人が死ぬ瞬間まで幸せでいるために大事なこと

2021/02/23 18:00:00 | ふと思った事 | コメント:0件

森田洋之先生の「うらやましい孤独死」を読んでもう一つ感じたことがあります。

それはアドラー心理学をもたらしたアルフレッド・アドラーが、「幸せとは貢献感である」と喝破した本質的な理由です。

なぜ「うらやましい」のかと言えば、「普通は幸せであることが難しそうな状況において幸せそうに見えているから」なのではないかと私は思います。

実際幸せであるかどうかは本人のみぞ知る世界なので、相手が「死」ともなればそれは知る由もありませんが、

少なくとも周りからみて「幸せそうだ」と思えるからこそ、「うらやましい」わけですから、「うらやましい孤独死」を遂げるためには、どのようにすれば幸せになることができるのかという命題に通じます。

その幸せになるための秘訣が「他者貢献」だというのです。その理由の大きな部分が今回の本を読んで見えてきたように思います。 「うらやましい孤独死」を遂げるための要件を満たすために森田先生が非常に重要視されていたのは「社会的なつながり」でした。

その「社会的なつながり」を構築するための方法論として、その型破りな手法が世界で注目されている神奈川県の介護施設「あおいけあ」であったり、

現在森田先生が開業したクリニックで関わっておられる鹿児島県の小規模多機能介護施設「いろ葉」の取り組みが紹介されていました。

いずれも「老化が進み、認知機能が低下した高齢者の方々の人生をさりげなくかつ個別的に上手に支えている」という点が大きな共通点であろうと感じました。

例えば、「あおいけあ」が行っている介護活動として次のような例が紹介されていました。

80代で独居の女性、こどもとは死別し、親類縁者はほぼなし、次第に認知症になっていき、ゴミ出しや掃除が難しくなり、自宅が徐々にゴミ屋敷になっていったというケースです。

このままでは日常生活に支障を生じ、事情を知らない周りの人達との関係も悪くなってしまいます。

そこで「あおいけあ」がとった対応は、まずその女性宅に2名の職員を向かわせて、とにかく本人との信頼関係を得るために様々なことをしていくというのです。

最初は玄関での挨拶から立ち話から始めます。相手が認知症であっても「この人は良い人、この顔は大丈夫」という感情とリンクした記憶は残りやすいといいます。

次第に打ち解けた関係になってきたら、今度は「地域の掃除をしたいのだけど、人手が足りなくて困っているんです。手伝ってくれませんか?」と誘ってみます。

すると認知症はあっても足腰に不自由のない彼女は「あなたがそう言うなら」と外に出てくれます。

そして掃除のあとで「ありがとうございました。汗をかいたでしょう?一緒にお風呂に入っていきませんか?」と誘ったところ、「あんたが言うならそうしようかね」と1年ぶりに入ってくれた、というのだそうです。

「いろ葉」の例としては次のケースが挙げられています。90代女性でこちらも重度の認知症のある方です。

山中にぽつんと存在する集落での認知症の高齢者の独居状態で、次第にもの忘れの程度がひどくなってきたそうです。

しかし「この集落から離れたくない」という気持ちは強固に持ち合わせていた。「いろ葉」のスタッフはその想いを最大限に支えるため、食事や掃除など彼女自身では困難になって日常生活動作をさりげなくサポートするという対応をされていたそうです。

重度の認知症になっても昔からの習慣で身体に染みついている作業は忘れないもので、お米を炊いたり、畑仕事や布団の上げ下げなど、自分でできることはそのままやり続けてもらうという支え方をしていたそうです。

その結果、集落の仲間達との談話もこれまでと同じように楽しむことができ、認知症であっても有意義な時間を過ごされていました。

その後も「いろ葉」の献身的なサポートのおかげで、彼女は最期の最期まで生まれ育った集落の中で過ごすことができたという話です。


さて、両者の取り組みをみて、人が死を迎える最期の瞬間まで幸せでいるために重要な要素として、次の2点があると私は思いました。

①「必ず訪れる自分の機能低下の部分を社会のつながりが支えてくれる」
②「自分がどのように生きることを望んでいるかを社会のつながりがわかってくれている」


①だけであれば、今の病院や施設であっても十分にその機能は果たしてくれていることでしょう。

ですが重要なのは②の部分です。逆に言えば②の部分が決定的に欠けているが故に、死の瞬間がうらやましいと思われない最期を迎える人が後を絶たないとさえ言えるのではないでしょうか。

社会的に深くつながることができていれば、その人の人となりがわかり、「〇〇さんがそんなことを望んでいるはずがない」といった周りの共通認識もできやすいので、

たとえ老化で本人の判断が衰えてしまったとしても、その欠けてしまった部分を社会的なつながりがカバーしてくれる状況が生まれやすいわけです。

ただ、それくらい自分のことを知ってもらうためには、相当に深いつながりが必要です。ですから大体自分のことを一番知っているのは多くの場合血縁の家族であろうことは相場が決まっています。

しかし血縁の家族であっても、核家族化が進み、長く別れて暮らすことが稀ではなくなった現代社会において、血縁ということにあぐらをかいて十分なコミュニケーションが取れていない人はどれだけ多いことでしょうか。

そしてある時急に死期の近い本人の重要な決断に対する意見が求められ、本人がどのような希望を持っているか知らないにも関わらず知っているようなスタンスで扱われ、

病院や施設が言う医療の常識に促されるままに決断して結果的に本人にとって不本意な選択を何の疑いもなく進めてしまうというパターンが今の医療の中で常態化してしまっています。

それが証拠に、医師として患者本人の生前意思(リビングウィル)を家族に尋ねる場面では、十中八九その家族は困ります。「先生にお任せします」と返されるケースも多いです。

よく知らない血縁家族の意思についての重大な決断を代わりにしろと言われても多くの家族にとって荷が重すぎるのです。

しかしこれがもし、本人の人となりをよく知っている人達がたくさんいて、そうした人達が意見を出し合いながら「〇〇さんだったらきっとこんな風に思うんじゃないかな」とまとめていくことができれば大分負担は和らぐような気がします。

その場合血縁家族だけに限らない、その人がそれまでに構築してきた「社会的なつながり」が足りない部分の埋め合わせをしてくれる存在になってくれます。

しかし赤の他人が血縁でもない人のことをそこまで親身になって考えてもらうことは普通に考えれば困難です。

けれど逆の立場で考えてみて、相手が誰であったら自分のできる最大限の協力をしようと思うだろうかと言えば、

それはやはり「いろいろとお世話になり続けている方」ではないでしょうか。

「いろいろとお世話になった方」では少し弱いです。現在進行形でお世話になり続けている方のことであれば、血縁でなくとも真剣に協力体制になってくれやすいのではないでしょうか。

つまり、相手にそのように思ってもらい、いざという時に自分の欠けた部分を補ってくれる「社会的なつながり」を作っていくための必要不可欠な要素こそが「他者貢献」だということです。

誰かのためになることをひたすら繰り返して生きて行けば、きっと自然にいざという時に自分を助けてくれる「社会的なつながり」は出来てくるはずです。

だからそういう生き方は「幸せ」になれるのではないでしょうか。

もちろん、頭さえはっきりしていれば死ぬ直前であっても「自分はこうしたい」という意志を表示することはできるでしょう。

しかしそれは誰にも保証できるものではありません。自分だって認知症になってしまう可能性はゼロではないのです。

そうであるならば、自分の欠けてしまった認知を、社会に補ってもらうことによって、老いてもなお最期まで自分らしい生き方を成し遂げることがとても大事な視点なのではないかと思うのです。


そのように考えていくと、「社会的なつながり」を求めていきることは究極的には人生を不滅にする行いであるようにさえ思えます。

「社会的なつながり」によって自分の欠けた部分は補われ、自分が亡くなっても自分の意志は受け継がれ、まるでいつまでも自分が人類全体として生き続けているかのようです。

そこまで言うと言い過ぎに思われるかもしれませんが、でもきっとそうした「誰にとってもいいと思えること」が伝承され後世の人達に受け継がれて実際に世の中の役になっていくことで時代は流れているのではないでしょうか。

だから「社会的なつながり」を作るための「他者貢献」の「他者」は特定の誰かではなくて、

基本的に「人類全体」で向けての「他者貢献」であるべきだと私は思っています。そうでなくては苦労して受け継ごうかと思ってもらえるはずもありません。

そして一方で「他者」に興味を持ってもらうために、「自分」というものをはっきりと指し示すことも同じく重要なことであろうでしょう。

「自分はこのような考えを持っている人間だ」ということを自分の頭で考え続けて示し続けること、

そうであってはじめて、「他者」が「自分」の考えを推測できるというものです。

だから「自分とはどういう人間か」を「自分の頭で考え続ける」こと、

そしてそんな「自分」にできる「他者貢献」を自分のできる範囲で行い続ける人生こそが幸せの基本法則なのであろうと私は考える次第です。

「社会的なつながり」を作るなんていうことは、はっきり言って口で言うほど簡単なことではありません。

ですが「自分は何を好み、何を恐れ、何に怒り、何を悲しむ人間か、何に喜びを感じ、何をすることで幸せを感じることができる人間か」を考えることから始め、

そのように考え続けて浮かび上がって「自分」が「他者」という名の「人類全体」に対して何ができるかということを考えて、実際に行動を起こしていくというステップだと理解すれば、

少しずついつか自分を助けてくれる「社会的なつながり」は構築することができるのかもしれません。

・・・理想論でしょうか。でもおぼろげながら目指すべき方向が見えてきたように思います。


たがしゅう
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