死の権利を本人から奪わない
2021/07/15 18:00:00 |
素朴な疑問 |
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私は本業のオンラインクリニックがまだまだ生計を立てられるような状態にないので、
別のクリニックで在宅診療のアルバイトをすることがあるのですが、コロナ禍で介護施設に入居する高齢患者さんの実情は大変なことになっていると感じています。
一言で言えば施設の「刑務所化」です。とにかく入居されている方の自由が制限されています。
コロナに感染するといけないからろくに外出することもできません。
コロナに感染させられるといけないから息子・娘・孫といった近しい家族との面会でさえ禁止されていたり、面会できたとしてもオンラインかガラス越しの面会といったような事態が慢性的に続いています。
勿論、介護施設の職員さん達は防護服をつけて必死だと思います。入居者の方を守ろうとよかれと思ってやっていることでしょう。
しかし、何かおかしいという気持ちを感じざるを得ません。
もともと施設に預けられる患者さんは、様々な家族の事情で自宅で介護することができないという背景があり、
やむを得ず代わりに診てくれる者として施設の方々へ介護を頼んでいるという構造になっていると思います。
だから預ける以上は施設のルールに従うのは当然ですし、施設が感染対策として面会禁止を言い渡すのであればそこに合理性があって家族が納得できるのであれば受け入れるしかないのかもしれません。
とは言え、順調に過ごしているのであればまだしも、御高齢の方なら体調を崩されることもしばしばです。そんな中でなかなか会えないままに本人の容態悪化や急変を知らされる家族の立場を思うと気の毒に感じてしまいます。
何でこんなことになってしまうのでしょうか。
この疑問について考えると、まずは「死が身近ではなくなったこと」が頭に浮かびます。
人が死ぬという出来事は心理的負荷がかかることだというのは想像に難くありません。
ですが昔は3世代にわたる大家族の家庭が珍しくなく、医療もそれほど発展しておらず入院できる人も限られているような時代では「死」は身近なものとして家庭の中にあったと聞きます。
しかし医療が発展し、保険医療制度の台頭も手伝って、入院することが一般市民にとってそれほどハードルの高いことではなくなり、次第に「死」の舞台は家庭から病院へと移り変わっていくようになりました。
そして一時期は、変死や急死を除いて死の現場は十中八九「病院」である時代が訪れました。
「死」は身近な生活の中から一旦完全に切り離されることになります。だから「死」の現場に携わる医療関係者を除いて「死」について誰も知らなくなっていきます。
死ぬ時にはどういうことが起こり、どういう状態として観察されていくのかについて非医療関係者以外は誰も知らない世界になっていきました。
一方の医療関係者が「死」をよく理解しているのかと言えば、必ずしもそうとは言い切れないところがあります。死ぬ時には呼吸が大きくなったり、小さくなったりしながら次第に浅くなっていくような現象、あるいは点滴をしすぎて身体がむくんでいくような現象を、それぞれの立場で観察された現象を自分にとっての「死」として認識していくようになります。
私も医師としていろいろな「病院での死亡」の在り方を診てきましたが、基本的にあまり清々しい気持ちにはなれません。
なぜならば多くの場合、点滴や胃瘻、人工呼吸器などの延命処置が施されており、もう意識がなくて食事も会話もできないような状態でも命だけは動かされているというケースがほとんどで、
そんな状態で熱が出たり、呼吸が浅くなったりといった本人からの非言語的メッセージを受け取りながら次第に命の灯火が消えていく様子を見ていくプロセスになってしまうからです。
そんな「病院での死」ばかりの状況が続く中、1986年にはじめて在宅診療というものが保険医療の中で認められるようになり、「死」の現場は「病院」だけではなく、再び「家庭」の中へ戻すことができる時代に突入しました。
これで無事に「死」の現場が在宅へと戻っていったかと言いますと現実はそのような方向には動きませんでした。
やっぱりほとんどの人が「病院死」となり、「病院死」と似たような状態として「施設死」が増えるようになっただけで、
「在宅」で家族に見守られながら亡くなるというケースは、ざっくりと見て全体の1割程度にしか満たないのではないかと思います(勿論、地域によって若干の差はあると思います)。
在宅へと訪問診療してくれる医師が増えてきたのに、なぜ以前のように「在宅死」になるケースが増えていかないのでしょうか。
ここで、もう一つのキーワードとなってくるのが「先生にお任せ医療の定着」です。
「死」というものが身近でなくなった一般人にとって「死」というものは大変怖いものです。
「死」についてたいしたことを知らない家族である自分の浅い決断によって万が一にも本人の「死」が引き起こされてしまうような事態が発生してしまおうものなら後悔してもしきれない、だからそんな怖い選択は自分にはできない、「死」に関することはとにかく「死」に詳しいであろう「先生にお任せします」という流れになるパターンは非常に多いと思います。
ところが「死」というものは本来、詳しい誰かにそれに関する決断を委ねるようなものではなく、自分自身が向き合うべきものです。
「死」には必ず理由が存在します。外傷による死は別として、いわゆる病気による内因死については自分の中に要因があるものです。それは老衰も含めてです。
勿論、医療が介入することによって避けられる「死」は確かに存在するけれど、変に医療が命絶対主義を高めてしまったが故に自然な死の流れからは完全に逸脱させる延命治療が大いなる発展を遂げてしまいました。
これによって「死」を医者に任せるという文化にさらに拍車がかかり、形式的には「在宅死」が選べる時代になったにも関わらず、怖くてそれを選択できる人は少数派となってしまったのが実情ではないかと思います。
実はこの流れがコロナ禍において不可逆的なレベルまで加速させられてしまった状況にあるように私には感じられています。
コロナで死ぬという現象も「誰か(何か)によって殺された」という解釈に至り、「本人でない誰か(何か)が介入すればどうにか防げる状態」なのではという気持ちが生まれ、
そして結果的に「自分のせいで死んだなんてことを思われなくない」という意識へとつながって、過剰なまでの感染対策が行われている現在に至っているのではないかと思うのです。
まさにどこからどう手をつけたらいいのかわからなくなるほどに問題はこじれてしまっています。
でも、この状況を是正するために行うべきことの方向性ははっきりしているように思うんですよね。
まずは「死」を自分のものとして受け入れること、です。
でも自分が「死」が近い段階にいる時に頭脳明晰でいられるとは限りません。
その場合には家族や周囲の人に支えてもらうわけですが、その場合も周囲の人達は「死」の権利を本人から奪わないように心がけることです。
「もう死んでもいい」とも「まだ死にたくない」とも意思表示できない状態にあるかもしれません。
事前に「もう死んでもいい」と意思表示していたとしても死の瞬間には気持ちが心変わりしているかもしれません。
そんな状況の中で周囲の人間が本当に本人がどういう気持ちであったかなど知る由もないわけですが、
少なくとも本人の「死」は本人が向き合うべき出来事です。いかなる場合であってもそれが病死や老衰である限り、他人の責任でそれが引き起こされるとは考えないことです。
そう考えてしまうことが過剰な対策を生み、本人の死への権利を奪取することへとつながってしまいます。
「家で家族のいない間に何かが起こったら心配だから」と施設に預ける選択をしてしまう人もきっと多いとは思いますが、
どんなことが起こったとしてもそれを本人の運命として受け入れる覚悟さえ家族にあれば、今の医療環境であればより自然な「在宅死」を可能にする体制を整えることはそれほど難しいことではありません。
介護施設のスタッフもその点さえしっかりと受け入れていれば、過剰な感染対策に終始することもなく、自然の結果を自然に受け止めることができるのではないかと思います。
主体的に「死」に臨むとでも申しましょうか。
「病気を他人のせいにしない」のと同様に「死を他人のせいにしない」という概念も、
当たり前の世の中になれば、再び「死」が身近なものになっていくかもしれません。
そんな世の中になるように私にできることを続けていきたいと思います。
たがしゅう
プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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