感染症学の常識を抜本的に見直す【中編】

2021/05/05 18:00:00 | ウイルス再考 | コメント:2件

前回に引き続き、感染症専門医の忽那賢志先生の書かれた本の内容を見ながら、

感染症学の常識における矛盾点や別の解釈が成立する余地があるという点についてみていきましょう。

まず最初に、前回最後に触れた「ノロウイルスは18個体内に入るだけで感染する」という内容についてもう少し追加で考察してみます。

この情報があるが故に、一般的な医師からは「ノロウイルスは感染力が強い」と解釈されているわけですが、

ノロウイルスが18個以上入ったら、たとえどんな人であっても感染症の発症が確定してしまうのでしょうか。

いや、そんなはずはないですよね。免疫力の違いによって左右はされるはずです。だとしたら「18個」という数値に一体何の意味があるのでしょうか。

それに、じゃあ「ノロウイルスは感染力が強い」のだとして、なぜノロウイルスの感染力は強いのかという分子生物学的なメカニズムは明らかにされていません

あくまでも「急性胃腸炎の患者が集団発生している」という現場があって、そこでノロウイルスの検査をしたらたくさん陽性者が出たという事実から「ノロウイルスは感染力が強い」と解釈されているだけであって、

そこに例の「18個ノロウイルスが体内に入ったら感染する」ことを示す医学研究論文があるというだけの状況です。それは特定の条件でたまたまあてはまった事実というだけで、普遍的に当てはまる事実ではないかもしれないにも関わらず、です。 本当はノロウイルスとは無関係の、別の異物に対する食中毒で急性胃腸炎の患者が集団発生しているだけかもしれないのに、

その人達にコロナPCR検査のように、直接症状の発現に関係のない類似構造物質を引っかけて、「これが原因だ!」と鬼の首をとったかのように宣言しているだけかもしれないのに、

その可能性が検証されることはありません。なぜならば「ノロウイルスは感染力の強い急性胃腸炎を引き起こすウイルス」という価値観から現実に観察されている事象が解釈されているからです。

「その目で見ないと見えてこないことがある」という言葉がありますが、感染症学の目線はあくまでも一つの視点であって、今までは運よく矛盾があまり見えなかったが故にまかり通ってきた視点なのだと私は考えています。

それでは続いて本の内容をみていきましょう。


(以下、p67より引用)

結核のワクチンとしてはBCGがありますが、これは感染を予防するものではなく、重症化を防ぐためのワクチンです。

全身に結核菌が広がる粟粒結核という病態にはなりにくいとされていますが、その予防効果も絶対的なものではありません。

そのため欧米ではBCGを打たない国が大半です。

(引用、ここまで)



引用文の後、新型コロナに対して、BCGワクチンが訓練免疫の復活を通じて重症化予防効果を担っているという説についても語っておられます。

これに関して忽那先生はまだはっきりしたことはわからないという立場、私はすでに過去記事で見解を述べたようにそのような効果があることに対して否定的な見解を持っています。

ですが、ここで私が示したいのはその手の話ではありません。

BCGを打っていない欧米で結核の蔓延が限定的」となっていることの矛盾を指摘したいのです。

以前の記事で示したように、結核というのは少なくともプロフィール上は新型コロナよりはるかに感染拡大しやすいポテンシャルをもっている病気です。

不織布マスクでは防げずN95マスクをつけなければならないことは医療界の常識ですし、新型コロナと違って確実に空気感染する(と考えられている)というのですからね。

しかも「BCGワクチンに感染を予防する効果まではない」とまで言っています。

たとえば、アメリカでの結核はどんな状況にあるかはこちらの記事に詳しく書かれていますが、

簡単に言うとBCGワクチンは打たなかったけれど、ツベルクリン反応などで早期に結核患者を発見し、直ちに隔離して徹底的に濃厚接触者調査をして、無症状感染者が見つかったら抗結核薬の予防内服を行ったことによって、過去数十年に比べて圧倒的に患者数を減らすことに成功したというようなことが書かれています。

でも空気感染しないコロナの無症状感染者でさえこれだけ世界中に患者を拡散させたのです。結核の無症状感染者ではそのような事実が観察されていない、しかもBCGワクチンを打っていないということに大きな矛盾を生じています。

そうなると日本で結核が蔓延していない(結核患者の発生は限定的になっている)理由も決してBCGワクチンのおかげではないということになります。だとすればBCGワクチンには一体何の意味があるのかという話になってきます。

粟粒結核のような重症状態を予防するという目的が唯一言われていますが、忽那先生も言っているようにそれさえ統計学的にはっきりと実証されているわけではありません。アメリカで粟粒結核患者の割合が多いという話も聞きません。

今までの話の流れを踏まえれば、「ワクチンが重症化を予防する」という情報自体を疑うのが自然ではないでしょうか。


(p70-71より引用)

デング熱もおもに海外で流行する感染症です。

マラリアを媒介するハマダラカと違い、こちらを媒介するヒトスジシマカは日本にもいるので、国内で流行することもあります。

2014年には渋谷区の代々木公園を中心に日本国内でデング熱が流行しました。

2019年にも沖縄の那覇市で国内感染が疑われるデング熱患者の発生が報告されています。

(中略)

デング熱の症状は、その名のとおりの発熱のほか、頭痛、関節痛、筋肉痛などです。また、熱が下がってきた頃に全身に皮疹が出るのもデング熱の特徴のひとつです。

(引用、ここまで)



蚊によって媒介される感染症、「デング熱」。2014年は医師の立場でこの騒動を眺めていましたが、

当時医師として「デング熱なんて皆よく診断できるなぁ」と思ったのを覚えています。

というのも、デング熱の症状は他の感染症でも認められる症状ばっかりです。発熱、頭痛、関節痛、筋肉痛なんてインフルエンザを想起する症状そのものです。

熱が下がったあとの全身の皮疹が特徴的だと言いますが、熱が下がった後に皮疹が出たからといってデング熱をまず疑うことは普通ありません。薬や食べ物などのアレルギー反応を疑うのが一般的だと思います。

しかもデング熱は4類感染症でそれほど頻繁に見られる病気ではありません。まともに診察経験がないという医師がほとんどだろうと思います。

そんな医師でもこれはデング熱だと自信を持って診断するために必要なのが検査であるわけですが、このデング熱の検査として第一に推奨されているのが、これまたPCR検査なのです。

PCRはすでにコロナでよくわかったように、ウイルスの遺伝子のごく一部の断片の一致がある場合に、その微小病変をものすごく増幅することで陽性と判定する検査です。

つまり全く同じ遺伝子配列を持ったウイルスでなくても、ごく一部の遺伝子さえ一致していれば、あるいはそのウイルスが感染性を持っているかどうか(生きているか死んでいるか)に関わらず結果は陽性となる検査です。

これだと周りにデング熱の患者が出ているという情報を聞いてはじめて、風邪様症状の患者にデング熱のPCR検査を実施したところ陽性が出たのでデング熱と診断したという医者は相当数いそうです。

ただデング熱の検査はPCR検査だけではなく、抗原検査や抗体検査もあるので、それらも全て実施して総合的に判断されたのかもしれませんが、

それにしてもたとえば抗原検査陰性、抗体検査も陰性という結果になっていたとしても、PCR検査が陽性と出たらまず間違いなく医師はデング熱だと診断して4類感染症として届け出ていた可能性が高いと思います。その結果、2014年のデング熱局所流行につながったわけですが、実際にはおそらく相当数の過剰診断が含まれていたと思われます。

そもそも「近くでデング熱が流行っていた」とさえ言われなければ、検査をしようともしなかったと思います。デング熱の症状はそれくらい特徴のない非特異的症状です。実際、私は当時流行地域で医療を行っていなかったので、同様の症状の患者にデング熱検査を行いませんでしたし、周りでデング熱を検査された医師がいたという話も聞きませんでした。

でも今のコロナ騒動を踏まえて振り返れば、もしもあの時デング熱のPCR検査をしていたら一定の確率で陽性者が出ていたかもしれないと思えてしまいます。

その後デング熱騒動は水を打ったように静まりましたが、あれだけ流行になったというのになぜデング熱患者は現れなくなったのでしょうか。蚊を媒介して感染するということですが、たまたまデングウイルスを保有する蚊がうまいこと死んでくれたからなのでしょうか。

同じようなことは2002年のSARSの時も観察されています。SARSは今の新型コロナ(COVID-19)と似た性質を持っているウイルス感染症だそうですが、なぜあの時は世界中に拡散されずに済んだのでしょうか。

あの頃も近年ほどではないにしても中国と日本とで人々の交流はあったはずです。それがたまたま広がらずにうまく水際対策が行われたおかげなのでしょうか。それとも当時の中国政府の感染対策がバッチリだったからなのでしょうか。2021年5月現在、中国ではワクチン接種の影響もあってか、少なくとも統計上はかなり感染者数が抑えられていますが、

それでもゼロにすることができていない状況であるにも関わらず、その20年近く前の対策で撲滅させるまでに感染対策がうまくいったということでよいのでしょうか。

私はそう考えるよりも、次のように考えた方が自然だと考えます。デング熱が収束したのもSARSも収束したのも、「PCR検査が行われなくなったから」だと私は考えます。もっと言えばPCR検査を行おうと思うほどの情報が周りで聞かれなくなったためだと思います。

たとえば今だって、コロナの重症者に対してSARSのPCR検査が行われているでしょうか。COVID-19の重症者とSARSの重症者の症状はそっくりですから、区別するためには両方のPCR検査を行う必要がありますが、そんなことがされている現場からの声は聞きません。なぜならばSARSが周りで流行っているという情報がないからです。

あるいは病状によってはデング熱そっくりの状況もおおいにあると思いますが、その時にデング熱のPCR検査が行われていますでしょうか。されているという話は一切聞きません。なぜならばデング熱が周りで流行っているという情報がないからです。

2019年に沖縄でデング熱の患者が発生したことを忽那先生は紹介していますが、2014年にあれだけ流行したデング熱が、今回はたまたまその患者一人だけで済んで、デングウイルスを保有した蚊がうまいこと絶滅してくれたのでしょうか。可能性はゼロではないかもしれませんが、極めて低い可能性だと考える方が妥当でしょう。

そのように「今はコロナが流行っている」という情報を下に発熱患者を診てしまうとその患者がコロナ患者にしか見えなくなってしまうと、それくらい感染症の症状というのは大きく似通っているのです。

勿論全てのウイルス感染症が同じような症状とまでは言いません。しかしながらどの場所を中心に異物除去反応が駆動されたかという観点でみれば、同じ場所を中心に異物除去反応を起こすウイルスどうしはその症状がとても似通っています。

同じように呼吸器を中心に異物除去反応が惹起されるインフルエンザウイルスやライノウイルスやRSウイルスやコロナウイルスはすべて症状が非常に似通っています。だからこそこれまではこうした状態を一括して「風邪(症候群)」として理解していたわけです。

ところがこれをPCR検査によって「新型コロナウイルス感染症」だと認識し始めたことが間違いの始まりです。今までと同じ現象に違うラベルが貼られたことによって世界中の医療者が「風邪」を「風邪」として診られなくなってしまったという実情があるように私は思います。


(p107-109より引用)

(前略)

新型コロナウイルスには、インフルエンザウイルスなどとは違う感染性(うつりやすさ)があったことが、短期間で広まる要因のひとつになりました。

それは、「感染者が発症する前後に他人にうつりやすい」という性質です。

その可能性をかなり早い段階から指摘していたのが、「8割おじさん」として有名になった西浦博先生でした。

中国での感染事例を解析した西浦先生は、2020年2月中旬の時点で、潜伏期間と感染者が次の感染者にうつす期間との比較から「発症前から感染性があるんちゃうか」とおっしゃっていました。

これは、私のような臨床医の感覚からすると、にわかには信じられませんでした。これまで、呼吸器系の感染症は発症してからが感染性のピークになるというのが私たちの常識だったからです。

(中略)

だから、現場の臨床医としては、にわかには信じられないというよりも、あまり信じたくない気持ちでもありました。

しかしその後、西浦先生の見立てが正しいことを裏付けるデータが集まり、新型コロナには発症前から強い感染性があるという「非常識」な性質が明らかになりました

(引用、ここまで)



コロナの基本再生産数が2〜3.5と他の感染症と比べて取り立てて高いわけでもないにも関わらず、世界中に拡散した理由を説明する「コロナは発症前に感染する」仮説が生まれた経緯が書かれています。

これもしっかりとした仮説検証を行わずに、実際の事象を一面的な見方で捉えて決めつけるという感染症学の悪いクセが非常に悪い形であらわれてしまった代表例だと思います。

その仮説が生まれた詳細な理由が書かれていないので断言はできませんが、要するにこの仮説が生まれたのはこういうことだと思います。「発症前から感染性があったと考えるしかこの世界中への感染拡大の理由はデータ上説明できない」と。

ところがご存知の方も多いようにコロナにおいてはPCR陽性者がイコール感染者だと判定される愚考が未だに繰り返されています。この「本当は感染者ではないにも関わらず感染者と扱われてしまっている人達も含んで感染症の拡がりを解析してしまった」から、感染症が広がった理由が「発症前に感染力を持っていたから」だとする前代未聞の仮説を生み出すに至ってしまったのではないかと思うのです。

嘘には基本的に目的がありますから「嘘」ではないにせよ、「誤解」を「誤解」で塗り固めてしまった状況だと私は思います。そしてその誤解を解くための作業が一般人には容易ではなく、それ相応の実験を行わなければならないにも関わらず、それが感染症学の常識によって妨げられてしまっている実情があるのではないでしょうか。少なくともそう解釈することは可能であるはずです。

本来であれば、本当に無症状感染者が発症する前から感染力を持っているのかについて実証実験を行わなければならないわけですが、その感染しているかどうかの判定方法が未だにPCR検査しかない(あるいはもっと精度の低い抗原検査)ので、無症状感染者の感染力を示す医学論文は数あれどそのすべてを眉につばをつけて読む必要が出て来るわけです。


・・・ここで前回までの考察も含めて、感染症専門医がとりがちな行動というのが浮かび上がったのでシェアしておきましょう。

それは、感染症専門医の論理はすべてデータやエビデンス(医学論文)に基づいているということです。そういえば同じ感染症専門医の岩田健太郎先生もそうでした

それは一見非常に科学的な態度であるように思えるかもしれませんが、そうではないのです。権威の先生が出したデータであろうと、有名医学雑誌の研究結果であろうと、事実に即さないデータがあれば論文自体の結論を疑わなければなりません

感染症専門医の先生の意見はすべてデータやエビデンスが正しいという前提で構成されており、「この論文ではこういう結果が出ていますが、この事実から否定的だと考えられる」といった内容の意見は全く出てこないのです。

医学論文の世界は玉石混淆、都合の良いデータだけを出していたり、非常に一面的な側面だけしか表現できていないことはザラにあります。だからこそ事実と照らし合わせながらこうした情報を活用する姿勢が必要なわけですが、感染症専門医でそれができている人を、少なくとも公的な発言を読む限り私は確認したことがありません。

エビデンス中心主義は感染症専門医に限った話ではなく、医療の各専門領域で普遍的に認められる現象ではあるのですが、取り扱い対象が目に見えない微生物だという点で、第三者による仮説検証が難しいという点で感染症専門医は特に歪みやすい構造があるのかもしれません。

そう言えばマスクによる感染予防効果も実証されないまま突き進んでしまいましたね。そんなところに感染症学の特性が如実に表れてしまっているように私は思います。


まとめると従来の感染症学には次のような特性があるというわけです。

・感染症学を構成する論理は既存の価値観に基づいて作成された医学研究論文を論拠としている
・感染症学は偏った視点(既存の価値観)だけで事実を捉え、矛盾が生まれても既存の価値観に基づく強引な論理で埋め合わせ、なおかつその論理の妥当性を確認しないまま次の話に進めてしまう傾向がある


さしあたり、マスクによる感染予防効果が本当に正しいのかどうか、誰もが納得する形で実証するところからはじめてもらいたいものですが、

それができないところに感染症学の根深い闇があるように私は感じる次第です。

もう少しだけ、感染症学の常識を見直す作業を続けたいと思います。


たがしゅう
関連記事

コメント

No title

2021/05/07(金) 13:31:36 | URL | 一読者 #-
たがしゅうさま、こんにちは。

> それ相応の実験を行わなければならないにも関わらず、

「pcrは、rnaウイルスの検査に使ってはならない」の著者、徳島大学の大橋眞名誉教授は、昨年から「学びラウンジ」と言う動画でずっと実証実験をすべきだ、その大切さを指摘されてきました。

机上の空論や不適切なct値でのpcr活用(適切なct値は25〜せいぜい35にも関わらず日本は40〜45)で、人々の生活を脅かす政策がまかり通ってしまうこと、ドイツなど海外では弁護士や専門家たちがその違法性を指摘して活動しているのとは程遠い日本の現状にやりきれない気持ちでいっぱいです。

Re: No title

2021/05/13(木) 09:20:49 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
一読者 さん

 コメント頂き有難うございます。

 大橋先生の主張は著書「PCRは、RNAウイルスの検査に使ってはならない」を含め、拝見させて頂きました。非常に論理的で説得力のある内容であったと思います。
 
 2020年12月11日(金)の本ブログ記事
 「コロナのPCR検査は何を調べているのかわからない」
 https://tagashuu.jp/blog-entry-1856.html
 もご参照ください。

 こうした主張はもとより、世間の動きを見ておりますと、
 少なくとも私の中で、今世の中が科学的に正しいことで動いていないことは明らかです。
 そして科学的に正しいひとつのことに世の中の意見を統合させることは不可能だと思っています。

 そんな状況の中、私は今、「オープンダイアローグ」という手法を勉強中なのですが、
 その中で異なった意見を統合するのではなく、そのまま漂わせるというアプローチに関心を寄せています。

 「統合しようとしなくてよい」、「私は私、あなたはあなた」を尊重することで、
 かえって私の中の多様性が広がっていくという体験を繰り返しています。

 ひょっとしたら、そのように意見を漂わせることが、批判を繰り返すことよりも共同的な動きを生み出すのかもしれないと思い始めています。理不尽な試みに対して批判をしたい欲求は都度湧き上がってきますけれどもね...。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する