医療の前提が間違っていた
2020/07/09 10:40:00 |
素朴な疑問 |
コメント:3件
新型コロナウイルス騒動における様々な考察の蓄積によって私自身の医療観が洗練されつつある実感を持ちます。
ある場所で「医療者は重症化リスクの高い高齢者を守るために確かなことがわかるまでは未知の部分を踏まえた慎重な対応をとり続けるべきだ」という『未知のリスク重視型』の意見を聞きます。
またある場所では「重症化リスクの高い高齢者だけを隔離し、それ以外の人間はある程度のリスクを許容しながら経済を回すべき」という『既知のリスク重視型』の意見も聞きます。
それぞれ確かに一理ある意見に感じられますが、私の中でそれぞれどこか違和感のある意見でもありました。
しばらくこの違和感の正体が何なのかを考え続けていましたが、ある時ふっとひらめきました。
この違和感は「医療が他人の人生をコントロールしようとしている」ことに由来しているのではないかと。 前者の『未知のリスク重視型』の意見は、「医療が患者を救うべき」という観念の下にもたらされているものに思えます。
また後者の『既知のリスク重視型』の意見も、限られた医療資源を効率的に分配しようと一歩思考が進んでいるようですが、基本的には同様の観念に基づいているように思えます。
これがもし、他人の人生のリスクを自分がコントロールしようとするのではなく、自分の人生において自分自身がリスクに直面するような場合は、
様々な選択肢の中のリスクを自分の中で天秤にかけながら、最も妥当だと思える選択肢を選ぶという決断をする流れになるのではないかと思います。
この時、リスクを高めに見積もる人はゼロリスクに近い行動を求め続けると思いますし、
ある程度のリスクを許容できる人は、リスクの裏のメリットにも注目しつつ自ら行動を選んでいくことになるでしょう。
つまり、自分の人生のリスクを自分でコントロールするということを、意識的にせよ、無意識的にせよ、多かれ少なかれ誰しも行っているという構造があると思います。
一方で医療はあまりにも「他人の人生のリスクをコントロールしようとする」観念が強まりすぎているのかもしれません。
なぜそのような観念が強まり過ぎたのかと言いますと、おそらく人々の中に「病気とは自分のせいではない何かのせい」という思いが生じやすいからではないかと思います。
感染症にしても、がんにしても、認知症にしても、「自分ではない何かによってもたらされたもの」だと捉えている人がほとんどだという実感が少なくとも私にはあります。
しかし実際にはこれらの病気は実は自分自身の表現型に過ぎないと、つまり「病気とは自分自身そのものである」という考えに私は至りました。
従って、これらを「治す」ということを達成するためには、本質的には自分自身の考えや行動を見直すより他にないわけで、
周りの他人ができることは本質的にはその本人の調整作業を応援したり、支えたりすることしかできないということになるはずです。
それなのに、病気というものが「自分ではない何かによってもたらされたもの」だと考えられてしまうと、
医療はその「何か」を探し出して退治することが至上命令となります。実際に多くの医療はそのような構造になっていると思います。
そうするとその行為は自分の課題に他人がずかずかと踏み込む行為、アドラー心理学でいうところの「課題の分離」が出来ていない状態となります。
「課題の分離」が出来ないことは端的に言えば不幸へまっしぐらの道です。なぜならば「自分の課題」は本質的に他人には解決できないからです。
解決できない課題に対し解決しようと時間と労力を費やし続けることは、疲弊や徒労を生み出すだけであるからです。
高齢者を守るために医療者が最大限未知のリスクに配慮して、マスク・手袋・消毒実施、三密回避、ソーシャルディスタンス確保をはじめ可能性のあることは何でも行う行為、
あるいは社会全体の経済を回して人類全体として生存し続けるために高齢者だけを隔離するという行為、
いずれも「他人の課題」に踏み込み過ぎている考え方であるように私には思えます。
本来であれば、自らのリスクをどのように考えて、どのように行動するのかは高齢者自身が考えるべき課題です。
高齢者自身が自分は高リスクだと思えば自ら自粛するもよし、自分は感染リスクを承知でマスク・手洗い・消毒、三密回避、距離確保で社会活動を続けるもよし、
あるいはそうした常識をも疑い、自らが正しいと思える行動をとるもよしです。高齢者だけが特別なわけではなく、自分自身で責任を持ち行動するのであればこれらの行動は全てよしです。
日本は「人様に迷惑をかけないように」という文化的価値観も強い国ですし、それ自体はある程度納得できるものの考え方だと私も思いますが、
本質的には人様がどう思うかどうかは他人の課題であり、自分が人様にどう思われるかを考えた上で自分の人生の決断を下しているのであればそれは尊重されるべきですし、それを不快に感じる人はその人から離れるという選択肢もあるでしょう。
そして何より当の本人にとって、自らが決めた決断による行動は最も精神的安定を得られる方法となりうるはずです。
しかし多くの人はその選択を考えようともしないし、認知症などの理由で不可逆的に脳機能が低下し、もはや自分では考えられなくなってしまったという人も多いことでしょう。
だからこそ医療が考えない他者に対して介入して行かざるを得ない状況になってしまったように思います。
医療が他者の課題に踏み込み過ぎていくようになった背景には、
「病気が自分ではない何かによってもたらされた」という観念、その観念に伴い専門家にその退治を全面的に委ねようとする「先生にお任せします」の理念、
要するに「主体性の欠如」が大きく関わっているように私は思います。
私もオンライン診療の世界に飛び出すまでは、既存の医療の文化の中で生きてきた人間です。
その中で治せない患者さんに対して思い悩み、どうすればよいかを考え続けて、様々な医療の形を求め続けてきた歴史があります。
しかしひょっとしたら医療の大前提を間違っていたのかもしれません。
今「主体性」を重視するオンライン診療での医療の形を立ち上げて、まだ到底世間に浸透しているとは言いがたい状況ではありますが、
少なくとも私の苦悩は随分軽減されたように思います。そもそも私に他人を「治す」ことはできないということに気づいたからです。
私という患者さんにとっての「他人」は、患者さん自身の決断を支え、応援することしかできないということです。
一方で決断のない患者さんへは、冒頭の意見のように既存の医療的価値観の中で対策を進めていくより他になく、私もその流れを勧めることになるでしょう。
今後も主体性の欠如した患者さん達のために今の形の医療は求められ続けるとは思いますが、
私は「主体性」を持って「治る」ための決断をする患者さんを応援する
「主体的医療」の芽を育てるという自分の人生を引き続き歩んでいこうと思います。
たがしゅう
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プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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主体性が否定される
しかし昨今の状況はその主体的行動を許さなくなってきました。
マスク、アルコール消毒、勉強会ではフェイスガードや衝立使用。
映画館も、公共施設も主体的行動を許してくれません。入場禁止です。地下鉄もマスクなしでの乗車には勇気が必要です。マスクなしでも有りでも結局ストレスです。事コロナに関しては主体性を発揮しようとすればするほど、下手をすれば人間関係、仕事関係までおかしくなりそうです。今ではひょっとしたらワクチンの強制?までと心配もしています。そんなジレンマを先生もお感じになっておられると思いますが、このあたりについて先生はどう思われますか?
お聞かせいただければ幸いです。
Re: 主体性が否定される
御質問頂き有難うございます。
> 昨今の状況はその主体的行動を許さなくなってきました。
> マスク、アルコール消毒、勉強会ではフェイスガードや衝立使用。
> 映画館も、公共施設も主体的行動を許してくれません。入場禁止です。地下鉄もマスクなしでの乗車には勇気が必要です。マスクなしでも有りでも結局ストレスです。事コロナに関しては主体性を発揮しようとすればするほど、下手をすれば人間関係、仕事関係までおかしくなりそうです。今ではひょっとしたらワクチンの強制?までと心配もしています。そんなジレンマを先生もお感じになっておられると思いますが、このあたりについて先生はどう思われますか?
これは大変重要な御質問ですので、是非ともブログ本記事の方で返答させて頂ければと思います。宜しくお願い致します。
No title
「主体性」とは先ず内面的なものなのではないでしょうか。
自分が思うこと全てが実現できる世の中など無いと思います。
内面的に主体性を保ちつつ、周りの方々の協調とのバランスを考えながら行動に移ればよいのではないでしょうか。
そして、その自分の意に反する行為を行ったことが、自分及び周りの方々にどのような影響をもたらしたのかを、「あまり深刻にならず」反省ないしは考察していけば、自分自身の成長につながると考えます。
また、そうしないと、主体的あるが故にストレスに晒されてしまいます。
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