Post

        

「細菌感染症」的な状態と「ウイルス感染症」的な状態の違い

category - ウイルス再考
2021/ 02/ 18
                 
「細菌感染症」と「ウイルス感染症」の本質的な違いについて深めます。

ややこしかったこれまでの考察の重要部分だけおさらいしますと、次の通りです。

「細菌感染症にもウイルス感染症にも自己システムがオーバーヒートしている部分がある」
(病原体が消失しても症状が遷延するケースがある)

「細菌とウイルスの中間的な存在があり、細菌の構造を持ちつつウイルス的に振る舞う細菌(マイコプラズマ、クラミジアなど)、ウイルスの構造を持ちつつ細菌的に振る舞うウイルス(ヘルペスウイルス、B型肝炎ウイルス、HIVなど)の双方が存在している」

「病原体として認識して、治療対象として攻撃するためには、少なくともDNAのような安定構造があることが重要な要素であるようだ」


これらを踏まえて、「細菌感染症」「ウイルス感染症」という現象を広く捉えますと、次の3つのパターンに分類されるように思うのです。
            

①自己増殖可能な安定的病原体の増殖による感染症(ほとんどの細菌感染症)
 「非自己」の認識による発炎>>「自己」システムのオーバーヒート
②自己増殖不能な安定的病原体の増殖による感染症(一部の細菌感染症、一部のウイルス感染症)
 「非自己」の認識による発炎≦「自己」システムのオーバーヒート
③自己増殖不能な不安定病原体の増殖による感染症(ほとんどのウイルス感染症)
 「非自己」の認識による発炎<<自己システムのオーバーヒート


「自己増殖可能な病原体」というのは、マイコプラズマやクラミジアなどの偏性細胞内寄生菌を除く、細胞壁を持ち「自己」の環境を維持し、その秩序を増殖という形へ子孫へ引き継ぐことのできる生命体のことです。

これの特徴は、物理的に増殖し、環境が優勢になれば際限なく数を増やし続けて塊をなすことできるという点です。

敗血症という宿主の免疫システムで細菌の増殖を抑えきれず、本来無菌の血液の中を細菌が循環してしまうような状態においては、しばしば主病巣と呼ばれる場所に増殖した細菌の塊を作ります。

この塊が存在して、「自己/非自己」を区別する免疫担当細胞と接触し続けている限り、「非自己」の認識による発炎反応は惹起され続け、それに伴って「自己システムのオーバーヒート反応」が起こり続けます。

ただ以前の記事でも触れましたように、一定以上自己システムがオーバーヒートさせられ続けると、もはや発炎のきっかけとなった「非自己」たる細菌が存在しなくても、そのまま自己システムはオーバーヒートさせられ続けてしまいます。

これが①のケースで、多くの細菌感染症がこの構造に当てはまります。おそらく医療者はウイルス感染症もこれに近い構造で理解している人がほとんどでしょう。

ところが実際には「ウイルス感染症」は②か③の構造に該当します。また、マイコプラズマやクラミジアなどの「偏性寄生性細菌」による一部の「細菌感染症」も②の構造に該当します。

②が、①と決定的に違うのは、発炎を惹起するのは「自己増殖不能な安定的病原体」なので、必ず「自己システムを構成する細胞の数以上に自己システムがオーバーヒートさせられることはない」ということです。

ウイルスは単独で増殖することはできない生命体です。ウイルスの病原性が発揮されるためには必ず増殖するための土台となる「細胞」が必要です。

言い換えれば、「自己」細胞の範疇を超えてこの病原体が増殖することはなく、どれだけ病状が進行してもこの病原体は「塊を形成することはない」ということを意味しています。

現にどれだけ重症のウイルス感染症患者であっても、肉眼的に観察可能なウイルスの塊を呈した報告は世界に一例もないと思います。

ということは「ウイルス感染症による症状はどこまで行っても自己システムの範疇を超えない」ということです。

自己細胞に感染しないと増殖することができない「偏性寄生性細菌」も基本的には同様の構造をとりますが、「偏性寄生性細菌」の場合は細胞質内で細菌塊を形成することはあります。これを「封入体」と呼ぶことがあります。

一方で、ほとんどのウイルスは②ではなく③の構造をとります。②と③の違いは感染症の原因となる自己増殖不能な病原体が安定であるか、不安定であるかというところにあります。

ウイルスが安定であるかどうかとは、一言で言えばそのウイルスだけを攻撃できるかどうかということです。

ウイルスが自分の細胞の中に炎症を惹起することもなく、すんなりと自己細胞の中に入ることができるということは、ウイルスには多かれ少なかれ「自己」の要素が含まれていることを意味します。

すなわちウイルスを攻撃することは、多かれ少なかれ「自分」自身を攻撃することにつながります。だからこそ抗ウイルス薬というものはなかなか開発することはできないわけです。これは抗がん剤が多かれ少なかれ自分の細胞を攻撃してしまう構造と似ています

ウイルスがそうした「自己」的要素を含む存在である以上、ウイルスだけを攻撃することは不可能と考えざるを得ないわけですが、実際には少数ながらウイルスだけを攻撃しているように見える抗ウイルス薬というものが存在します。

そのウイルスとは、ヘルペスウイルス、B型肝炎ウイルス、HIVなどであり、前2者はDNAウイルスとして安定的な構造を持っていますし、

HIVはレトロウイルスといってRNAウイルスでありながら自身の持つ逆転写酵素という酵素を使って、DNAを創り出すことができます。

DNAはRNAに比べて安定構造ですので、これがあることはウイルスならではの「非自己」的な要素が存在する可能性を示唆します。

しかしC型肝炎ウイルスはRNAウイルスですが、明確にC型肝炎ウイルスだけを攻撃できる抗ウイルス薬が存在しています。この謎は難問ですが、大事なところなのでまた別の機会で詳しく語ろうと思います。今は「C型肝炎ウイルスにも安定構造が存在していそうだ」というくらいにとどめておきましょう。

一方でおなじみのインフルエンザウイルスもRNAウイルスですが、インフルエンザに対する薬は存在しているわけですが、この抗インフルエンザ薬は本当にインフルエンザだけを攻撃できているかどうかが怪しいところです。

薬の効果は一般的には有熱期間を24〜48時間程度短縮する程度だと言われますが、臨床的に明らかに薬が効いたという効果を実感する場面はありません。自然に治ったのか薬が治したのか判別困難なことは風邪診療において日常茶飯事です。

また漢方薬を使った方が、抗インフルエンザ薬を使うよりも有効であったという報告もあります。この結果は漢方薬の有効性を示すわけですが、抗インフルエンザ薬がそもそもウイルスだけを攻撃できていないと仮定しても成立するものだと思います。

抗インフルエンザ薬のオセルタミビル(商品名:タミフル)が、一部の10代の小児患者に精神異常行動をきたしているかもしれないと一時期社会問題となったこともありました。この因果関係はその後結局うやむやになってしまいましたが、

この現象も「抗インフルエンザ薬がウイルスの構造だけではなく、自分自身の構造も攻撃してしまっている」と考えれば十分に起こりえる現象だと考えることができます。

いずれにしてもウイルスに安定的な構造が存在してはじめて、そのウイルスだけを攻撃することが可能になると言えるでしょう。

そうした安定的構造を持つレアなウイルスや、一人で生きていけないレアな細菌たちが②の構造をとるということです。

安定的構造を持つ病原体は自己細胞なくして増殖不能なので、無制限に増殖して物理的に自己システムを刺激し続けるという事態は起こりませんが、起こった発炎反応を収束できるだけの終炎反応システムの余裕がなければいつまでも自己システムがオーバーヒートし続けてしまうという特徴があります。

この②において、自力収束するか、重症化するかどうかの要は終炎反応システムを駆動するコルチゾールなどのストレスホルモン、及びその基盤となる自律神経系が安定稼働できるかどうかが鍵になってきます。

だからこそこれらの病態においては物理的な病原体との接触よりも自律神経やストレスホルモンの稼働に関わるストレスの存在が大きな鍵を握っていると私は考える次第です。


ところでコロナウイルスは安定的な構造を持っていましたでしょうか?

コロナウイルスはRNAウイルスです。変異株のニュースも話題になっているように、構造的には不安定な存在です。

コロナウイルスのアイデンティティはどこで保たれているのかというのも気になるところですが、

コロナウイルスの定義は「ウイルス粒子表面のエンベロープ(膜構造)に、花弁状の長いスパイク蛋白の突起(S蛋白、約 20 nm)を持ち、外観がコロナ(太陽の光冠)に似ているて、らせん対称性のヌクレオカプシドをもつエンベロープウイルス」ということになっています。

逆に言えば、この構造をとっていれば、中のRNA構造は何であってもコロナウイルスと認識されるということです。

そんな中のRNA塩基配列が大きく変動しうるコロナウイルスのようなウイルスが起こす感染症のパターンが③だということになります。ほとんどのウイルス感染症はこの構造をとります。

②と同様に自己細胞以上には増殖できず、塊を作ることはありません。しかも安定的な構造がないので遺伝子変異を繰り返しコロコロとその姿を変えてしまいます。

その結果「非自己」的な要素が強くなると、発炎反応が惹起されてしまいます。あるいは「自己」的要素が強くても身体の方が「自己」と「非自己」の区別がうまくできなくなってしまっている状態の場合、自己システムのオーバーヒートが引き起こされてしまいます。

逆に言えば、終炎反応システムが安定していれば、相手が「非自己」的であろうと「自己」的であろうと速やかに事態は収束できるはずなのですが、ここでも自己システムの乱れがあればオーバーヒートが引き起こされ続けてしまう結果へとつながります。

言い換えれば②が安定的な構造で発炎反応を惹起するのに対し、③が発炎反応を起こすきっかけは不安定ゆえに②よりも格段に少ないにも関わらず、それでも自己システムの乱れ具合によっては十分にシステムがオーバーヒートさせられてしまうということです。


以上の話をまとめると次のようになります。

・「細菌感染症」と「ウイルス感染症」にはいずれも自己システムのオーバーヒートが関わるが、物理的に発炎反応システムが刺激される機会が多いのが「細菌感染症」、物理的に発炎反応システムが刺激される機会が少ないのが「ウイルス感染症」である
・両者の間に位置する「細菌感染症」的でもあり、「ウイルス感染症」的でもある中間的な状態をもたらす病原体もある
・病原体量の削減が病状の改善に寄与するのは「細菌感染症」的な要素の強い感染症(主には①、せいぜい②の一部)であり、「ウイルス感染症」的な要素の強い感染症(②の一部や、ほとんどの③)においては病原体量の削減よりも終炎反応システムの修復が病状の改善に寄与する


そう考えれば、各国でコロナに対する標準的対応として行われているロックダウンが必ずしも感染者を抑え切れていない理由も説明可能です。

ロックダウンしても、終炎システムが故障している人に対してほんのわずかでも「非自己」と判定される要素と接触したらオーバーヒートしますし、

新型コロナウイルスと呼ばれるものをシャットアウトできたとしても従来の旧型コロナウイルスが変異したものであっても、接触すれば自己システムのオーバーヒートはやはり起こってしまうからです。

この構造が理解できれば、コロナウイルスを一生懸命避けることよりも、

終炎反応システムを修復する栄養改善やストレスマネジメントの方がはるかに重要であることがわかるのではないでしょうか。

だからコロナから逃げるのも大概にしておいた方がいいと、私は思います。

心が安定していればマスクもほどほどでよいでしょう。そもそも心が安定している人は仮にマスクなしで感染したからといって他人を恨んだりしないものです。


・・・この話題、長くなりましたがようやく私の中で着地することができました。

この考察が世の中の秩序が取り戻されるのに少しでも役立ってくれることを切に願っています。


たがしゅう

関連記事

            
                                  

コメント

非公開コメント
        

No title
たがしゅう先生

 今回のテーマについては、難しくて理解できていない箇所も多いのですが、「花粉という非自己」によるサイトカインストームが糖質制限で治った自分は、正しい考え方だと感じました。

 ただ、「コロナウイルスを一生懸命避けることよりも(貴方の内にある)終炎反応システムを修復する栄養改善やストレスマネジメントの方がはるかに重要」だという説と、「悪いのは貴方でなくてバイキンなんだからお薬でバイキンをやっつければいいのです」という説を比べた場合には、何も考えることなく後者を選ぶ人が、現在は大多数かと思います。

 ではどうしたら良いのか考えても、夏井先生のHPのように、具体的な改善例を積み上げて閲覧に供するような地道な活動位しか頭に浮かびません。難しいです。


 

管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
Re: No title
>「コロナウイルスを一生懸命避けることよりも(貴方の内にある)終炎反応システムを修復する栄養改善やストレスマネジメントの方がはるかに重要」だという説と、「悪いのは貴方でなくてバイキンなんだからお薬でバイキンをやっつければいいのです」という説を比べた場合には、何も考えることなく後者を選ぶ人が、現在は大多数かと思います。
>ではどうしたら良いのか考えても、夏井先生のHPのように、具体的な改善例を積み上げて閲覧に供するような地道な活動位しか頭に浮かびません。難しいです。


 コメント頂き有難うございます。

 それが長年、私を悩ませ続けている課題の構造です。
 「常識的な価値観が定着している状況下で、非常識な新しい価値観を普及していくにはどうすればよいか」

 江部先生の糖質制限食は理論に加えてエビデンスの蓄積によって理解者を徐々に増やす戦略だと思います。
 夏井先生のなつい式湿潤療法は、理論に加えて、御指摘のように、実際の治療例を蓄積・公開し、圧倒的な治療効果を証明し続けて理解者を増やす戦略だと思います。

 既存の体制に対して江部先生は温和的、共感的でありながら改善を求める紳士的なアプローチで、夏井先生は論理的な誤りを指摘し相手への断罪を求めるような強めのアプローチという所にも違いがあります。

 しかしながら、それらのアプローチを行って10年〜20年の時がすでに流れていますが、未だ新しい常識的価値観へ置き換わっているとは言えない状況です。それくらい常識が覆るというのは難しいことだと思います。

 旧態依然たる体制の世代の方々の寿命が尽き、真の意味での世代交代が起これば常識が変わるのではないかという予想もありますが、私はその未来に対しては消極的な見解を持っています。なぜならば世代は変わっても、教育システムは確固たるものとして受け継がれていくからです。この教育システム自体が変わらない限り、糖質制限も湿潤療法も、知る人ぞ知るマイナーな治療法の位置づけはおそらく変わらないのであろうと私は考えています。

 だからといって教育システム自体を変えようというのはあまりに非現実的です。少なくとも今の私にはそのための具体的な方策は全く思いつきません。それは政治システムが変えられないのと同じくらいの困難さを秘めています。

 ではどうすればよいか。現時点での私の方針は大きく2つです。
 ①旧態依然たる体制をなるべく攻撃しない(多様な価値観を受容する。けれど論理的な誤りに対する批判はする)
 ②自分の頭で考えることをできるだけ多くの人達(特にこども達)に伝えていく

 世間がどうやっても変わらないのなら、個に訴えかけるしかありません。
 そこも全員を変えようとするのではなく、「変えられる人だけ変えていく」という発想です。
 「変える」というのも「私が相手を変える」というおこがましさを持つのではなく、「相手を取り巻く環境を変えて相手が変わるのを期待する」といった方が正確かもしれません。
 これだと変えられる人も少数派で、世間が変わるにはほど遠いですが、少なくとも世間が変わる流れへ向けて一歩前進はしていますし、自分自身の生きがいは大きくなっていきます。御指摘のような地道な活動には該当してしまうとは思いますが。

 そしてそんな地道な活動とともに、相手を攻撃しないことも重要です。
 たとえ私の中で論理的に誤りがあると思えたとしても、相手の中で合理性があるからこそ相手はその行動を選んでいます。
 その相手の行動の合理性までをも否定しないことです。よくいわれる「誰であっても人格否定はしてはならない」という行為にも通じます。
 相手を100%否定するような攻撃をしたとしても、その先に融和も協調もあるはずがありません。融和を目指すのであれば、たとえどんなに理不尽な行為であったとしても、その相手の行動の深い部分までも否定しないことが大前提になるでしょう。大きな人間力が要求される行為でもあります。

 相手を徹底的な論理で打ち負かすことができたとしても、その先に待っているのは壮絶な復讐劇です。戦争が繰り返される事実がそれを物語っています。極めて困難で望みの薄い行為ではありますが、まず自分が相手を攻撃しないことで、相手も自分を攻撃する必要性を感じなくなっていく構造の先にのみ、誰もが協調し合い、お互いのために生きられる世界があるように私は思います。
No title
 たがしゅう先生、お返事ありがとうございます。
 共感できる内容でした。相手に対してどう立ち向かうかは、本人の性格によるところでしょう。
 自分の場合は、愚かな加害者に対して一旦は怒りが沸き上がりますが、その怒りが直ぐに「哀れみ」に変わるので、怒りが長続きしません。(客観的にみて凄く嫌な性格です。)

 ただ、自分自身が愚かな加害者になることも多々あることは、弁えているつもりです。先日も知人と「ストレスが殆どの病気の元凶だ」という意見で一致したのですが、知人はストレスの原因を外部に求め、私は自身内部に求める点が異なっていて、それに気づかずに知人を傷つけてしまいました。

 自分のような考え方の人間は、今の社会では異物だと自覚する必要を感じております。
Re: No title
> 知人はストレスの原因を外部に求め、私は自身内部に求める点が異なっていて、それに気づかずに知人を傷つけてしまいました。

 それは大事でかつ私も他人事ではない話です。
 同じ「ストレス」という言葉でも人によって真逆の意味で用いている状況がありうるからです。

 そして多くの人はストレスの原因を外部に求めてしまっているのが現実です。だからこそ病気を「恨む」し、健康管理を「任せる」し、原因を「排除する」のだろうと思います。そしてストレスが原因というと「自業自得」と言われているような言葉のキツさで伝わってしまうおそれがあります。「自業自得」は本質的には正しくても、その事実を多くの人は受け止め切ることができません。

 病気の原因を外にばかり求め過ぎてきた「(西洋)医学」のアプローチにその遠因があると私は考えています。
No title
 たがしゅう先生、
  『病気の原因を外にばかり求め過ぎてきた「(西洋)医学」のアプローチ』、のほうがコマーシャリズムにピッタリなのが、問題をより悪くしているように思います。
 私も、会社員時代は、そのシガラミに絡めとられていました。

 一歩一歩しかないと考えています。