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陰謀論について考えるのは一番最後

category - 自分のこと
2020/ 07/ 02
                 
前回取り上げた「正義」についてもう少し考えを深めてみます。

昨今の目覚ましいSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の発達に伴って、有名人などある特定の人物に対する匿名不特定多数の人物からの誹謗中傷の問題が取り沙汰されるようになりました。

注目すべきは「誹謗中傷している人物は誹謗中傷しているという自覚がない」という事実です。

つまり誹謗中傷している人の中で「今から誹謗中傷するぞ」と思いながらやっている人は誰一人おらず、

ほとんどの場合、自分の中にある価値観にそぐわない特定の人物の行動、ひどい場合は人格そのものに対して、

それを正そうという「正義感」を持って発言しているのではないかと思われるわけです。

そういう意味で「正義感」を持って行動することは、常に「誹謗中傷」のリスクと隣り合わせであるという認識を持つ必要があるのかもしれません。

            

この「正義感」を持って結果的に誹謗中傷行動をとる人の心理状況をもう少し掘り下げてみますと、

「自分は相手の問題とは全く無関係である」「自分であればそんなことを行うことはありえない」といったように、

相手の行動と自分の行動とを完全に切り離して考えているという特徴があるように思います。

例えば、最近も有名人の不貞行為が話題になりましたが、

この話題についてその有名人に対して誹謗中傷を行う人は、まさに「そんなことするなんて自分には考えられない」という感覚を持って発言しているのだと思いますが、

例えば私なんかは、もしも自分が同じ立場におかれたらどう思うだろうか、あるいは社会の秩序を保つために抑制している自分の根源的な欲求などと照らし合わせて考えると、

全くもって自分の中にその有名人の方の要素がないとは言い切れませんので、むしろ自分のそういう部分に対する戒めや教訓としてこの話題を受け止めて、その有名人の方を公的な場で誹謗中傷するのは論外ですし、批判でさえしようとは決して思いません。

一見理解できないような相手の行動に対して、同じ行動へとつながりうる潜在的な因子が自分の中に存在している可能性を認識できるかどうかはとても大事なことだと思っています。

そう考えることによって、相手への誹謗中傷は本質的に自分自身への誹謗中傷にもつながることとなります。

自分自身に対して誹謗中傷を行おうと思う人はおそらくいないと思いますが、そう考えれば他人を誹謗中傷する行為がどれほどきつい行為であるか

要するに「自分のことはそっちのけで考える」スタンスが誹謗中傷を生み出すと、「いかに他人事を自分事として捉えることができるか」が大事だと私は思います。


実はこの「自分の中に潜む他人の行動と共通する要素」を認識することは、実は「陰謀論」と呼ばれる話との付き合い方に応用することができます。

結論から言いますと、私は「陰謀論について考えるのは一番最後」というスタンスを持っています。

なぜならば「世の中に絶対悪は存在せず、正しいかどうかは別としてすべての行動はすべての人間に共通する何らかの秩序に基づいている」と思っているからです。

こんなことを言うと「そんなことを言っていると簡単に騙されますよ」と思われそうですが、そのスタンスを取るにはそれなりに根拠があるので説明します。

「陰謀論」というのは構造としては「何か絶対的な悪が存在していて、その悪が明確な悪意を持って善意の住民をコントロールしている」という考え方ではないかと思いますが、

これはまさに「自分の中に全く存在しない悪」を認識するアプローチなのです。

一定数陰謀論に惹かれる人は存在して、その話をまことしやかに拡散しているグループは色々なところで見聞きするのですが、

陰謀論に惹かれる理由は「そう考えるとすべての謎が解けて、しっくりくる」からではないかと思います。

例えば、製薬会社が利益相反を背景に医学論文をねつ造するという類の情報についてですが、

これも「製薬会社の陰謀だ」と考えると妙に附に落ちて納得がいくというのが正直なところではないかと思います。

構造としては「製薬会社という巨悪が、善良たる我々市民を騙して、巨額の利益を得ようとしている」という理解の仕方です。

この理解の仕方は、納得がいくし何より「楽」なのです。なぜ「楽」なのかと言いますと、自分が「完全なる被害者」であるからです。

「自分は何も悪くない」という発想を持つと、あとはその「巨悪に対して反発する態度」をとり続ければよいだけ、という言わば思考停止的な行動パターンになってしまうのです。

ところが例えば、自分がその製薬会社の立場に立っていたらどう思い、どう行動するだろうかということを考えてみます。

ある薬を売りたいと思っている製薬会社の職員である自分が、薬の効果を検証する研究を行ったと、

その結果、その薬は若干の効果はあるものの、有害だと思える現象もそれなりに観察されていたと、

その場合、はたして正直にすべての情報を開示するだろうかと、嘘をつかないレベルで自社に有利な情報を載せようとデータの見せ方を工夫するのではないかと、

そしてもしその時自分の業績が悪ければ、あるいは家族を守るために家計が苦しければ、業績を上げて収入を得るために若干の嘘もついてしまうかもしれないと、

陰謀論的な立場でいれば、「巨悪」だとシンプルに結論づけてしまっていた要素が、よくよく考えれば自分の中にも潜んでいる要素かもしれないということに気づかされるのではないでしょうか。

そんな風に考えるのは、私が普段から「哲学カフェ」に参加し、「相手の意見を全否定しない」というスタンスで考えているからかもしれません。

確かに「陰謀論」でささやかれるような「完全なる巨悪」が存在する可能性がゼロとは言い切れません。

しかし多くの「巨悪」と思える人達、例えば詐欺師だとかテロ集団であっても、そのような行動を取るにはその人達なりの論理が存在すると思うし、

その論理を形成する要素には自分の中にも共通するところがあると考えることができれば、

相手のすべてを否定するのではなく、なぜ相手がそのような行動をとるのかという形で相手の中に潜む自分の要素を見ようとする視点が生まれます。

そう考えると、あらゆる「巨悪」はある意味で自分自身を反映しているとも思えるわけで、

その可能性を完全否定する「陰謀論」に私はどうもなじまないのです。

しかも「陰謀論」を受け入れると、その対策が「陰謀論と戦うか、逃げるか」という風に構造的に画一的になり、どちらに転んでもストレスフルになってしまいます。

けれども「巨悪」に潜む自分の中にもある共通要素に注目すれば、「巨悪」と称されるその現象のメカニズムについて自分事として捉えることができ、

その現象を少なくするために、あるいはコントロールするためには何をどう考えて、どう行動すればよいのかという具体的なストレスマネジメント法へと導くことができるようになります。

そういう意味でも全くもって自己成長へとつながらない「陰謀論」の可能性を考えるのは、私の中で最も優先順位の低いこととなっています。

「そんなこと言っている人こそ真っ先に騙されるぞ」と言われてしまうかもしれませんが、

「なぜその騙すという行動が生まれたのか、その行動につながる自分にもつながる共通要因は何なのか」を考えて、

全人類に役に立つ教訓が得られるよう私は繰り返し考えていきたいです。

・・・そんなこと言いながらも、大きく騙されて壊滅的な被害を被れば気持ちも変わるかもしれませんけどね。


たがしゅう

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