どこまでを「自分」と思えるか

2020/07/11 07:10:00 | 素朴な疑問 | コメント:0件

前回「主体性」を発揮するためには常に「自分がどうしたいか」という基準で動く必要があるという考えを示しました。

ところがこの考え方は、一歩間違えればただの「わがまま」となってしまうようなものの考え方です。

「わがまま」と「あるがまま」、本質的には同じ意味であるはずの二つの言葉は異なるイメージで捉えられてしまっているのではないでしょうか。

少なくとも私には「わがまま」とは自分本位の周囲がどうなっても構わないとでも言うような身勝手な状態で、

「あるがまま」というのは自然重視型で起こってくるすべての出来事を受け入れつつ、その上で自分がどうしたいかを考えるという姿勢の状態であるように感じられます。

自分の人生を「わがまま」ではなく、「あるがまま」だと思えるような心の在り方を考える上で、もう一つ大切なことがあると私は思っています。

それは「どこまでを自分と思えるか」ということです。

それについての考え方によってただの「わがまま」行動になるか、「あるがまま」に自分の人生を生きられている気持ちでいられるかの命運が変わってくるよう私は思うのです。 「何を言う、『自分は自分』でしかないではないか」と思われるかもしれませんが、

アドラー心理学において「共同体感覚」という概念があります。例えばあなたは自分の家族を自分と同じくらい大事に思えていますでしょうか?

もしこの質問に対してYesであればあなたには共同体感覚があるということになります。それでは「親戚」はどうでしょうか?「親友」はどうでしょうか?「職場で仲のよい同僚」はどうでしょうか?

考える相手によって共同体感覚の濃淡が変わってくる感覚を覚えるのではないでしょうか。それでは「通りすがりの人」は?「異国の地にいる人」は?人間以外の「動物」や「植物」は?

共同体感覚をどこまで広く持てるかというのは、人によって感覚が違うと思いますし、自分の価値観の中で関係性が遠ければ遠いほど共同体感覚を構築するのに無理が出てきます。

しかしながら、この共同体感覚が広ければ広いほど、「あるがまま」の生き方がしやすくなるのではないかと私は思っています。


私は組織に所属する人が「主体性」を発揮することは基本的に困難なことだと思っています。

なぜならば自分の想いを成し遂げようとも、そこには自分とは違う組織の意向が存在し、組織の意向に背くことは自分の不利益へとつながりうる行為となる構造があるからです。

一方で、もしこの組織全体に自分に共同体感覚が持てている状態であればどうでしょうか。自分の意向に反対する部分を含めて「自分」だと思えるような心持ちになると思います。

ちょうど自分の身体が37兆個の細胞から構成される一種の共同体だと考えた時に、自分の身体には健康に働いている「肝臓」もあれば、調子の悪い「腎臓」もある、はたまた自分だけやたらと無理をしている「副腎」もあれば、「大腸」にはがん細胞ができている・・・

しかしそんな様々な状態(意見)がありながらも、「自分」という一つの共同体だと心底思える心持ちであれば、

じゃあ、そういう異なった意見がある中で結局どう動くのが「自分」全体としてよい方向へ進めるかという思考で次のアクションを考えることができます。

これが「肝臓」のことだけを考えて他のすべてを犠牲にするような生き方は、「腎臓」「副腎」「大腸」をはじめ他の臓器や細胞を酷使するような生き方となってしまい、結果的に全体としての「自分」は秩序が保てなくなってしまいそうです。

組織において、共同体感覚として「主体性」を発揮するということは、「肝臓」「腎臓」「副腎」「大腸」、他『自分』を構成するすべての構成要素すべてにとって、一番進みたい方向はどちらだろうかと考える営みに他ならないのではないかと私は思うのです。

そのような共同体感覚を「家族」⇒「会社」⇒「地域」⇒「国」⇒「全世界」という形で拡げていくことができれば、少なくとも自分の選ぶ選択は「わがまま」ではなく、「あるがまま」に近づくのではないでしょうか。


生物学的には「自分」は自分でしかないはずのものを、「他者」を含めて「自分」と捉え直す「共同体感覚」、これは言わば人間にだけ成し遂げることのできる究極的な人為なのかもしれません。

そういえば、新型コロナウイルス関連の考察で私が至った「自然免疫」の重要性、

このシステムを動かす際に分子生物学的なキー物質となっている「HLA」はそもそも「自己」と「非自己(他者)」を見分けることがその中心的役割でした。

「非自己」と認識された相手に対してヒトは複雑なメカニズムを介して炎症反応を惹起して、「自己」の秩序を保とうとします。

これは「他者」と認識された相手を誹謗中傷して、排除したり貶めたりして「自分」の中の精神的安定を保とうとする人間社会での行動とリンクします。

あるいは細胞の炎症反応も行きすぎると「サイトカインストーム」と呼ばれる暴走状態に至り、もともとは「自己」を守るための反応が皮肉にもかえって自己を破壊するような結末へと至ってしまいます。その発端となった現象は「HLA」によって相手を「非自己」だと認識してしまったことです。

これは「他者」を排除しようとする行きすぎた行動、民族差別や戦争などが人間に多大な不利益をもたらし社会を崩壊させていくような構造とリンクします。これもまた発端となった出来事はそもそも「奴らは自分達とは違う」と思った感情です。

とはいえ「HLA」にしても、「自分という存在」にしても、相同しない分子や自分以外の人間を自分と同じ「自己」だと捉えるのは物理的には無理があるでしょう。どれだけ理想を掲げたところで「非自己」は「非自己」、「他者」は「他者」だと思います。

ところが、その「非自己」とか、「他者」の捉え方を「自分と共同的な存在」だと変えることによって、「自己」の中で起こって来る、炎症反応や精神状態の変化が影響を受ける可能性は否定できないのではないでしょうか。

マスク装着を強要する社会、新しい生活様式を求める社会、あるいは自分の考えに対して批判的な社会、これらをすべて含めて「自分」だと思うのは難しいことなのかもしれませんが、

そのように心底思えるようになり、そこからどうするかを考えるようになることが心身の安定をもたらすのではないでしょうか。

そしてそのように捉えることができれば、いわゆる「わがまま」な行動を考えなくても済むようになるはずです。なぜならば「わがまま」な行動をとることで、「他者」を含めた「共同体」を苦しめたくないからです。

そうすれば、「自己犠牲」と「自己貢献」の狭間の中で、最も妥当な選択を考えていくことができるはずです。

その意味では、日本と諸外国は違うというスタンスそのものも見直してもよいのかもしれません。


たがしゅう
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