Post

        

「認識」:小川仁志先生のオンライン哲学カフェ参加の御報告

category - イベント参加
2020/ 10/ 16
                 
先日、小川仁志先生の哲学カフェで「認識」という言葉について考える機会がありました。

今回も大変勉強になる話が目白押しだったので、記憶の新しいうちにアウトプットしておこうと思います。

まず「認識」という言葉、個人的には日常会話の中であまり登場する機会が少ない言葉のように思えますが、皆さんはいかがでしょうか。

IT関係のお仕事の人は、ネットでの通信がつながらない時などに「パソコンが認識しない」などの表現が出てくることはあるみたいですが、

「認識」というのは、似たような意味の「理解」「自覚」「意識」といった言葉に比べて、日常会話の中での使用頻度が低い印象を受ける言葉です。

どういう意味かと言いますと、辞書的な意味は「物事をはっきりと見分け、判断すること」と書かれてはいます。

ですが、辞書的な意味以上にその言葉の本質について考えていくのが哲学的なアプローチです。
            

例えば、「あなたとは認識が違います」と言われると、言われた人との心の距離がかなり離れているような印象を受けますが、

「あなたとは理解が違います」と言われたら、対話を繰り返すことでわかり合える可能性がまだありそうな印象に変わります。

このように「認識」という言葉にはある種の堅さ、確固たる感じ、ゆるぎないニュアンスが含まれているように感じられます。


一方で日常会話以外で、例えば書き言葉として「認識」という言葉をどういう場面で使うかと考えてみますと、

「危険に対する認識が甘い」とか「失敗を認識していない」とか、あるいは「飼い犬が飼い主を認識している」などの表現が頭に浮かびます。

ここから分かることは、認識という言葉は人を主語に使われるとは限らないということです。

確固たるとかゆるぎないというのは強い意志のようなものに似合う言葉なので、非常に人為的で人間が主語となる言葉なのかと思いきやそうではありませんでした。

かたや犬を主語にした「認識」にしても、コンピュータを主語にした「認識」にしても、その認識する相手側の対象物を正確に捉えているような感じもします。

「認識」という言葉にはそうした対象物を正確に捉えているようなニュアンスも含まれているように思えます。


実は「認識」という言葉は哲学の世界では長年議論されてきたテーマのようで、

「認識論」と「存在論」という2つの考え方が、哲学の中で議論の決着がつかない2大理論として認識されているそうなのです。

「認識論」とは世の中にある事物は実は存在していなくて、すべては私達がどのように認識するかによって存在しているかのように感じているという考え方、

「存在論」とはまず事物があって、私達が物事をどのように認識するのかは事物の存在によって左右されているという考え方のようです。

事物は存在しているに決まっているじゃないかと思われる方が多いかもしれませんが、

ある人と別の人が見ている世界が同じ世界だという証明はできないし、今目の前に見えているものはすべて量子という目に見えない物質の移ろいであるという考えもあったりするようで、

本当にその場に事物が存在しているということを証明するのは意外にも壮絶に難しいことであるようなのです。ちょっと難しくて理解しきれませんけれど。

まぁ、その「認識論」と「存在論」の決着の行方はさておき、いずれの理論も一理はあるように思えます。

結局はどちらのスタンスを取るか人それぞれ違って、どちらのスタンスでもありうるという話というところに落ち着きそうではあるのですが、ある方が面白いことをおっしゃっていました。

「認識論はわかるけれど、結局は存在していると考えないと現実的にメリットがないのではないか。例えば、新型コロナウイルスは実際にはいなくて認識の問題だと言って行動してしまうとデメリットしかないのではないか。」

その意見には一理ありますが、私は「認識」のしかたを見直すことには現実的にメリットがあると考えています。

それは「事物をどう捉えるかという心の在り方は、私達の身体に密接に関わっている」という現象を医学的によく知っているからです。

確かに新型コロナウイルスという存在は、実際にウイルス核酸の塩基配列が同定されているので存在していると考えるのが妥当だとは思います。

しかしそれをどのように認識するかによってその後身体に加わる影響は全く変わってきます。

新型コロナウイルスを「未知の恐怖ウイルス」と捉えると、身体には多大なストレスがかかり続けてシステムがオーバーヒートしやすい状況になるかもしれませんし、

新型コロナウイルスを「単なるかぜウイルスの一種」と捉えると、身体には必要以上のストレスはかからずに済むかもしれません。

このように「認識」の在り方には実際に大きなメリットがある以上、「認識論」の主張はむげにもできないと私は考えます。

こうして考えますと、「認識論」と「存在論」はどちらか一方が正しいとかではなく、両者が複雑に重なり合って現実の世界が構成されているような気がしてきます。


私が「認識」という言葉を使うのは「ストレス」について考える時です。

具体的には『患者さんに無自覚のストレスを「認識」してもらうにはどうすればよいか』という表現を使います。

このとき私の中では「認識」という言葉をターゲットを正確に捉えて問題を解決しようとする意志の表れといったニュアンスをこめて使用しています。

「認識」という言葉にはそうした意志の強さ、ターゲットの正確性、ゆるぎなく確固たる印象があるわけですが、

実はもう一つ、「認識」とは3つの要素で成り立っているという考え方を哲学カフェの中で教えてもらいました。

「認識」を構成する3つの要素というのは、次の3つです。

①Justice(正当化)
②Truth(真実)
③Belief(信仰)


すなわち自分の中で正当だと感じ、真実だと思えて、心の底から信じられる感覚となった時、人は「認識」するのだといいます。

この3要素を逆手にとれば、無自覚のストレスを「認識」することがいかに難しいかが説明できるように思います。

真実は往々にして情報によって歪められます。そのことは一連の新型コロナウイルス騒動によって多くの人が何となく感じている所かもしれません。

様々な情報が行き交う環境はその時点で正確性があるはずの「認識」がぶれやすいということを意味しています。

そして正当化が関わっているのだとすれば、自分が何を正しいと考えるかの基準となる「善悪のものさし」が「認識」に深く関わっているということでもあります。

自分の中での「善悪のものさし」が揺るぎないものであればあるほど、「認識」を改めることは至難の業になります。

最終的には自分がそうに違いないと信じられるものを私達が「認識」しているのであれば、「認識」には価値観というものが深く関わっているということになります。

それが故に確固たる価値観に支えられた「認識」は揺るぎないのだと思いますし、

逆に言えばそれらの構成要素がその人の「認識」を変えることの難しさを物語っているようにも思えますし、

冒頭の「あなたとは認識が違う」と言われた時に受けるもう修復できそうにない距離感の大きさも、「認識」を構成するそうした3要素に由来するものだと考えると説明がつきそうです。

そしてもう一つ注目すべきことは、私達はこの3要素を逐一吟味して検討に検討を重ねて「認識」という行為を行っているのではなく、

「認識」という行為は、常にほんの一瞬で行われている行為だということです。

つまりその都度、その対象物が正当なのかどうか、真実なのかどうか、信じるに足るかどうかを検討するのではなく、

それまでの人生経験の中で、何を正当だと感じるのか、何を真実だとみなすのか、何に対して信用するのかという価値観が「認識」を左右しているのだということです。

逆に言えば、「認識」を見直すためには「価値観」ごと振り返らなければ変えることは不可能だということです。


全体を通じて難しいテーマだったかもしれませんが、私は今回の「認識」についての哲学カフェで一つ大きな収穫がありました。

それは、無自覚のストレスが認識できないことに伴う難病を治すアプローチとして哲学は有用な方法の一つであるということです。

なぜならば哲学は既存のものの見方を疑って、分解して再構成して、本質的なものの見方へ到達しようとするアプローチであるからです。

強固に固まった価値観を見直すためには、一度分解して再構成するというアプローチが適しているはずです。

哲学を学べば、それをするための方法を訓練することができるようになると思います。

難病で苦しむすべての方へ是非とも哲学の考え方を知ってもらいたいです。


たがしゅう

関連記事

            
                                  

コメント

非公開コメント
        

No title
『私が「認識」という言葉を使うのは「ストレス」について考える時です。』

先生は、脳神経内科が専門なので特にストレスに結び付けられたのしょうが、他の病気の症状や怪我についても同様なのではないでしょうか。

 苦しさや傷みは、その症状を自然治癒力が発揮されている状況と考えることが出来ると思います。

 ただ、普通の方々は、(お金を使って)誰か・何かに助けてもらうことが、行動原理となってしまっているので、「対処療法でしかなくて、直りを遅らせる諸刃の剣」である風邪薬や鎮痛剤に頼るという、いわば「認識よりも逃避を選んでしまう」のではないでしょうか。
Re: No title
タヌパパ さん

 コメント頂き有難うございます。

>  苦しさや傷みは、その症状を自然治癒力が発揮されている状況と考えることが出来ると思います。
>  ただ、普通の方々は、(お金を使って)誰か・何かに助けてもらうことが、行動原理となってしまっている
>  いわば「認識よりも逃避を選んでしまう」のではないでしょうか。


 そうですね。
 前者はおっしゃるように「病気の症状は自然治癒力(自己治癒力】の発動」だと「認識」していると思います。
 後者もある意味で「病気の症状は知識のある誰かに助けてもらうべき状況」だと「認識」しているとも言えるのではないかと思います。

 いずれの認識もその人を形づくる「価値観」に深く根ざしているのではないかと私は思います。