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「ウィズコロナ」:小川仁志先生のオンライン哲学カフェの御報告

category - イベント参加
2020/ 09/ 12
                 
私に「哲学カフェ」という文化を知るきっかけを下さった小川仁志先生が、

Zoomでオンライン哲学カフェを開催されるということで参加して参りました。

小川仁志先生はどんな先生か、よく知らない方は最近YouTubeも始められているので、是非一度ご覧になって下さい。素敵な先生です。

テーマは「ウィズコロナとは何か?」、今までであれば参加したくてもはるばる山口県へ移動しないといけなかったのが、

大分ハードル低めで参加することができてよかったです。そして十分に哲学をすることができるということも実感することができた。

いつも小川先生の哲学カフェは60分で終わるので、どうも物足りなさを感じることが多かったのですが、

今回は会場の時間などを気にする必要がなかったためか、ふたをあければ90分間の哲学カフェ、

私にとって最後の30分は、「いつもならもう終わるのに、まだ話せて楽しい!」と思えるボーナスタイムのようでした。
            

さて、テーマは「ウィズコロナ」。この言葉が聞かれるようになって大分経ちますが、

まずこの言葉を肯定的に捉えているか、否定的に捉えているかという小川先生の質問から始まりました。

私はオンライン診療医という立場もあって、当然肯定的に捉えている立場を表明しました。コロナがなければ遅々として進まなかったオンライン診療があっと言う間に改革されていったように思います。

そうした変化は社会のいたるところで起こっており、これはコロナ禍における典型的なポジティブ面であろうと思います。

しかし一方で、マスクをつかなくてはならなくなったとか、ネットを扱うことに慣れていない人が置いていかれる弱者に厳しい世の中になったとか、

勿論仕事や学習の機会を奪われたというネガティブな側面もあるのは皆さんもご存知の通りでしょう。

しかし今回の議論の中では、これがいつかまたもとの世界に戻るのではないかという淡い期待を持ちながらも、これから先そのように変化した生活が延々と続くという前提も同時に考えていなかければならないと、

その意味で「ウィズコロナ」というのは言わば過渡期であって、様々な葛藤を抱えながら社会として適応・成熟を目指さなければいかない変革期なのであろうと思いました。

その変革をスムーズに、そしてなるべく最大多数の幸福をできるだけ大きなものにしていくためにも、

まずこのコロナ後の社会は何がどう変わったのか、その本質について見抜こうというよい機会だったのではないかと思います。

まずは人と人との距離感が変わったという意見が聞かれました。

確かに家を出ればソーシャルディスタンスを保つよう求められる場面に頻繁に遭遇しますし、

会いたい人に会いたいと思った時に会えないという状況も現実に出てくるようになってしまいました。

一方でそれまでであればつながる機会のない人とつながるようになったという側面も出てきました。

私もオンラインセミナーをよく開きますが、今までであれば参加してくれなかっただろうなと思う人が参加してくれることは結構あります。

そういうポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも距離感が変わった、ということは一つ確かに社会の変化としてあると思います。

それからオンラインの技術がやたらと注目されるようになりました。

今までもオンラインの技術は存在していましたが、やはり一部の人だけが使うちょっとイケてるツールという感は否めませんでしたが、

コロナによってそのオンライン技術への関心が一気に高められていき、その象徴的な存在がZoomの普及だと思います。

私達の目線がオンラインに釘付けにさせられた、それもコロナによる社会の変化と言っていいように思います。

あとは仕事の価値や置かれているポジションの価値が変わったと言いましょうか。

例えば今までであれば離れた場所から満員電車に揺られながら、都会の一等地にある会社のビルに通勤する生活を送ることは、一種のステータスとして社会的にはみられる風潮があったかと思います。

しかし、今はどうでしょうか。むしろ満員電車で混雑するリスク、通勤のために長い時間を消費するリスク、

あるいはGO TOキャンペーンで東京のみが除外対象になると言った出来事からも、都会の価値というものが急速に下がりつつある現象を目の当たりにしているようにも思います。

そしてそうした状況の変化から混雑する場所を避ける方向へ人の目は向いて、それに応じて必要とされる仕事の内容も変わってきました。

狭い空間にたくさん人を集める仕事の価値が下がり、宅配やテイクアウト、通販系の仕事の価値が上がっていきました。

そのように仕事の価値とその人の置かれている状態の意味合いが変わってきたのもコロナによる大きな社会変化の一つでしょう。

あとは政治に対する見方も変わってきたのではないかと思います。小川先生からはコミュニズムという言葉が紹介されました。

コミュニズムとは「共産主義」のことで、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会を目指す政治思想のことです。

私は一連のコロナ騒動の中で、日本の政治は臨時事態に全く有効に機能しないというのが露呈されたと感じていたので、

政治に対して何かを期待しようという気持ちは今まで以上になくなりました。

そして外側から政治を変えようと働きかけようにも、もはやどうにも変わらないような構造になってしまっていると少なくとも私には感じられるので、

もはや政治の悪影響をなるべく受けないようにしようという意思が強くなったのが個人的なコロナ前後での変化ですが、

かたや政治という点では見事にその機能を発揮したと思われるのはスウェーデンです。

世界各国がコロナに対して軒並みロックダウンを中心とした制圧的戦略をとっている中でスウェーデンは、

ロックダウンの効果にはエビデンスがないことを冷静に見抜き、持続可能な戦略として経済活動を回すことを最優先事項と捉え、

国としての方針を公開し、その方針の根拠を明確に照会できる体制を作り、それを国民に周知させるシステムを徹底させるということで見事にこの難局を乗り切り平穏な社会を維持しているように私には思えます。

政治が正しく機能すれば、社会にこれだけの恩恵をもたらすことができるわけです。だからこそ政治は大事だと思うわけですが、変革に限界があるのであれば早々に見切らなければならないということもあると思います。

私はコロナによって日本の政治の致命的な欠陥が露呈されたと感じています。

その致命的な欠陥というのは、不可逆的に変わらない状態にある、ということです。これについては異論の余地はあるかもしれませんが、私にはそのように感じられています。

それともう一つ、カフェの中で上がった意見として面白かったのは、「コロナで人間らしい生活が取り戻せた」かもしれないということです。

今まであくせくと働いていた人が、急に在宅勤務になったり、勉強でまっさかりだった学生も急に休みが出来てぽっかりと時間ができたり、

よくも悪くも今まで既存の社会文化の中で忙しくせざるを得ない環境にあった人に時間のゆとりが持てるようになるという変化が起こったのです。

無意識に回されていた忙しさの歯車に強制的にブレーキがかかったとでも申しましょうか。カフェの中では「グレートリセット」という言葉も出てきました。

それによって生活が立ち行かなくなるかどうかは個別のケースでは定かではありませんが、一つの意見としてはこの変化のおかげでゆっくりと時間が過ごせるようになったというものがありました。

確かに私もそれまで東京の講演会やイベントに頻繁に参加するのが常の生活でしたが、

コロナによってそれが一気になくなって、スケジュールに大量の空きが出来ました。その結果、何を考えたかといいますと、身近でできることに目が向くようになりました。

ひょっとしたら、今までは何か空虚な概念を必死に追いかけていたのかもしれないと、もっと言えば東京に一生懸命行けば次第とすごい自分になっていくのではないかという気持ちに無意識にさせられていたのかもしれないと今になって思います。

結果的には東京に行かなくなっても何も困ることはありませんでした。それどころか自分の身の回りの人を大事にするという方に意識が向くという恩恵があったように思います。

さて、ここまでのところをまとめると「ウィズコロナ」にて起こった社会構造の変化は以下のキーワードで表現されます。

・人の距離感の変化
・オンラインへの注目
・社会の価値変化(蜜から疎へ)
・政治の役割の明確化
・人間らしい生活の再興


この変化を良いと捉える人もいますが、多くの人がこの社会の大変革に苦しい思いをしている実情があると思います。

最後はどうすればこの変化を踏まえて社会がよくなっていくであろうかというテーマで対話がなされました。

私の意見は「ともかく多様性が受容される社会にしていくこと」です。

オンラインでの注目の際に出てきた意見として、「デジタルになれない高齢者にとってオンライン中心の社会はやさしくない」というものがありました。

これはコロナに限らず、どのような社会変革が起こったとしても、その恩恵を受ける人とそうではない人が出てくるものです。これ自体は如何ともし難いことでしょう。

だから社会の中になるべく多様を受け入れる受け皿が出来ているという体制があることが大事だと私は思うのです。

学校で言えば対面授業の価値、オンライン授業の価値、それぞれにいいところがあるので、それをハイブリッドで行えるような体制を作ろうという動きもあるようです。

これは多様性を受け入れようという動きの一つではありますが、必ずしもそれが一つの場所で受け入れるべきというわけではないように私は思います。

鉄道会社でICカードと切符の両方に対応できる機械を設置すると、ICカードのみのものに比べて非常にコストが高くなるという話もあります。

1か所で多様性を受け入れようとするのではなく、社会の中のどこかに多様性を受け入れる受け皿があればよいと私は思っています。

その意味でオンラインの技術の発展とそれに対する人々の関心の高まりは受け皿を広げる可能性を飛躍的に高めたと考えられます。

なぜならば今までではつながりえなかった人と人とがつながるようになりましたし、それによって今まででは起こりえなかったアイデアがたくさん生まれる土壌が育まれてきたからです。

私のオンライン診療も医療に対して今までにない価値を提供できるようになりました。

私のオンライン診療が提供する医療における新しい価値は「慢性疾患を患者主導で腰を据えて治していく場を提供する」というものです。

多くのオンライン診療はそうではなくて、既存の医療価値の延長で考えていると思いますが、

オンライン診療の世界に私という変わり者の医者が飛び込んだことによって、この選択肢が現実的に使えるようになりました。

私個人でさえこのような新しい価値を提供できるようになったのは紛れもなくオンライン技術のおかげです。

いわんや私と誰かがつながればまた新しい医療の価値を提供することができるのではないでしょうか。

ただ、それに対して「多様性を受容する社会は確かに重要だが、そのような社会は大きなストレスになるのではないか」という意見がありました。

確かに多様性を受容するのは大変なことです。今まで受け入れられなかった価値観を新たに受け入れていかなければならないわけですから。

しかし先ほどのように1か所ですべての多様性を受け入れる必要はなく、社会の中のどこかでそれを受け入れる受け皿があれば社会としては多様な価値観を受け入れることが出来ている、ということになるのではないかと思います。

それは発達障害と称される個性の強い人や何らかの事情で身体の障害を持っている人を受け入れる従来からも言われていた多様性の需要のみならず、

オンラインに適応できない高齢者をも受け入れる受け皿、社会構造の変化で労働や学習の場所を失ったような人たちをも受け入れる受け皿、他にも様々な観点で社会の主流からはみ出している人がいると思います。

そうした人が個人としてではなく社会として受け入れられるような変化は個人にかかるストレスを緩和してくれるのではないかと思います。

そしてその多様性を受け入れるという価値観が主流になれば、いつの間にかストレスの根源でさえ消えてしまっているように思います。

なぜならば人は集団を好み、集団は集団として赴く方向へ進むことをよしとするからです。

そこにおいて政治の役割はとても大切で、スウェーデンのような政治がどのようにして実現するのかに関しても私達はおおいに見習う必要があるように思います。

そんなに簡単にいかない話であることは重々承知の上ですが、少なくとも世界中の様々な人と人がつながりやすくなったことによって受け皿を作り出す潜在能力は高まったとみるべきで、

社会をよくしていくための足掛かりがコロナによってもたらされたと捉えるべきで、

「ウィズコロナ」は社会をよい方向にもっていくためのグレートリセット後の最大の試練がもたらされた、その最初期の混乱や葛藤を見ているものなのかもしれません。

今回も頭を整理する非常によい機会となりました。参加された皆さん、有難うございました。

小川先生の哲学カフェ、おすすめです。皆さんももしよければ一度参加されることをおすすめします。


たがしゅう

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