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「うらやましい孤独死」書評

category - おすすめ本
2021/ 02/ 22
                 
鹿児島で同じ病院で働いたこともある医療経済ジャーナリストの森田洋之先生の新著「うらやましい孤独死」を拝読しました。



うらやましい孤独死――自分はどう死ぬ?家族をどう看取る? (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2021/2/19
森田 洋之 (著)



前著「日本の医療の不都合な真実」でも日本の医療の仕組みの根の深い問題点を大きな説得力を持って指摘する鋭い内容でしたが、

今回の新著でも医療従事者にとって非常に痛いところを突かれる内容となっています。

「孤独死」という言葉にはかわいそうとか、悲惨だとか、一見してネガティブな印象を持つ方が多いのではないかと思いますが、

「うらやましい孤独死」とはどういうことなのか。それは「死の直前まで自分の想いを全うすることができた逝き方だった」ということなのだというのです。
            

以前にも触れましたが、森田先生は2007年に医療崩壊で財政破綻した夕張市で2009年から4年間赴いてそこでの医療に携わられた経験をお持ちですが、

その経験が非常に有意義であったのだろうなと感じさせられます。今回の「うらやましい」と感じられる「孤独死」に出会われたのも夕張市での診療経験の中でのことでした。

いわゆる「ピンピンコロリ」のケースで、好きなように生きて、ある日コロッと亡くなっているというパターンも「うらやましい孤独死」と聞いて頭に思い浮かびますし、森田先生も冒頭にその例を挙げられていましたが、

そのような「ピンピンコロリ」だけではなく、様々な「うらやましい孤独死」を夕張市での診療の中で経験され、森田先生は「うらやましい孤独死」には次の2つの要素があることを指摘されています。

・「死」までに至る生活が孤独でないこと
・誰にも訪れる死への覚悟があること


例えばということで、認知症がありながらも地域の人達の支えを受けながら、何とか独居での在宅生活を継続している90代のおばあちゃんの例を引き合いに出され、

そのおばあちゃんがこれまでの人生の中で、様々な人達とつながりを持ち固い絆で結ばれていたが故に、認知症で若干の生活障害があってもそれを周りの人達がさりげなく見守ることで破綻せずに済んでいたし、

生まれ育った土地への愛着が強固に形成されていたが故に「いつまでもここで生きていきたい」という気持ちが生まれ、ひいては「何があっても病院や施設には入りたくない」という確固たる意志を持つことができたと、

なおかつそのおばあちゃんの御家族も本人の意志を尊重し、離れていても何が起こったとしてもすべてを受け入れる覚悟を持ってできるサポートを行い続け、最後は希望通り自分の生まれ故郷で逝くことができたと、

それが「うらやましい孤独死」だと感じられると森田先生はおっしゃいます。


これは温かい家族に囲まれて素敵な人生を送ることができた「うらやましい」おばあちゃんの話で、

「孤独死」という言葉とは大分かけ離れている印象を受けるかもしれません。

死ぬ瞬間は誰もが孤独で当たり前なので、「孤独死」という言葉で取り立てて強調する必要はないケースかもしれません。

しかし森田先生が問題視されているのは、その裏でほとんどの高齢者がこのようなうらやましい死に方ができていないということの方で、この部分が医療関係者にとってはなかなか耳の痛い話です。

つまりほとんどの高齢者は、老化に伴って身体や認知の面で日常生活を送る上で基本的な障害を生じた時に、

医療従事者から入院や施設入居を勧められ、人生の最期の時期にいきなりそれまでの生活とは全く違う環境に押し込められてしまっている
ということです。

しかもそれを医療従事者は100%善意で勧めています。起こっている現象が「病気」であれば「入院した方がいいですよ」、起こっている現象が「障害」であれば「介護が大変であれば施設に入られることも考えた方がいいかもしれません」と。

本人はともかく、少なくとも家族は医師などの専門職からそのような助言を受ければ、よほどの予備知識がない限りは何の疑いもなく従ってしまうことでしょう。

また当の本人も、夕張のおばあちゃんのように「入院は絶対にしない!」という確固たる意志がない限り、やはり医師のすすめに従ってしまうことがほとんどではないかと思います。

「病院や施設に入っていれば安心・安全」、その意識は本人・家族・そして医療従事者の中で強固に存在しています。

ところが、その実情は一定のルールの下で本人の自由を奪い、それまでのつながりを突然分断させられる場所へと収容させられる行為なのだということです。

そんなはずはないだろうと一般の方は思われるかもしれません。しかし、病院や施設という場所がどんなところかを内側から知っている身としてはこれは認めざるを得ない話です。

身体的に自由で認知面も問題ない若い人であればまだしも、高齢で身体機能も認知機能も低下した方にとってはこの制限が大きな不利益をもたらしてしまうことはよくあります。

入院して一気に体力がなくなったり、せん妄といって一過性の興奮性意識変容といった現象はまれでなく起こります。

そして究極的に体力の衰えた高齢者は退院すること自体も叶わず、あるいは終の住処として施設にいることを選択した高齢者も、人生の最期をそれまでの人生で構築したつながりとは無縁の世界で終えられる結果へとつながってしまうというのです。

多くの場合、安心・安全の医療が本人の意志不在の下でもたらすものは延命治療だと相場が決まっています。

病院や施設で胃瘻、気管切開、人工呼吸器、あるいは様々な点滴チューブ、尿を出すためのバルンチューブにつながれて、ただただ天井を見続けるだけでベッドで寝たきりになっている高齢者を私も幾度となく目にしてきました。

これは病院や施設のスタッフに24時間体制で看護・介護されて孤独ではないかもしれないけれど、決して「うらやましくない死に方」なのではないでしょうか。

だから「うらやましい孤独死」で人生を終えるためには社会の中でつながりが大切だということで、

特に今はコロナ禍でソーシャル・ディスタンスなるものが急速に受け入れられ、社会の中でのつながりが失われてしまいやすいという危機的な状況を踏まえながら、

それでも社会の中でのつながりを構築していくための具体的方策について、この本の中で詳しく紹介されています。

夕張市は医療崩壊しても、救急車の出動要請が半分に減り、死亡率はほぼ不変で、医療費はむしろ減少するという驚くべきデータをはじき出しましたが、

それは長年地域の中で培われてきた「社会的なつながり」があったからこその芸当で、どこの地域でも医療崩壊したら同じような結果が出て来るとは限らないのかもしれません。

本書の後半に書かれている「社会的なつながり」の具体的な作り方の話も面白いので、興味のある人は是非手に取って読んで頂ければと思いますが、ここから先は私の感想です。


やはり今の医療は一定の価値観を押しつける偏ったものとなってしまっていることを強く感じます。

よほど強く自分の考えを持っている人でない限りは、その医療の常識にあらがえずに従い、結果的に自分の生きたい人生が生きられなくなってしまうという不幸がデフォルトのようになってしまっています。

私がよく言う「お医者様にお任せ」の構造が、あらがうことのできない現代医療の常識の波で多くの患者を飲み込んでしまっている状況のように思えます。

今回の森田先生の本で指摘された内容の裏側である「うらやましくない病院死・施設死」はその氷山の一角であるように私には感じられるわけです。

「健康のことは医師に任せておけば間違いない」という歴史の中で長年培われてきた患者意識もそうですし、

現代医療は現代医療で、科学的根拠に基づく医療の名の下に、病気の原因を患者の外に求め続けるという論理に偏って発展し続けてきた部分があります。

本当に自分の人生を決めていくためには自分の中に病気の原因を求め、それに対してどのように生き方を改めていけばよいかということについて患者が中心となって、それを周りの医療従事者が支える形で意志決定していく必要があるわけですが、

それをさせない医療の常識的価値観が強固に私達の中に根付いてしまったことが大きな問題だと私は思います。

つまり現代医療は高齢になればなるほど、「受動的医療」とならざるを得ない構造をとってしまっているということです。

これを患者自身が望む方向へ軌道修正するためには「主体的医療」の構造にならなければならないわけですが、

それをするためにどうすればいいかということが多くの人はわからないままです。だからこそ依然として「受動的医療」の構造は変わらないということです。

本書の中に「高齢になると医療による限界が来ることも多い」という一節がありましたが、

どこからが医療の限界が来ると明確に分けて考えることはできるのでしょうか。

私は高齢だから医療の限界が来るのではなく、もともと限界がある医療行為を行っているのが現代医療の本質だと思っています。

なぜならば本来は自分の中にある病気の根本的な原因をどこかに置き去りにしたままに、本質的ではない原因を外に求めて見かけ上それを解決したように見せかけて、

解決していない根本的な問題が水面下で潜在的に進行し続けてしまうというのが現代医療が提供しているものの構造だと私は思うからです。だから限界は高齢になるならないに関わらず、現代医療に依存している限り必ずやってきます。

そして、もう一つ社会的なつながりは確かに大事です。

ですが、それはいつか死ぬ時のために備えて作っておくというよりは、

人生そのものを有意義にするために常に構築し続けていくという意識が大事だと思いました。

誤解を恐れずに言えば、「いつ死んだとしても有意義だったと思えるような生き方」を心がけるということです。

そのためには人生における「死」というものをニュートラルにかつ当然のものとして受容すること、

それによって森田先生の言うところの「誰にも訪れる死への覚悟」というものが構築されていくのではないかと思うのです。

夕張のおばあちゃんだって、死ぬ時のためにみんなとつながりを作っておこうと思って「社会的なつながり」を作ったわけではないはずです。

結局のところ、私達は自分がいつ死ぬのかについて永久に知ることができない人物です。医師が言うところの余命予測もしばしば外れることは医師自身である私がよく知っています。

であれば死のために何かしらの準備をしようというのはあまり現実的ではありません。準備をしている途中で死が訪れる可能性だってあるからです。

それはいわゆる終活と呼ばれる活動に意味がないという意味ではありません。ある程度事前に準備しておいた方が後々スムーズだということはもちろんあるでしょう。

そういうこととは別に、死というものを受け入れた上で、まるで金太郎アメのようにいつ死んでも大丈夫な生き方を普段から心がけておくこと、

そうすれば社会のつながりというものを作ろうというハードルは幾分下がるのではないかと私は考えます。

とは言え、患者の判断が受動的なままである以上は、これからも従来の病院や施設の仕組みは求められ続けるでしょう。

自分がこうしたいという意志がない限り、医療者としては文化的にも倫理的にも延命処置や画一的患者管理を行うより仕方がないからです。

自分の意志というものを患者一人ひとりの中に生まれてくるようにするためのサポートを、

私は私のやり方でこれからも続けていきたいと思います。



たがしゅう

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