事もあってか、

あまり意見の相違は生まれにくく、言ってみれば特別な努力を行わなくても、相手への尊重が生まれやすい環境で「対話」の練習をしているということになります。

これは練習のようでいて、単にぬるま湯につかっているだけのような気もします。本当はもっと価値観の異なる人を「対話」の場に招き、「相手への尊重」をベースに「対話」を続けることによって「対話」の真価が発揮されるのかもしれません。

今後いかに価値観の異なる人達を「対話」の場に招きやすくするかという仕組みについて考える必要性を強く感じています。

そんな中で私の頭の中に浮かんだ言葉に「八方美人」というものがありました。 広辞苑・第六版によれば、「八方美人」の意味は2つ書かれています。

①どの点から見ても欠点のない美人。
②誰に対しても如才なくふるまう人を、軽んじていう語。


一般的には②の悪い意味で使われることが多いように思いますが、実は①のように良い意味も持つ言葉です。「才色兼備」という言葉の上位互換と言ってもよいかもしれません。

けれど今回問題にしたいのはやはり②の意味についてです。異なる価値観を持つ相手を「対話」の場に招きたいと考える時に、大前提として「相手への尊重」は必要不可欠だと思います。

しかし相手が持つ価値観は自分と異なっているわけですから、その人に敬意を払うということは「本当は自分の中では全く納得ができない考えに対して、不本意でもニコニコしながら理解を示すような姿勢をとらなければならない」ということへつながってしまいやしないかという疑問が出てきます。

つまり異なる価値観を持つ相手を「対話」の場に招くためには、悪い意味での「八方美人」になる必要があるのではないかという疑問です。


私は聖人君子ではありませんので、世の中に腹が立つことはたくさんありますし、

家庭の中では利権にまみれた権威者などへ結構頻繁に毒づいていたりします。そんな自分にふと気づき、自己嫌悪に陥ることさえある始末です。

そんな私がもしもどんな価値観を持った人であっても、仮に全く賛同できない考えを持つ相手と対話をするということなんて、本当に可能なのでしょうか。

この疑問について考える時に、二つ大事なことがあると私は思っています。

一つは「自分の認識している相手は、相手というものを構成するごくごく一部である」ということ、もう一つは「人の距離感は人それぞれ平等ではない」ということです。

わかりやすいのでワクチンへの賛否で意見の異なる相手と「対話」をしようという場面を考えてみましょう。

私はワクチン反対派と言ってよい考えを持っていますが、例えばワクチン積極的推進派の感染症専門医の方と「対話」をするという場面を想像してみましょう。

一見すると反対派の目からは、”個別の事情を考慮せず「感染対策こそ全て」という概念に支配され、安全性の担保されていない医薬品を統計学的なエビデンス絶対主義に基づいて積極的に推奨する無思慮な権威者”という風に見えるかもしれません。

場合によっては”医薬品の製造業者から多額の献金を受け取っているであろう強欲な権威者”という風に見えてしまうかもしれません。そういう相手に見えている限り、「対話」なんて到底無理でしょう。「相手への尊重」などかけらも存在していないからです。

ではどうすれば、こういう相手と「対話」することができるのでしょうか。それはまず「自分が今相手に持っているイメージが全てではない」という前提に立つことです。

芸能人の不倫問題とかもそうですが、その人がどういう価値観を持って、どういう事情があって、どういう抑圧感情を抱えながら、どのような流れでその行動に至ったのかという相手のいきさつを私たちはまるで知りません。

知らないのにも関わらず、報道で知り得た情報を元に、そして一般常識に相当するであろう「不倫は悪」という概念に基づいてその芸能人に「悪」というレッテルを貼り、わかったような気になります。

そして私たちはこう思うのです。「なんであんなことをするのか理解できない」と。

しかし本当はそう判断するには情報が足りな過ぎるのです。少なくとも「対話」の場に立とうというのであれば、この「相手についてさほど知らないという事実」をまずは謙虚に受け止めておく必要があります。

その上で、「対話」の場では相手のことを知ろうとする姿勢を持つ必要があります。批判のニュアンスを出すことなく、単純に「相手のことが知りたい」という気持ちを持って「なぜ、そのようなことをしようと思ったのか」と尋ねることです。

この時にもう一つ大事な前提は、オープンダイアローグの中で「私とあなたは違っていて当たり前」ということです。

相手のことを知ろうとする過程の中で、必ずしもその行動原理に共感を示す必要はないと私は思っています。「なるほど、私であればそのような行動はとらないけれど、世の中にはそのような原理で行動する人もいるんだな」という理解を示すという程度で十分だということです。

そうでなければ、自分の納得できない考えに無理矢理共感を示すことになってしまい、そんな行為は自分が辛くなるだけです。悪い意味での「八方美人」のなれの果てとでも言うべき状況です。

ただ、「自分は全く納得できない」という正直な感想を「対話」の場に出すこともまた、「相手への尊重」が欠如しています。もしもそういう正直な気持ちを出したいのであれば、例えば「もしかしたら〇〇さんが聞くと不快に感じられてしまうかもしれないことが心配ですが、今の〇〇さんの話を聞いていて、私には△△というネガティブな感情が生まれました。なぜならば私の人生の中でこういう出来事があり、私にはこういう価値観があるからです」などと言うのがよいように思います。

「対話」の場では、特定の結論に到達する必要はなく、互いに尊重を示し合うことを忘れないようにしながら、「違う」ということを互いに感じ合うことが大事だといいます。

しかし「対話」のルールを知らない人だって当然「対話」の場に入りうるわけですから、複数人いる大部分の参加者がそのように尊重を示し合っているような雰囲気で「対話」が行われれば、ルールを知らない人も自然と「対話」のルールを身体で覚えられるようになるのではないでしょうか。

そのように身体で「対話」を感じてもらえる場にするためにも、どれだけ価値観の異なる人であっても「相手への尊重」を最大限示すべきですし、そのために「知らないことに謙虚であること」がとても大事なことだと私は思います。

知らないことに謙虚であること」であれば、きっと誰にでもできるはずです。そう言えば、かの偉大な哲学ソクラテスも「無知の知」の重要性を語っていましたね。


さて、そうは言っても、口で言うのは簡単でも、実際にやれるかどうかは難しいと感じる部分もあるでしょう。

そこでもう一つ大事になってくるのが、「人の距離感はそれぞれ違う」ということに自覚的になるということです。

世の中には、一口に考えが違うと言っても、180度考えが違うという人と、10度くらいしか考えが違わない人と色々いると思います。

思考の角度がほとんど変わらない人どうしは、それがいわゆる「仲良しグループ」です。

「仲良しグループ」の中でも、完全に意見が一致しているわけではありませんので「対話」は可能ですが、大抵の価値観は一致していますので、あまり不具合を感じることなく「対話」を行うことができるはずです。

私が募集をかけて実施しているオンラインオープンダイアローグはまさにそういう状況なのだろうなと思います。

なぜならば私が発信する私の価値観に共鳴する人が参加してくれていることが多いからです。

ただそんなオープンダイアローグがダメだと言いたいわけではなく、これは言ってみれば「オープンダイアローグ」の練習にもってこいの状況だと私は思います。

「対話」の場は、安心・安全に感じられることが大切であるわけですが、これからはじめて「対話」を勉強しようとする人が、価値観のズレが激しい相手と「対話」的にやり取りするというのはあまりにもハードルが高すぎます。

自分と価値観が180度違う相手は、ロールプレイングゲームに例えればラスボスのような相手であって、はじまりの町からいきなりラスボスに挑めば瞬殺は必至でしょう。偶然「対話」がうまくいくことはまずありえません。

別の言い方をすれば、そのラスボス的な相手は、「自分との距離感が最も遠い相手」なので、いきなりその人と「対話」的になろうとしても、かなり無理をしたとしても難しいと思います。

とある世直し的な活動をされている方が、自分の活動を全く理解しようとしない相手のことを「後回し」にしているとおっしゃっていました。私はそれをとても良い感覚だと感じました。

決してわかり合えないと、少なくとも今はそのように感じる相手を、完全に無視してしまうのは「分断」への道をたどっています。それは「対話」とは逆ベクトルの行為です。

今はまだその人とは到底わかり合えないかもしれない。なぜならばとても距離感が遠いからです。しかし「対話」という活動の旅を通じて、いつかその遠い道のりを踏破できる日が来るかも知れません。

そんな風に考えれば、無理に相手に合わせようという悪い意味での「八方美人」的な行動をとらなくて済むのではないでしょうか。

だから今はたとえ「ぬるま湯」であったとしても、何度も「対話」を繰り返することで、湯船のお湯の温度を徐々に上げていき、最終的にはラスボス的なお風呂に入れるようになればいいなと私は思う次第です。


このように「無知の知をベースに相手を尊重すること」と「人の距離感を意識して、対話的であり続けること」は、「八方美人」ではなく、「全人的尊重」と呼べるスタンスだと私は思います。

悪い意味での「八方美人」は周りにとって素晴らしいかもしれませんが、ひょんなことから自己犠牲につながりうる危うい発想に感じられます。

私は自分も他者も大事にできる「全人的尊重」の発想で残りの人生を生きようと努力し続けたいと思います。


たがしゅう

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