私がコロナを恐怖だと思えない理由

2020/12/30 13:30:00 | ウイルス再考 | コメント:0件

まさにコロナにかき回され続けたと言っても過言ではない一年になりましたが、

ついにこの感じのまま年末を迎えることになったので、

ここは一つ、今までのコロナに関する私の考察の整理を行っておきたいと思います。

結論から言うと、私は終始コロナを全く恐れていないわけですが、

なぜ恐れていないかというと、それはまだわからないことも含めて自分が最も妥当な判断をし続けたことによるものです。

その過程で私は、コロナに限らずウイルス感染症という概念を抜本的に見直すことになりました。

具体的にはウイルス感染症が「ウイルスという病原体が増殖し、次から次へと伝播していく病気」という概念から、

「ウイルスという非自己分子と遭遇することによって異物除去反応(自己修復反応)が惹起され、その反応が人の恒常性維持機構の故障具合に応じて無症状から死亡まで様々な範囲でもたらされる現象」という概念に完全に切り替わったと言えます。 そのように概念を切り替えることによって現実的に何が変わるかと言いますと、

まず「ウイルスを避ける必要がない」です。ウイルスのみならず非自己分子は世界中至るところに存在していて、全てを避けることは到底不可能であるからです。

マスクは確かにコロナの大きさである0.1μmの分子が幾分か通過するのを減らす効果はあるようですが、

それによってウイルス感染症の発症が予防できていないのは、この感染拡大騒動の終わらなさを見れば明らかであるはずです。

一方で風邪の人の近くにいたら、風邪をもらうという現象は昔からよく観察されていましたので、

ある風邪の人から何らかの分子が伝染して別の健康な人に同じ風邪を引き起こすという「病原体感染説」は大きな説得力を持っていると言えます。

しかしながら実際にはマスクをきちんとはめていようと、高齢者施設のようなところでクラスターと呼ばれる集団感染を、あれだけ社会の注目がコロナに向いているにも関わらず防ぐことができない。

ということはマスクでウイルス粒子の量を減らしたところで、ウイルス分子の量にはほとんど起因しない宿主側の要素によって、

要するに「宿主が非自己分子との接触をきっかけで異物除去反応(自己修復反応)を起こしやすくなっているかどうか」という要素によって、風邪が移るかどうかが定まっているということです。

それでなければ、病院や高齢者施設でクラスターが頻発しているのに、同じ集合体である学校で一つもクラスターが起こっていない理由は全く説明できません。

まさか学校の方できちんとマスクをはめているからだと考える人はいないはずです。ウイルス感染症がマスクに起因しない宿主側の要因で広がっているとしか考えられません。

終始、コロナの重症者情報は高齢者や基礎疾患持ちに限られています。若い人での感染例もしばしばニュースになりますが、報道されている情報でわかる限りで見ても軽症や無症状の人がほとんどで、

コロナにかかったと話題になった比較的若くて健康な芸能人も、何事もなかったかのように芸能活動を再開しているという事実がこの「宿主側に要因がある」という事実を支持しています。

そもそも「高齢者は感染リスクが高い」という見方にも私は否定的です。高齢の方に身体のシステムが故障している人の割合が多いというだけで、大事なことは高齢であるかどうかではなく、システムが乱れているかどうかです。

システムが乱れているからこそ、コロナという非自己分子との接触を契機に惹起された自己修復反応がオーバーヒートしてしまうわけであって、コロナで重症化するには宿主側にそれなりの必然的理由が存在していることになります。

つまりコロナは無差別に私達を苦しめるようなものではなく、システムが乱れている人が乱れるべくして乱されているという自然の摂理に従った現象を起こしているだけだということです、これが私がコロナを怖がらない第一の理由です。

もしも私がコロナにかかって、というよりもコロナ接触がきっかけで自己反応が見出されて、元に戻すことができずに死に至らしめられてしまうとしましょうか。

それはシステムを乱し続けるばかりで、それまでメンテナンスしてこなかったことのツケが来たということで受け入れるより他にないように思っています。


コロナの概念が変わり、現実的に変わることの二つ目は、

「他人のせいにしなくて済む」ようになることです。

ウイルス感染症を「病原体による感染症」だとみなしているからこそ、差別の概念が生まれたり、マスク警察や自粛警察のような偏った正義が生まれたりしているわけですが、

これがそもそも自分のシステム不良の問題だという概念が周知されれば、ウイルス感染症になることは自己責任になります。

「高齢者の命を病気から守る」という聞こえのよいスローガンなども見直されることになります。

高齢者の方々に対してすべきことも180度変わってきます。マスクを装着させ、こどもや孫達の帰省を止めさせることではなく、

今高齢者にあるシステムを大事に使えるようにウイルス自体は悪でも何でもないことを伝えたり、今までと同じように人と人との交流をもたらすということになってくるはずです。

私はウイルス感染症が「病原体による感染症」だと考える限り、どうしても納得できないことがあります。

一つはあまりにも日本全国に同時に広まり過ぎていたということ、

もう一つは重症者においてもウイルスの塊というものが一向に見えないということです。

前者の方は、今や47都道府県で感染者という名のPCR検査陽性者が観察されている状況にはありますが、

3月、4月頃の日本での感染者の拡がり方を見てみますと、あっという間に全国各地で感染者が確認されている状況となっています。

東京の羽田空港を中心に全国各地が飛行機で結ばれているから、この感染の拡がり方もありえるかと思われるかもしれませんが、

この拡がり方をしているのであれば、もうどこにでも感染者はいてしかるべきという状況となっていて、実際そのようになっているわけですが、

今度はそのくらい強烈的に広がる能力を持っていながら、それから半年以上経つ今にしては感染者と判定される人の数が少なすぎます。

それはマスクや三密対策が功を奏したからだと考えるのはナンセンスです。なぜならば相手はあっという間に全国各地に広がる爆発力を持ったウイルスだからです。本当に広がったのだとすれば、の話ですが。

これはウイルスが一つ一つ感染者の飛沫を介して伝染していったと考えるのは大きな無理があって、PCR検査側の問題によってあたかも爆発的に感染しているように見えていると考えるのが妥当だと思います。

つまりウイルスが広がったのではなく、最初から世界中に普遍的に存在しているウイルス様微小構造を一定の割合でPCR検査が検出しているだけで、その検査の設定や実施のされ方によって感染者数は変化するということです。

あれだけ感染者ゼロを保っていた岩手県においても一人感染者が出たのを皮切りに、今や380人だそうです(2020年12月29日現在)

その理由を「それまでの感染対策がうまく行っていたが、それ以降感染対策が疎かになったからだ」と考えられますでしょうか。

むしろ感染者が出たのであれば、警戒心を強めるのが普通の人の感覚だと思います。そうであるにも関わらず、感染者は伝播している(ように見える)のですから、

これは感染拡大の要因が病原体としてのウイルスの性質にあるのではなく、検査側の要因にあると考えた方がよほど現実をうまく説明できます。

考えてみれば「次々と伝播していく恐怖の病原体」という概念がここまで世界でまかり通っているのも、すべてはウイルスが目に見えないことに起因しています。

後者のウイルス塊を見たことがないという事実が、この「ウイルスが病原体である」という私達の固定観念を打破してくれるかもしれません。

定説では、ウイルスという病原体に対して私達の免疫反応が攻撃してウイルスをやっつけることでウイルス感染症を回復させるという構造にあると思います。

ということはウイルス感染症で重症化した人においては、ウイルスがやっつけ切れていないわけですから、体中はウイルスだらけになっているはずですよね。

しかし死に至るほどのウイルス感染症であっても、ウイルスの増殖が目に見えるレベルまで確認されることはありません。

いくらウイルスが見えないくらい小さい物質だとしても、増殖できるわけですからいつかは目に見えるレベルに到達するはずです。

一方でウイルス感染症の重症化の病態は「サイトカインストーム」と呼ばれる炎症反応の暴走だとされています。

それだけ強力な炎症反応が出ているにも関わらず、ウイルスは目に見える形では一向に見えてきません。

見えてこないくらいの少ない量なのであれば、「サイトカインストーム」にまで至る激しい炎症反応であれば何とかウイルスは排除できそうにも思えますが、

実際にはウイルスはいつまで経っても目視することはできず、宿主は自身の起こした反応によって死に至らしめられます。

そしてウイルスは宿主が生きていないと自らも分裂・増殖という生命活動を行うことができないとされているので、

死人からウイルスが出てきても不思議ではないかもしれませんが、ウイルスの死骸くらいならあってもよさそうなものですがそれもありません。

ということは「ウイルスが病原体」と考えるよりも、「ウイルス感染症は非自己分子をきっかけとして駆動された自己システムのオーバーヒート」と考える方が妥当であると私は思うわけです。

ならばどうであっても自分がどうなるかは自分次第ということであり、

自分を死に至らしめるかもしれない恐怖の大王に怯える必要もなくなるはずです。


概念を変えることでもたらされる現実的なメリットの最後は「画期的な薬の登場を待たなくて済む」ということです。

もしもウイルス感染症が「自己システムのオーバーヒート」であるのなら、ウイルスに対して攻撃しても何も利益はありません。

なぜならばウイルス感染症の中で炎症が起こっているのも、そもそもウイルスをやっつけようとしているのではなく、「非自己との接触によって乱された自己の秩序を守ろうとしているだけ」だからです。

本質的には怪我を治すために自己修復反応が起こっている状況と同じことです。この場合、攻撃する敵はいませんよね。

そもそもウイルスは人に水平伝播を起こせるほど、ヒト細胞との遺伝子の類似性がある存在です。

レムデシビルの考察の時にも書きましたが、ウイルスを攻撃することはヒト細胞そのものを攻撃しようとしている側面があります。これはがん細胞を攻撃しようとして正常細胞を攻撃してしまう構造とも似ています

つまりアビガンも、レムデシビルもウイルスを攻撃できなくてしかるべきだということです。攻撃しようとしていたものが実は自分自身であったということです。これはそもそも期待しない方がよい治療法だということになります。

しかし抗ウイルス薬すべてがダメというわけではなく、うまく行っている抗ウイルス薬も確かに存在しています。ですがこれらの薬でさえ完全ではなく大きなリスクをはらんでいます。

つまり基本的に「ウイルスだけを攻撃しようとするアプローチは危ない(ウイルスを攻撃しようとする行為は自分自身を攻撃する行為に通じる)」ということです。

その思考の延長戦上で考えると、ワクチンというものの存在にも疑問が生まれます。

ワクチンは言わば人為的な非自己分子接触法です。強制的に非自己分子と接触させることで確かに免疫システム(炎症)は駆動されるかもしれません。

しかしそうやってウイルスに対して免疫を獲得したと思っている状況ははたして本当にその目的を達成することができているのでしょうか。

非自己分子との接触で、これによりシステムに故障があった人は炎症を惹起させられてシステムが修復されるかもしれません

しかしそもそもウイルスに対して攻撃しているわけではなかったその炎症反応が、次に同じウイルスに接触した時だけを明確に見極めて防御してくれるとは到底考えられません。そもそもウイルスを認識していないのですから。

ワクチンは自然感染よりも確実に非自己分子と遭遇させる手段だというだけで、それによって適切な自己修復反応が駆動されるかどうかはそれこそ宿主の状況次第なのではないでしょうか。

もっと言えばワクチンのような不自然な非自己分子との接触よりも、自然感染の方がその後に強力な免疫が誘導されるということは麻疹や風疹の例を見ても明らかです。

例えるならば、海に溺れた状態に陥って何とか生還できた人の遊泳能力の方が、プールで溺れた状態に陥って何とか生還できた人の遊泳能力よりもずっとその後の困難を自力で克服する力が強いということです。

プールで練習させるということであれば海で溺れにくくなるという効果は期待できるかもしれません。しかしワクチンを打つという行為はプールでいきなり溺れさせる行為です。

そのプールでの困難を乗り越えたこどもが、海でも溺れなくて済むとは限りません。またプールで溺れないこどもは海でもそうそう溺れないようにも思います。

ちなみに、プールで練習する行為はワクチンを打つことではなく、自分の生活圏の中にある自然に思いっきり触れて遊ぶことに相当します。海で泳ぐ行為はさしずめ圏外に旅立って新しいことを色々と経験する行為だと言えるでしょうか。

そのことがわかれば抗ウイルス薬もワクチンもそもそも必要ないという構造が理解でき、さらに恐怖は薄まるわけです。


それともう一つ、恐怖に関連して今回の一連の騒動で私が感じたのは、

「不安/恐怖による慢性持続性ストレスは人を死に至らしめるほど巨大になることがある」ということです。

それは自殺を増やすという意味ではなく、炎症を終わらせないという意味で、です。

人はストレスを感じれば、ストレス対抗システムが駆動されます。

その中で最も中心的な役割を果たしているのが自律神経とコルチゾールです。

自律神経は瞬間的に反応して身体を闘争・逃走モードへと切り替え、コルチゾールは自律神経に遅れること数十分〜数時間、さらに身体が困難を克服しやすい状況を作り出します。

コルチゾールの代表的な働きが「炎症を抑えること」です。ですので本来であればストレスが起これば炎症が惹起され、その後コルチゾールの抗炎症反応によって事態は収束します。

しかしながら、そのストレスが一過性ではなく慢性的に刺激され続けている状況となると、コルチゾールは持続的に分泌され続けることになり次第に底をつくことになります。

これが副腎疲労であり、さらに進行すれば副腎不全と呼ばれる状態に陥ります。言わば自力で起こした炎症が自力で収束できなくなった状態です。

コロナで今のところ唯一効果がはっきりしているのがデキサメタゾン(ステロイド)であることも、この流れを支持する一方で、

コルチゾールも多ければ多いほどよいというものではなく、自律神経の動きやストレスのかかり具合に応じてその量が絶妙にコントロールされていない限りむしろ有害な存在になりえるということを教えてくれます。

ということはストレスホルモンの恩恵を適切に受けるためには、自力でストレスホルモンの分泌をより上流で調整している自律神経を整えるということしかないと、

引いては不安/恐怖に上手に対処することで、ストレスを慢性持続化しないようにマネジメントすることが、

身体のシステムをオーバーヒートさせないために最も重要なことなのではないかと私は思うわけです。



この騒動に関して解かなければならない誤解は実はもっとたくさんあるのですが、

非常に根深い問題でもあって、すべてをここで語り尽くすことは困難です。

ですが今回は、その中心的な誤解について今回の記事では説明させて頂いた次第です。

思考が変われば世界は変わります

元の世界に戻したいと願う人は多いかも知れませんが、そもそも問題の多かった元の世界です。

今回の騒動をきっかけに今まで見えてこなかった問題が一気に表面化したように私は思います。

ならば今までの問題を解決する新しい概念を創り出していこうではありませんか。

最後に私が行き着いた概念をまとめます。

・ウイルスは病原体ではなく、私達の原始構造に類似する非自己分子
・ウイルスは普遍的に存在するし、接触することで自己システムに異常がある時にその修復反応を促す存在
・ウイルスとヒトには共通構造があるので、ウイルス自体を攻撃する必要はない
・これからの医療は非自己分子の阻害から、非自己分子と共存するための支持へと役割を変えていくべき


よろしければこのような世界の見方を参考にしてもらえれば幸いです。


たがしゅう
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