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まるでダメな父親から独り立ちしていくように

category - おすすめ本
2020/ 11/ 26
                 
「今が感染拡大を防ぐための大事な時期です。不要不急の外出を控えて下さい。」

精神科医・樺沢紫苑先生の「父滅の刃」を読み、父性の失われた医療や社会のことを踏まえてこの言葉を受け取りますと、

まるでダメな父親が「俺は何もしねぇから、てめえで何とかしろ」と言っているかのような台詞に聞こえてしまいます。

しかもこの父親が血の通った人間であれば、映画のように「父性」を再獲得していくストーリーもありうるとは思うのですが、

今私達が直面しているダメな父親は、困ったことに魂の抜けた父親の形をしたぬけがらのようなものであって、

もはや誰にも操作できないようなものに置き換わってしまっているように私には思えるのです。

そんな中、鹿児島のドクターで経済学部出身でもある医療ジャーナリストの森田洋之先生が書かれた興味深い本を読みました。
            



日本の医療の不都合な真実 コロナ禍で見えた「世界最高レベルの医療」の裏側 (幻冬舎新書) Kindle版
森田洋之 (著)


森田先生は北海道の夕張市で2007年市内に唯一の総合病院が財政破綻し、「医療崩壊」が叫ばれた時期に夕張市を訪れ、診療所の所長を務められた経験をお持ちのドクターです。

病院がなくなり「医療崩壊」すると思われた夕張市の医療は、実際には診療所からの訪問診療へうまくシフトして、

何でもかんでも救急車を呼ばない文化が浸透し、夕張市は「命を守る医療」から「生活を支える医療」に切り替わっていったと、

その結果、なんと救急車の出動件数が9割近く減ったことも驚きですが、それによって病気で亡くなる人の割合が増えるのかと思いきや、

実際のデータを解析すると、死亡率は高まるどころかむしろ減少傾向、死因は脳卒中や心筋梗塞などの救急疾患ではなく、

なんと「老衰」という死因の割合がものすごく多くなったということです。

森田先生はこの辺りの詳細を書籍の中で詳しく解説されているのですが、「老衰」という診断は普通患者(家族)側と医者側での信頼関係が成り立っていないとなかなか下せないと指摘されます。

確かに救急車で運ばれてきた人が不幸にもなくなるという状況があったとして、それを初対面のドクターが「老衰」と診断することは困難で、おそらく「急性心不全」だとか「急性呼吸不全」などの病名が直接死因で、基礎疾患の情報があればそれが付け加わるような死亡診断となるのではないかと思います。

逆に言えば、「老衰」と診断するためには、それまでの患者さんの経緯というものを把握していなければならないということです。

夕張では「老衰」と診断できるくらいの信頼ある医療を、診療所をはじめとした関係者の努力と市民の皆様の意識改革によってうまく構築されて、見事に「医療崩壊」を防いだとみることができます。

一方で森田先生はこの経験を通じて、日本の医療が抱える根の深い問題を知ることになります。

そしてその問題はコロナ禍を契機として、大きく表面化する事態へと発展してしまっています。

その問題点を指摘するのが、今回の本のメインテーマだと思います。


一言でその問題点を表現するならば、

「国民皆保険制度によって適正な市場原理が働かないまま民間主体の病院医療が大部分を占めるようになり、薄利多売の経営方針が常態化して緊急事態にとても対応できない強固な仕組みが出来上がってしまった」ということだと思います。

コロナ禍のような緊急事態においては、病院の役割を大きく変化させる必要があります。

例えば、コロナも診るけれど、他の病気も診るというようなことをすると、感染を防ぐための導線を急遽確保しなければなりませんが、

多くの病院やクリニックはそれに備えた構造を持っていないので、即席でそのような仕組みを作ろうとすると非常に不完全になってしまいます。

それで結局多くの病院は「ウチではコロナを診られません」という方針を打ち出すしかなくなってしまい、

日本は世界有数の病床数を持つ国であるにも関わらず、その病床のほとんどはコロナに対して使用することができないという状況が生まれてしまうのです。

しかも「コロナを診なければ運営上安定するか」と言われれば、

ご存知のように多くの患者さんは感染を恐れて受診控えが進んでしまっている状況です。

かかりつけの患者さん以外はむやみに病院を訪れない状況となってしまっています。

一方で「コロナを診れば運営上安定するのか」と言われれば、それもそう単純ではなく、

コロナ患者1名診るのに厳重な感染予防対策を敷く必要がありますが、多くの病院はそれ専用にできているわけではないので、

感染の拡大を防ぐために個室メインの使用となったり、場合によっては大部屋の病床の一部を潰して個室化するような対応が求められ、

病床の全てを使えない状態で対応しなければならず、しかもコロナの有症状者はそれほど多いわけでもないので、

経営的には非常に不利な状況に追い込まれてしまうということです。

まさに「コロナを診るも地獄、診ないも地獄」の状況に、全国の医療機関が追い込まれてしまっているということになっています。


本来であればこのような緊急事態に対しては、

国が主導権を持ってA病院はコロナ対策専門病院へ、B病院は通常の診療を行うことに特化した病院へというような緊急事態用の振り分けを行わなければならないと、

いわゆる警察や消防のような公的な存在に、医療も位置づけていく必要があるというのが森田先生の提案です。

実際にスウェーデンでは医療はそのような国の管理下にある公的病院が主体なので、

最近もコロナへの対策として通常病棟のほとんどを感染症対策病床へと切り替える政策を実行に移されている国もあると聞いています。

日本の医療は長年培ってきた国民皆保険制度ベースに医療によって、それぞれの団体がそれぞれの方針で経営している民営の病院ばかりとなってしまっているので、

だれもこれらの病院を統率する指揮官がおらず、それぞれがそれぞれの立場で最善を尽くすしかなく、

その結果、コロナ禍において日本の医療は指揮官不在の下で非常に偏った形で提供されてしまい、それで「医療崩壊」だとか「経営破綻」だとか言っているような状況となってしまっているのです。

もしもこれが国が指揮をとって病院の機能を変えられるような公的病院が主体であれば、日本の医療も「医療崩壊」などと叫ばなくてもいいわけですが、

冒頭のダメな父親へたとえれば、「日本の病院を民営主体から公営主体に変えよう!」という提言は、

言ってみればさんざん楽な方向へ楽な方向へと動いてきた父親に対して、「いいかげん父親らしくリーダーシップを取れ!」と言っているようなもので、

方法論としては正論であったとしても、残念ながら机上の空論を叫んでいるに過ぎないように感じられてしまいます。

世の中には頑張ればまだ変えられるルールと、頑張ってもなかなか変えられないルールとがあると思いますが、

医療の構造改革ははっきり言って明らかに後者です。ダメな父親を変えるのは至難の業だと思います。


しかし映画では、ダメな親が様々な出来事を通じて、「父性」を再び獲得していくというストーリーもあります。

医療を「父性不在」と捉えるのであれば、「父性」を取り戻すのにはその映画のストーリーが参考にならないでしょうか。

多くの「父性」復活の映画は、ひょんなことからこどもとの共同作業をせざるを得ない状況に追い込まれて、

その共同作業を通じて、愛情が芽生え、共感が得られるようになり、父親らしさを取り戻していくというのがストーリーの骨子部分です。

「父性」不在の医療に対してそのようなアプローチで「父性」を回復させることはできないでしょうか。

私の意見としては残念ながらそのアプローチは不可能です。なぜならば今の医療はそこに意志のないぬけがらのような存在となっているからです。

「科学」という名の絶対的に安心な価値観の下にほぼ全ての医療者が盲目的に従ってしまっている状況です。

その状況が今のコロナ禍の悲劇を生み出してしまっているといっても過言ではないと私は思います。

科学のせいでウイルスは「うつされる」と解釈されるようになり、自分自身のシステムのオーバーヒートは「わけのわからないウイルスに起こされた病気」と解釈されるようになり、

そしてその価値観は非常に強固で多くの人にとって動かしがたいものとなってしまいました。

しかし科学には人格は存在せず、その価値観に依存した今の医療は、だからこそ人格のないダメな父親と化してしまっているのです。

父親側へ父性の再獲得を促す方法が不可能となれば、日本の医療に「父性」を取り戻すことはもはや不可能なのでしょうか。

私はもう一つ残された道は、「ダメな父親の代わりに自分(こども)が父親になる」という発想だと思います。

つまり医療の側が変えられないのだとすれば、医療を利用する側の人間が医療を使う意識を変えていくということだと思います。

冒頭の夕張市の市民の皆様は期せずしてその改革を先行して行い、「医療崩壊」を防ぐことに成功したと言えることができます。

まさに父親に頼らずに自立したこどものような状況だと思います。夕張市の場合は「父親」も奮起して支えてくれたとは思いますが、

今の日本の医療に関して言えば、残念ながら父親には全く頼れない状況です。自分達が自立していくしかない状況だと私は思います。

そしてこどもが「父性」を獲得するために必要なことは「父親を乗り越えること」です。

自分達が医療に頼るのではなく、自分達が自分達の確固たる価値観のもとに医療を使っていく意識、

すなわち「受動的医療」から「主体的医療」への改革だと私は考える次第です。



たがしゅう

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