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医療にも「父性」を取り戻す必要がある

category - 主体的医療
2020/ 11/ 20
                 
こどもが立派で魅力的な人間へと成長していくためには、

「父性」と「母性」の双方のバランスが保たれている必要があると、精神科医・樺沢紫苑先生の書籍「父滅の刃」から学びました。

「父性」とは明確なビジョンの下に自らの力で道を切り拓いていく強さ、

「母性」とは誰一人見捨てずに、人類皆兄弟として包むように愛する優しさ、

今世界で注目されている「SDGs(持続可能な開発目標;Sustainable Development Goals)」にも通じるような、この2つの要素をバランスよく兼ね備えていくことができれば、

多くの人達に勇気や希望などの良い影響を与える素晴らしい人間になれるのではないかと思います。

しかし現在は社会として「父性」が決定的に不足している時代だといいます。
            

「父性」と「母性」のバランスがとれた魅力的な人間は映画やアニメの中でしか見かけることはありません。

一昔前まではそれぞれの家庭の父親と母親がその役割を立派に果たしていたといいます。

しかし社会の構造が変わり、父親の権威は弱体化し、「父性」というものがまるでどこかに消えてしまったかのようです。

そのような状況を踏まえ、私は医者なので医療について「父性」と「母性」のバランスはどうなのかということを考えてみますと、

これが見事に「父性」不足だと私には感じられるのです。

冒頭で「父性」と「母性」は子育てにおいて重要だと述べたわけですが、

子育てが未熟なこどもを成熟した大人へと導いていく行為であるのに対して、

医療も、病気の人を健康な人へと導いていく役割を持つものだと考えた時に、

子育てと同じように、医療にも「父性」と「母性」が必要なのではないかと考えることができるのではないでしょうか。

ではなぜ、私が医療に「父性」が不足していると感じるかと言いますと、

私が医師として患者さんから最もよく聞く言葉が「先生にお任せします」と「素人だからわかりません」の2つであるからです。

これはどういうことを意味するかといいますと、「患者」を子育てにおける「こども」に例えれば、

過保護に守られ過ぎて自分で動くことを全くせずにいてしまう状態で、言わば「母性」過剰、樺沢紫苑先生が言うところのBad Motherとなってしまっている状況です。

しかし「父性」とは、「ビジョンや規範を示すこと」でもあるずです。今の医療はビジョンや規範を示していないでしょうか。

そんなことはありません。医療は確かに「規範」を示しています。病気には診断基準が定められていて、エビデンスやガイドラインに基づいた治療がそこでは確かに行われています。

ところが「父性」は同時に、こどもを自分の力で歩かせるように断ち切ったり、社会に引きずり出したりする厳しさも兼ね備えているはずです。医療はこの点における「父性」が完全に欠如しているのです。

要するに、今の医療は「規範」は示しているものの、それに向けて患者自らが動くように主体性を引き出すような行為は全くと言っていいほど行っていない

その結果としての「素人だからわかりません」「先生にお任せします」という患者の発言なのではないかと思うのです。


かつてエビデンスの概念が登場する以前の医療は、

今のように医療に関する情報を一般人がなかなか気軽に調べられるような状況にはなく、

医者の個人的な考えや判断が大きく幅をきかせていた時代がありました。

その時代の医療は「パターナリズム(父権主義)」と呼ばれています。

これは「いいから黙って自分(医者)の言うことに従いなさい」と、患者が口を挟む余地はなく、医師は強烈なリーダーシップで尊敬の対象にまでなっていた時代です。

これは言わば「父性」過剰、樺沢先生が言うところのBad Fatherの状態だと思います。

つまり日本の医療は「父性」過剰の状態から、いつの間にか「父性」が消失して「母性」過剰の状態に陥ってしまっているということです。

「父性」過剰の状態での子育て、即ち「黙って父親の言うことを聞いておけ。さもないとぶつぞ!」という形での父親の接し方がこどもにどのような影響を与えるかを考えてみるとよいのですが、

勿論個人差はあるものの、全体としてはこどもは父親の暴力を避けるために、とにかく父親に対して徹底的なイエスマンになろうとすると思います。

医療におけるパターナリズムでも同じ構造で、「父性」過剰の医者と接した患者は、自分の意志を押し殺して(あるいは押し殺している自覚さえなく抑圧し)、

とにかく何であっても「医者」の指示に従うという行動パターンに至ってしまいます。言うなれば「父性」過剰がもたらす結末は「主体性の欠如です。

その時代が長らく続いた後に、それまでは各々の医者が過剰なまでに発揮していた「父性」が、エビデンスなるものにとって代わられることになりました。

それは確かに一つの基準を示し、各々の医師でバラバラであった基準が統一され、しかもそれは科学に支えられているとのことで、絶対的な安心感のある「父性」的な「規範」として活躍が期待されるものでした。

ところがその「規範」からはそれをコントロールする人が消えてしまったのです。

まるで仏像のように動かなくなってしまったその「規範」に、科学という信頼の名の下にほとんどの医師は盲目的に従うようになってしまいました。

ところがそのエビデンスというのは、厳密に言えば「科学という名の統計学」であって、到底科学の信頼性に耐えうるほどの基盤を備えていない穴の大きな学問でした。

その結果、グラグラにぶれ続けて誰にもコントロールされない「規範」のようなものだけが残り、

いつの間にかあれだけ過剰であった「父性」は消え去り、

その「規範」のようなものに従うことを是とする多くの医者達がいます。

医者達は「父性」がなくなった医療において、「科学」の持つ絶対的な安心感の下でもたらされる「母性」過剰の医学教育を受けて育っています。

そして「母性」の過剰によってもたらされるものもまた「主体性の欠如」なのです。まるで絶対的な母親に従うだけのこどものようです。

長年のパターナリズムで主体性が欠如した患者が、今度過剰「母性」によって主体性が欠如した医者達から医療を受けることになれば、何が起こるでしょうか。

その結果、起こっているのが、「先生にお任せします」「素人だからわかりません」なのだと思います。

「任された先生」も自分のリーダーシップを発揮しているというよりも科学という名の母親に従うばかりの状況です。

それはさながら、未熟で自分で何をしていいやらわからないこどもが、やることなすこと全て母親から指示されて、自分からは何もしようとしないでいる状況と一緒なのではないでしょうか。

医療にも「父性」を取り戻す必要があります


では、医療に「父性」を取り戻すためには、具体的に何をどうすれば良いのでしょうか。

これは過保護なシングルマザーが、こどもが望むもの全てを与え続けた結果、部屋に引きこもるようになってしまったこどもをどうやって社会に引き戻すかという命題と同義だと思います。

樺沢先生は、社会に「父性」が不在であるのなら、自分が「父性」を発揮するしかない!、と。

数々の映画やアニメが自分で状況を覆すしかない!ということを伝えていると喝破されます。

医療において言うならば、自らが病気について深く知る、病気の原因となる生活行動や思考習慣を見直す、と。

それが「父性」が正しく発揮された健康へ向けて自立した患者のあるべき姿なのではないかと私は思います。

とは言え、過保護なシングルマザーの下を飛び出して社会でやっていくには相当な勇気が必要なことでしょう。

その過酷な状況の中でも何とかやっていくためには、外からの「父性」愛が必要とされるはずです。医療においては誰が父親の役割を果たせるでしょうか。

医者でしょうか。いや、違います。多くのエビデンスに従うのみの医者達はむしろ過保護な「母親」です。

今や医療における父親がいるとすれば、おそらくそれは従来医療の中にはいません。いるとすれば従来医療の枠組みの外に求めるしかないように私は思います。

広大なネットの世界の中であれば、きっとヒントを与えてくれる人はいるはずです。

病気で迷える患者にとって現代は、失われた「父親」を探す旅と言っても過言ではないかもしれません。

そのきっとどこかにいる自分にとっての医療の「父親」を求めながら、まずは一歩ずつ部屋の外、つまり病院から言われることだけに従う生き方から離れてみましょう。

例えば私もアウトローな医師のはしくれ、エビデンスにこだわらずに自分なりの医療の「規範」を示しているつもりです。

まるで過保護なシングルマザーから家出した迷えるこどもに、立派に成長して独り立ちしてもらうかのように、

迷える患者が、適切な医療の「父親」的な援助を受けながら、自分で健康を手に入れられるようになるような社会に変えていきたい。

そんな医療の姿がある社会を目指して、私も微力を尽くしていきたいです。


たがしゅう

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