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病気とは自分の中での現実と思考が分断した状態である

category - オープンダイアローグ
2021/ 09/ 15
                 
前回、「対話」とは「分断」予防法であるという自分の見解を語りました。

ここで言う「分断」というのは、「価値観の異なる相手どうしで何とかうまくやっていくことを完全に断念する」という意味で、言わば「自己」と「他者」との間での関係性を意識して語りました。

しかしよく考えれば、「分断」というのは自分の中だけでも起こりうる現象であるように思います。

自分の中での「分断」とは何かと言いますと、自分はこうありたいと願う「思考」と自分の身体が求めている「本能」との間での「分断」です。「希望」「現実」と言い換えてもいいかもしれません。

「希望」と「現実」にギャップがあると人は苦しいと言います。そのギャップが大きければ大きいほど、身体にかかる負担は皮肉なことにどんどん大きくなっていきます。

そこにストレスホルモンの過剰分泌およびそれに伴う糖代謝過剰駆動、さらには自律神経過剰刺激状態が関わっているということはこれまでに当ブログで何度も述べてきた通りです。

こうした状態が引き起こされるのは人間が「思考」する生き物であるからこそです。そしてこの「思考」の在り方によって「希望」と「現実」のギャップが大きくなった状態のことを人は「病気」と名付けているのではないかと、

もっと言えば、このギャップを生み出す偏った「思考」に平等性、多様性の価値観を盛り込むことによって、より「現実」に近づけてギャップを小さくさせるのが、「対話」という行為が本質的に行っていることではないかと感じるようになりました。
            

そもそもフィンランドで「オープンダイアローグ」が始まった背景は、薬では如何ともし難かった統合失調症に「対話」を始めたところその症状がよくなったという所に端を発しています。

統合失調症の症状はしばしば「了解不能」と理解されます。幻覚・妄想とひとくくりにされる精神症状は人によってその内容が様々です。例えば、ある人は外国の秘密組織から狙われていると言ったり、また別の人はハッカーが自分のパソコンから常に監視を行っていると言ったり、その内容は多岐に渡ります。

ですが一般的な「思考」の人だとこうした内容を「そんなことがあるわけがない」と理解し、これを「了解不能」な「病気」と説明されることでこの理解できないことで生まれるギャップが一気に埋め合わせされて、ある意味で不快感は簡単に解消されるかもしれません。

しかし「病気」だと判断された本人からすれば、まともに取り合ってもらえずに疎外感を深めるであろうことは容易に想像できますし、「もうこれ以上誰に言っても無駄だ」と他人に理解されない怖さを孤独とともに甘んじて受け続けることで本人の中でギャップは大きくなるばかりで、病状を悪化させ続けてしまっているかもしれません。

そもそもそのような幻覚・妄想状態もその人の人生の中でそう強く信じざるを得なくなるような何らかの出来事があったと考えるとどうでしょう。ひどく誰かに襲われるかもしれないというリアルな過去が長くあれば、ちょっとした物音や人影が自分を襲ってくるかもしれない脅威に感じられるかもしれないことは十分了解可能ではないでしょうか。

そしてそのような状況が長く続いて誰にも助けられなかったとしたら、脳がリアルな想像力を膨らませ、現実には存在しないう幻想をありありと描出させたとしても不思議ではないと考えるのは私だけでしょうか。精神疾患を抱える人達の多くに幼少期の家庭の問題が隠れているというのははたして偶然でしょうか。

統合失調症という「病名」で名付けられるその状態は、言ってみれば今の自分の「思考」が恐怖を中心とした価値観に極端に偏ってしまっただけの状態で、「現実」をもとに多様な価値観を理解できる健康な「思考」と比べると随分ギャップが大きくなってしまっている状態に思えます。

フィンランドのオープンダイアローグがそんな非常に偏った「思考」状態にある統合失調症の患者を、安定した「思考」に引き戻せたという事実は、「対話」を続けることさえできれば、偏った「思考」は是正することができるということを実証してくれているように思います。

逆に言えば、極端に偏った「思考」によって生み出された「病気」という自己分断状態は、「対話」という平等性・多様性を元に「思考」の偏りを是正する行為さえ続けることができれば、

「統合失調症」ほどに身体(現実)と心(思考)が切り離されてしまった状態であったとしても、苦しくない状態に持ち込むことができるということでもあると思います。

「思考」によって起こって引き起こされた現象です。「思考」によって引き戻せないはずがありません。


また、「現実」と「希望」のギャップが「病気」である、という捉え方をした時に、ことは精神疾患だけに限らないようにも思えます。

私の専門領域でよく扱う神経難病の患者さん達も、統合失調症のように同じく「現実」と「希望」のギャップが大きくずれた人達であるように私には思えます。

ありのままを受け入れようとしてもできない、自分の身に起こる症状は自分を苦しめる有害な現象であるとしか思えない人達がほとんどであるように少なくとも私の臨床経験上は感じています。

1対1の関係性の中で私がそのことを伝えても、決して難病患者さんの中の心が変わることはありませんでした。

その意味で、この「対話」という場にこうした患者さん達を招くことができれば、ブレイクスルーになってくれるかもしれません。

「対話」を通じて本人が「現実」を平等かつ多様に受け止めることができるようになれば、少なくとも「思考」の偏りは是正され、ストレスホルモン過剰分泌、糖代謝過剰駆動、自律神経過剰刺激といった病気を悪化させる要素はなくなっていくはずです。


はっきり言って「あなたは病気です」と決めつけることそのものが大きな「分断」を生む行為だと私は思います。

それは「健康」と「病気」を隔てる「分断」のみならず、自分の身体の状態(現実)とそれをどのように解釈するか(思考)を偏らせてギャップを大きくさせる「自己内分断」を生み出す行為です。

まずは「病人」だという固定観念を外し、「非常に思考が偏ってしまった悩める人」という前提で、そんな相手のことを理解しようと努めることが「対話」の第一歩になるように私は思うのです。

正直言って、若い人であればともかく、不可逆的に細胞や組織に損傷が加わってしまった人にいくら「対話」で「思考」が是正出来たからといって、すべての症状が可逆的に改善するとまでは思いません。

しかし不可逆的損傷が残っている、あるいは老化で不可逆的に細胞機能が低下している状態の人にとって、現実ありのままの状態に戻すことは「対話」によって十分可能です。

そしてその「現実ありのままの状態は、決して苦しくない」ということは最大のポイントです。

身体は常に間違うことはありません。身体は常に自分をその人なりにちょうどいい状態に持って行こうといつも頑張っています。

そのありのままの流れをありのままに受け入れて、その上で例えば身体の動きが鈍いのであれば、それが今の身体の状態がはたすことのできる最善の状態だということになるでしょう。

そのように機能低下していく、老いていく身体をありのままに受け入れて最終的に進める理想的な状態のことを私達は「老衰」と名付けているのだと思います。

この原則さえわきまえることができていれば、人はどれだけ高齢化しようと「病気」になることはありません。「老衰」で居続けることができます。

そしてそのために必要な人為的な工夫が「対話」であると私は考える次第です。


たがしゅう

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