価値観の異なる相手とどうやってうまくやっていくか
2021/09/14 19:20:00 |
オープンダイアローグ |
コメント:6件
今日のオープンダイアローグにふれあう会では、「自分はコロナワクチンを打ちたくないけれど、もしもワクチンパスポートをはじめとした生活制限がリアルに自分を苦しめる事態になった時に、どう考えるか?」という話題が持ち上がりました。
私が主催する「オープンダイアローグ」の会ですので、自ずと参加するメンバーもワクチンを打たない姿勢の人が集まってきていたので、
メンバーどうしで皆、なぜ自分はワクチンを打ちたくないと思うのか、そして生活制限がかかる事態に自分はどうするかということを語り合う時間になりました。
中には自分は生活制限を受けてでもワクチンは打ちたくないという気持ちの方もおられました。一方で気になるのは自分の中で「ワクチンを打ちたくない」という気持ちが確定的であっても、
自分にとっての身近な家族や友人、あるいは仕事上重要な取引先が「ワクチンを打つべきだ」という考えであった時の対応です。これはなかなか悩ましいものがあります。
他方で、今回たまたま私のふれあう会にはワクチンを打ちたくない人が集まりましたが、この中に例えば「ワクチンは絶対打つべきだ」という考えの人がいた時に、私達は落ち着いた雰囲気で「対話」することができるのでしょうか。
このように絶対的に価値観が異なる相手とふれあうことは生きている限り必然ですし、社会という集団の中で生きるということには本質的に、「価値観の異なる相手とどうやってうまくやっていくか」という命題があるように思います。 ここに私が悩みを持つということは、きっとまだ私が「対話」というものを理解しきれていないからではないかという気がします。
なぜならば、価値観の違う相手とうまくやっていく人為的な工夫こそが「対話」であるからです。
冒頭の「もしもワクチンを打ちたくない気持ちを持つ私のコミュニティにワクチンを絶対打つべきだという考えの人が入り込んできた時に、それでもうまくやっていくことはできるのか」という質問に対する答えは、
きっと「対話の可能性を信じ続ければきっとできる」ということになるのだろうと思います。
というより、「対話」の可能性を信じるということは、まさにそういうことに挑戦していく試みだと言えるでしょう。
そもそも「対話主義」を進化させたフィンランド発祥の「オープンダイアローグ」は、
健康な人にとって見れば、180度価値観が異なる相手と言っても過言ではない精神疾患の患者さんと「対話」することで、治療者も被治療者も心の平穏を保てるようになったというのです。
精神疾患の患者の価値観は、精神医療の中では「了解不能」と表現されます。まさに価値観が異なり過ぎて多くの人によって「病気」という枠組みでしか理解できないでしょう。
しかし、それくらい異なった価値観でも丁寧に「対話」を行っていけば、お互いにとって良い状態にすることができたのであれば、ワクチンに対する意見の相違なんてどうということはなく、「対話」していけば良い状態にしていくことはできるはずです。
ただし、そもそも「対話」の場に乗らなければ、「対話」を行うことはできません。
誰かと「対話」をしたいというのであれば、可能な限り「対話」が行いやすくなるように工夫された空間に相手を招待する必要があります。
「相手」は「対話」の原則を知っているとは限りません。そうなれば、「対話」なんて知らなかったとしても、その場にいるだけで「対話」というものがわかってくるような空間である必要があると思います。
そのような自然と「対話」が促される場になるためには、その場に参加する人の多くがまずは「相手への尊重」の気持ちを持っていること、
意見は違っていて当たり前だということをわきまえていること、どんな意見を言ってもいいという空気が作られていること、正解はひとつではないということが実感できるということ、
そういう工夫が施されることによって、この場であれば何か「わかってもらえるかもしれない」という気持ちが沸き起こってくるのではないかと思います。
そしてすべての場の参加者が思ったことを語り合い、お互いの立場をフラットに受け止めながら、自分の考え方を改めることにつながります。
「対話」の場において、ワクチンを打つ人にも打たない人にも共通して感じられるのは、この社会の中で協力し合いながら生きていく必要性です。なぜならば相手への尊重があるからです。
もしもここで相手と協力し合いながら生きて行く必要性を感じられないのだとすれば、この場は「分断」へとつながってしまいます。これは「対話」が途切れてしまうことを意味します。
「対話が続いてさえいればいい」とよく言われます。それが「対話」が続くということは、それはまだ「分断」していないことを意味しています。
だから「対話が続いてさえいれば」、その先に「違いを認め合い協調し合いながら生きていく世界」とつながっていることが感じられるのではないかと思うのです。
さて、「対話」の場にない時に、価値観の異なる相手と交流することがあったとして、
その時には「どうせ言っても無駄感」が強く感じられてスルーしたり、あるいは「相手の考えがどうしても許せない感」が強まって攻撃的に接してしまったりするかもしれません。
それは「対話」の場にいないから仕方がないことなのでしょうか。
勿論、「対話」の場になりやすい条件とそうでない条件がグラデーションであると思います。1対1は「対話」になりにくい条件ですし、複数の「対話」を理解するメンバーがいる場は「対話」が起こりやすい条件でしょう。
ただ「対話」の起こりにくい、起こりやすいという程度はあるにしても、どの場であっても「対話」が不可能というわけではないと思います。
「対話」の始まりは「相手への尊重」です。そこから始めないとうまくいかないであろうことは逆に立場になってみれば明らかだと思います。
そして「対話」が目指すところは「和解」ではありません。お互いに違うということを認め合い、尊重するということです。そして「対話」が続けられる関係を続けていくということです。
「対話」に終わりはありません。終わるのであれば、「対話」的な世界から離れているということになります。
ごちゃごちゃと小難しいことを述べているように感じられるかもしれませんが、ここは非常に重要な部分です。
もしも家族と意見が異なる時は、まずは「違っていて当たり前」だと認識すること、
その上で「相手を尊重すること」、相手はどうしてそのように感じるのかという構造に想いをはせること、
そして相手の話を徹底的に聞くこと、途中で遮ったりは絶対にしないこと、ただただ真剣に聞くという行為を行うこと、
もしも価値観を強要されてしまう場合は、それに対してどのように感じているかという構造を丁寧に伝えること、
会社の取引先でワクチンを打っていないと取引しないという場合も、そのような姿勢で「対話」を続けることがまず大事になってくるでしょう。
それでスタンスの違いが違いに受け止められれば、ワクチンを打つとワクチンを打たないの姿勢が違ったままであっても、うまく仕事を続けられる関係性が見つかるかもしれません。
それでも意見が受け止められなければ、残念ながらそれは「分断」と考えざるを得ません。その場合は、自分の気持ちと向き合いながらそれでも付き合うか、それなら付き合いを止めるかという2つの道について真剣に考える必要があるでしょう。
「分断」は社会の中で生きている限り、一定の割合で避けられないことであるように感じられても無理もありません。
それでも「対話の可能性を信じ続けることができるかどうか」です。「分断」を確定させるかどうかは自分の心次第です。
こうして考えていくと「対話とは分断予防法である」という構造が見えてきます。
今この分断極まる現代社会の中で、この「対話」について学び、身につけていく必要性を私は強く感じています。
たがしゅう
プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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まだ対話が怖いです…
自分自身は、そんなに変わっているとは思っておらず、むしろ自分ほど常識人はいないとすら思っています。
もちろん、私の事を全力で肯定してくれる友人もいますし、理解者もいますが、どうやら私の考え方はいわゆる『世間一般』からはずいぶんかけ離れているらしいです。
そんな人生を半世紀近く過ごしてきたので、ずっと『価値観の違う人』扱いを受けて来ました。
オープンダイアローグにも興味があり、こうして先生のブログを拝見したりしている訳ですが、実際対話の場に参加したとして、やっぱり自分の発言が受け入れてもらえないのではないか?という恐怖が拭えません。
何を言っても理解されないという経験の方が断然多かった私にとって、特にこの同調圧力が強く、“みんなと同じが安心”な日本人に受け入れてもらえるという気が全くしないので、対話の場に踏み込む勇気が持てません…
変換ミスです
↓
・・フィンランド発祥の・・
Re: まだ対話が怖いです…
コメント頂き有難うございます。
お気持ちを書いて頂いたことを心より有り難く感じています。
「対話」」の場だと設定していても、「わかってもらえないかもしれない」と思われてしまうということは、その場には安全・安心の「対話」の場となるための工夫がまだ足りないのだと思います。まさに私は「ここならば大丈夫」と思ってもらえるような「対話」の場を作りたいと今思っています。
Re: 変換ミスです
変換ミスの御指摘を頂き有難うございます。修正させて頂きました。
Re: まだ対話が怖いです…
初めて斎藤先生のオープンダイアローグの本を読んだ時、とても素晴らしい手法だと感じたと同時に、果たしてどれだけの人がオープンダイアローグのルールを正しく理解し実行できるだろう?と考えました。
少なくとも、普段職場などで接している人や家族、知人の中にはほぼいないだろうなというのが私の結論でした。
もちろん、練習を重ねていけばできるようになる人も出てくるとは思いますが、本人が本気でやる気になってこその話だと思います。
私は自分自身を見つめ直すため、また私と同じようにいじめで苦しんでいる人の助けになれればいいな、という思いからオープンダイアローグをやってみたいと思うようになりました。
ですが、繰り返しになってしまうのですが、いまの日本でオープンダイアローグを行うには色々ハードルが高いなぁと感じています。
Re: Re: まだ対話が怖いです…
コメント頂き有難うございます。
私の意見では、おそらく社会の中で、あるいは日常生活で触れる人々の中で「対話」を意識している人はほぼ皆無だと思っています。
逆に言えば、「対話」というのはそれくらい自然発生が起こりえない、人為的な工夫だと思っています。
しかも「対話」は1対1では非常に起こりにくいものがあります。それが故に、「対話」というものを実践していくためには人為的なコミュニティが必要だと考えています。
そのコミュニティに「対話」を全く知らない人を招いたとしても、その人を含めて皆が「対話」的でいられるような場、そんなコミュニティが極めて理想的です。全く価値観が異なる人が入ってきても、争い合うことがなくなるような不思議な空間です。
> いまの日本でオープンダイアローグを行うには色々ハードルが高いなぁと感じています。
その点については私も同じことを感じています。
同調圧力、空気を読むことをよしとする文化、権威・専門家絶対主義・・・その要因として様々なキーワードが浮かび上がってきますが、なぜ日本での「対話」が難しいのかに関しては、まだまだぼんやりとしています。今後コミュニティの中の「対話」で一つひとつ明確にしていくことができればと考えています。
もう一つ、「対話」で交流したある人から、次のような意見をもらいました。
「日本でオープンダイアローグを行うことは難しいと感じている。しかしだからこそ日本にはオープンダイアローグ(対話)が求められている」
これは私の中ですごく附に落ちた言葉です。この言葉を胸に難しさをどうすれば克服することができるか、考え続けていきたいと思います。
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