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厄介な専門医にならないために

category - 素朴な疑問
2021/ 06/ 07
                 
感染症専門医」と言ったら、昔はあこがれの存在でした。

医学の中で原因不明で長続きする発熱状態のことを「不明熱」と言いますが、

その不明熱に対して、まるでシャーロックホームズのような名推理によって原因を導き出し、そして原因を特定してそれに応じた特異的な治療を提供し、

一般の医者がとうてい気づくことができない病気の原因を理詰めで見つけ出すという意味で、ものすごく頭のいい人達が勢揃いしているというイメージがありました。

なかでもメディアでもしばしば取り上げられる神戸大学病院感染症内科学教授の岩田健太郎先生の影響力は大きくて、私も研修医時代に岩田先生がケアネットTVという医療専門番組で披露された講義を大変参考にしていた時代がありました。この先生はすごいなと心底思ったものです。

ところが今私は感染症学自体を抜本的に見直す思考に至り、その目で「感染症専門医」を眺めたときに、この優秀に見えた集団の裏の側面が見えてくるようになりました。

つまり「常識を疑うという行為から最も離れた立場にいる人達」という見方です。
            

これは糖尿病に対するカロリー制限食を糖尿病専門医が疑えないことや、熱傷治療に対する植皮治療を熱傷専門医が疑えないことと全く同じ構図となっています。

どういうときに常識を疑うべきかと言えば「常識をもとに考えることで現実に矛盾を生じたとき」だと思います。

感染症専門医の常識で今の世の中を捉えてしまうといかに事実と矛盾しているかは、丁寧に世の中で実際に起こっている現象を観察すれば自明である、ということはすでに述べましたが、

たとえば前述の岩田先生は2021年3月の時点においても「ゼロコロナを目指すべき」というにわかに信じがたい目標を掲げています。これは従来の感染症学の常識、すなわち「ウイルス病因論」の立場に立っているからがゆえの意見でしょう。

「ウイルス病因論」の立場に立てば、「ウイルスさえ撲滅すれば患者は決して発生しない」と考えるわけですが、「宿主病因論」の立場に立てば、ウイルス感染症を撲滅するという行為は、「非自己と判断する抗原に対する異物除去反応を間違って駆動してしまう人間を誰一人として発生させない」という行為に相当してしまいます。そんなことはむちゃくちゃです。

人は誰でも生きていればたくさんの「非自己」と出会います。「非自己」との出会いが人生だと言ってもいいくらいです。その中で人は「非自己」と折り合いをつけながら生きていきますが、ときに無理をしてしまったり、誤って非自己を取り込んでしまったりすることがあります。

そんな中で起こってくる身体のシステムを繰り返し使っていくことで、やがて死へと向かっていく生命の大きな流れがあるわけなので、「ゼロコロナ」を目指すのは言わば「不老不死」を目指すことに通じる無理難題であるように「宿主病因論」の立場にいる私からは見えます。

実際問題、死んだウイルスでもPCR検査で陽性になることは非生物からの検体でPCRが陽性になる事実から明らかで、ウイルスが撲滅されていたとしてもPCR陽性者は生まれ、一定の確率で異物除去反応システムのオーバーヒートは起こりえます。つまり「たとえウイルスが撲滅されたとしても、PCR検査が行われる限りウイルス感染症と診断される人はいなくならない」のです。

どうして岩田先生ほどの優秀な頭脳を持つ人が、常識を疑うことができないのか、無理難題な目標を平然と掲げて厭わずにいられるのでしょうか。

ましてや、岩田先生は最近、こんな本を書かれているのです。



考えることは力になる ポストコロナを生きるこれからの医療者の思考法 単行本 – 2021/1/28
岩田健太郎 (著)


この本はエキスパートナースという看護師向けの医療専門雑誌に2015年8月から岩田先生が連載された文章がもとで、

それに最近のコロナに対する論考も付け加えて再構成したもののようですが、

いわゆる「論理的思考(ロジカル・シンキング)」について看護師を中心にわかりやすく説明しています。

それくらい論理的にものを考えることができるはずの岩田先生が、「ゼロコロナ」のような無理難題の発想に至ってしまうのはなぜなのでしょうか。

誤解のないように書き添えておくと、私自身は岩田先生の発言内容を批判したいとは思っておりますが、岩田先生個人を批判しようという意図はまったくありません。

私の興味は「なぜ専門医は常識に矛盾する事実を前にしても考えを改めないのか」にあります。この本を読めばその構造が理解できるのではないかと思い、興味深くこの本を読んでみることにしました。

すると岩田先生、コロナ前には至極まっとうなことをおっしゃっている場面があります。例えば感染力が高く結核と同様に空気感染すると考えられている麻疹について述べた次の一節です。

(p189-191より引用)

話は変わりますが、先日、某病院で麻疹患者が発生したんです。

で、入院したのだけれども診断までに日にちがかかり、すぐには隔離されなかった。

麻疹は空気感染しますから、個室にいるだけでは防御ができません

ウイルスはどんどん遠くまで飛んでいきます。で、現場の看護師はパニくるのです。


「病棟の担当ナースもリスクはありますか?」

「ま、あるかないかと言われればあります。麻疹のワクチンを打ってない人もいたようですし、たとえ打っていたとしても修飾麻疹のリスクもありますから」

「病棟の患者さんは?」

「まあ、高齢者の多い病棟なので、麻疹抗体を持ってる人が多いですよね。でもリスクはゼロとは言えません」

「受診したときの受付の人とかもリスクはゼロではないですか?」

「空気感染ですからね。受診したとき通った通路、そのときいた患者さん、スタッフ、みんなリスクはあると言えばありますよ」

「ええ〜〜〜〜、じゃ、可能性のある人はみんな休職させたほうがよいですか?」

「なんで?」

「だって、麻疹って発症前日から感染力が出るんでしょ。無症状でも”可能性は否定できない”じゃないですか」

「あのですね、その”可能性は否定できない”って思考停止状態ですよ〜〜〜のキーワードなんですよ」

「え?」

「可能性はもちろんありますよ。でも、何にだって可能性はあるのです。今から地震と津波が起きるかもしれないし、隕石が空から落ちてくるかもしれない。”可能性は否定できない”です。

でも、そんなわずかな可能性を全部顧慮していたら、もうノイローゼになって何もできなくなっちゃいますよ」

「だって〜〜」

「確かに、麻疹は空気感染しますけど、だからこそ『程度』の問題が大事なんです。

患者さんをケアしていた濃厚曝露者と、廊下ですれ違っただけの人とを同列に扱ったら、みんな休職でこの病院を閉鎖しなきゃいけないじゃないですか。それで迷惑し、健康を損なう患者さんのリスクも考えてください

そもそもですね。ほんの十年くらい前は日本は麻疹はほったらかしのやりたい放題時代でして、ワクチンの接種率も低く、毎年何万人、何十万人という麻疹患者が発生してたんです。

確かに麻疹は怖いけど、でも大多数は治癒するんです。それがたった一人の患者さんが発生したからって急にパニクるとかおかしいでしょう。」

(引用、ここまで)



岩田先生が麻疹の感染対策をリスクの程度に応じて冷静に行うように諭す場面ですが、

この文章の「麻疹」を「コロナ」に置き換えて、そっくりそのまま岩田先生にお返ししたらどう思われるのでしょうか。

今、岩田先生が「コロナ」に対して掲げている目標は「ゼロ・コロナ」です。そして推奨する対策は「ロックダウン」です。そして「ロックダウン」ほどでもない緊急事態宣言の発出と並行して起こっているうつ病や自殺者の増加、経済の疲弊については目をつぶっています。

「ゼロリスク」を批判する岩田先生こそが「ゼロリスク」に向かってまっしぐらとなってしまっているのではないでしょうか。

「コロナは麻疹とちがって空気感染するとは考えられていない」という反論はあるかもしれませんが、それであればなぜコロナは空気感染しないと言い切れるのか、もしくは空気感染しないコロナがなぜ空気感染する麻疹以上に拡がりを見せているのか、について論理的に説明してもらいたいところです。

また別の章では次のようにも語っておられます。

(p39より引用)

同じ価値観、同じ知識体系、同じ世界観を共有するタコツボに閉じこもっていても、

強い興味関心・好奇心があれば「外はどうなっているんだろう」と飛び出したくなってきます

その「飛び出し」には強いエネルギーが必要なので、多くの人は「面倒くさい」とツボにはまったままなんです。

(引用、ここまで)



医療界のタコツボ的構造に対して異議を投げかける内容ですが、

岩田先生自身も感染症界のタコツボの中に入り込んでしまってはいないでしょうか。

タコツボ構造に気づいている人がタコツボの中に入っていることに気づかないという点は非常に示唆に富んでいると私は思います。言うなれば私自身も他人事ではないということです。


そして岩田先生が言うところの論理的思考を象徴しているのが次の文章です。

(p165-166より引用)

ぼくがいつも教えるのは、議論を長引かせる前に、教科書を読めです。

内科の一番権威ある(オーセンティックな)教科書は『ハリソン内科学』というのですが、

そのため、上の言葉をもっとスローガンっぽくして、ぼくは論よりハリソンと言っています。

水かけ論は時間の無駄。議論が噛み合っても、噛み合わなくても、平行線になったらすぐに調べる。これが肝心です。

(後略。引用ここまで)



つまり「教科書を疑うな」、「常識を疑うな」という思想が岩田先生の根底には流れている、ということです。

これは岩田先生個人に認められる特徴ではなく、感染症専門医全体に当てはまる構造であるように私には思えます。

考えてみれば当然のことかもしれません。感染症専門医になるためには感染症学の教科書を熟読し頭にたたき込んでおく必要があります。

感染症学会に所属し、学会では常識に基づいて知見のアップデートが行われ、同じ常識的価値観を持った人達と交流する世界で生きていくわけですから、

その中で生きている限り、普通に考えて「常識を疑う」という発想は生まれにくいでしょう。

だとすると専門医になることそのものがよくないことなのでしょうか。タコツボに入らずにものごとを考えていくためには、何かの専門医になってはならないのでしょうか。

それは私は違うと思います。ある分野の知識に詳しくなること自体が悪いことであるはずはありません。

要は専門医を厄介な存在をしているのは、ある分野に詳しくなることではなく、常識を前提にしてある分野に詳しくなること、なのではないかと私は思うわけです。

逆に言えば、ある分野に詳しくなったとしても、常識を疑う姿勢さえ持ち続けることができれば、

いつでも自分の専門を手放せる覚悟さえ持ち続けることができれば、厄介ではない専門医になることは不可能ではないはずです。

ただ専門医として有名になればなるほど、手放しにくくなっていくものなのでしょうね。岩田先生を見ているとそれを感じます。

もう一つ、岩田先生が書かれる文章にはどこか人を下に見るようなニュアンスを感じることがあります。

それはつまり上下関係で人を捉えているということです。言い換えれば「素人と玄人を区別する発想」、これも専門医をタコツボから離れなくさせる一つの要因であるように感じられます。

勿論、知識が多ければわかることも多くなるという傾向は厳然としてあると思います。しかし知識の多寡を人間の優劣のように捉える必然性はないとも思います。

知識の多さも、できることの違いもすべて人間のバリエーションとして捉える「水平関係」を大事にすれば、おとなもこどもも、素人も玄人も同じように敬意を払う相手として見ることができるのではないでしょうか。

その敬意を払える部分に自分が気づいているかどうかは別として、です。これはさすがに理想論で、すべての人に同じように敬意を払うなんていうことはさすがに偽善かもしれません。

けれども、少なくともその方向を目指すことはできるように思います。水平関係の中で人生を生きることが厄介な専門医にならないようにするために大切なことなのかもしれません。

おっといけません、「厄介な専門医」という枠組みで捉えること自体が、私も「上下関係」の枠組みに入ってしまっている証拠ですね。


では最後に自分の中で「厄介な専門医」にならないためのコツをまとめて今回の記事を終わりましょう。それであれば他人がどうということは関係ありませんので。

まずは人間関係を水平で捉えること、そして事実と矛盾することがあればたとえどれだけ慣れ親しんだ常識であっても疑うこと、

そして人類全体の益になるために動くことです。

好きな人も嫌いな人も含めて、「人類全体の益」になるように。


たがしゅう
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