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「正義」:(オンライン)たにやま哲学カフェ参加の御報告

category - イベント参加
2020/ 07/ 01
                 
私の鹿児島勤務医時代にお世話になった「たにやま哲学カフェ」が昨日、初のオンライン開催で行われました。

オンライン文化が急速に発展していく中で、今までであれば地理的に参加不可能であった会に参加できるようになったことを大変有り難く感じています。

たにやま哲学カフェHP【URL】https://tanitetsu.com

今回のテーマは「正義ってなんだろう?」。このご時世にタイムリーかつとても興味深いテーマでしたので、是非にと思って予定があったため前半30分だけではありましたが私も参加して参りました。

さらに有り難いことにこの模様は主催の妙行寺が運営されているYouTubeチャンネル「寺猫ちょびチャンネル」にてLive配信されていましたので、おかげさまで私の不参加であった部分も確認することができました。

今回のたにやまカフェでの内容も踏まえて、良い機会ですので「正義」について私の考えを整理しておこうと思います。
            

まず私が過去のブログで「正義」という言葉を使っているかどうか、自分のブログ内検索でざっとおさらいしてみたのですが、

私自身が正義感を持って何かを発言しているという場面は一度もなくて、

どちらかと言えば、引用する記事や書籍の中で「正義」という概念が行きすぎて秩序を乱したり、SNSの中では「炎上」と呼ばれる出来事へとつながっているという他者分析の文脈で記載されていました。

「行きすぎた正義」と言えば、今どうしても私の頭に思い浮かぶのは「自粛警察」です。

「自粛警察」の定義をネットで確認しますと、「新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言に伴う行政による外出や営業などの自粛要請に応じない個人や商店などに対して、偏った正義感や嫉妬心、不安感などから私的に取り締まりや攻撃を行う一般市民やその行為・風潮を指す俗語・インターネットスラング」となっています。

この「自粛警察」と呼ばれる人達、もしくは現象そのものの背景には、「正義」という概念があって、その概念に外れたものに対する許せない感情から批判的、取り締まり的な行動に駆り立てられるという構造があるように思います。

一方で本物の「警察」も構造自体は同じものが当てはまるように思います。「警察」が掲げる「正義」は「犯罪のない世界」ではないかと思いますが、「犯罪」かどうかを区別するのは「法律」だと思います。

スピード違反のように何km以上出せば犯罪、人を殺したら犯罪、他人のものを盗んだら犯罪、といったように「法律」に基づく犯罪であるかどうかの判断は割をクリアカットに判断できるようなイメージがあります。

しかしそんなクリアカットに見える判断基準でさえ完璧ではなく、例えば額面通りに何km以上出した車をすべて取り締まってしまうとその行動を「行きすぎた正義」と感じ不快感を覚えるということに同意される方も多いのではないでしょうか。

かたや「人を殺してはいけない」という法律は皆が守っていた方が明らかに集団としての利益が大きいルールであるので、この基準で犯罪であるかどうかを判断する正義が仮に行きすぎたとしても、そのことを深いに感じる方は少ないように思います。

つまり「正義」とは「ヒトのルールや価値観に基づく秩序を守るための概念」ではないかという考えに至っていきます。

従って、「正義」そのものは集団生活を基本とする人間社会の生活にとってなくてはならないものではないかという風にも考えることができます。

一方で「自粛警察」の行動を私は「行きすぎた正義」と感じますし、そこに同意される方もおそらく多いのではないかと思います。

本来であれば秩序を保つために必要であるはずの「正義」を「行きすぎた正義」に変えさせてしまうものは何なのでしょうか。

基準があいまいであることが要因なのかとも思えますが、先程のスピード違反を取り締まり過ぎると「行きすぎた正義」だと感じられる例からもわかるように、基準が明確かどうかという要因はいまいち芯をついていないように思います。

おそらくは「ルールや価値観が集団の中で共有されているかどうか」という要因の方が正義が行き過ぎるかどうかに大きく関わってくるのではないかと私は思います。

つまりなぜスピード違反を取り締まり過ぎると「行きすぎた正義」に感じるのかといいますと、

「明確でない基準のせいで秩序が守られなくなるから」ではなく、「臨機応変な一時的なスピード増加は許容されるが、無秩序な猛スピード走行は横行するべきではない」という価値観が社会の中でかなり安定して受け入れられているから、なのではないかと。

要するにそのルールや価値観が集団の中で共有され納得できるものであればあるほど、「正義」は行きすぎないと、

逆に言えば、あまりにもルールがあいまいであったり、集団の合意が得られないルールであったりすることを背景に、

秩序ある状況というものに対して多様な捉え方ができるような場合に、正義が一定のものでなく人それぞれの正義が生まれる余地が出てくるように思うのです。

例えば「自粛警察」という現象の元となっているルールや価値観は、「国の宣言に基づき感染を拡大させない秩序を守るために自粛を続けるべき」というものではないかと思いますが、

例えば、お店や会社を経営している人にとってはこれを額面通り守ると経済的に大きな打撃を受けるし、一方で身の周りでそれほど感染による問題が起こっていないという状況があったりすると、

「自粛警察」が拠り所としているそのルールや価値観に対して疑問を感じたり、納得ができないと感じたりされる状況も起こって然るべきだと思います。

このような状況において「誰かの正義が別の人にとっての正義ではない」という現象が生み出され、

自分の正義とのズレが大きい場合に、人はそれを「行きすぎた正義」と感じるのではないかと思うわけです。


それともう一つ感じるのは、多様な価値観を許容できる人ほど正義感を振りかざさないように思います。

なぜならば、「正義」というものは立場や環境によって形を変えるということがよくわかっているからです。

逆に言えば、そのような多様性に対する容認が少ない価値観の人が「正義」を振りかざしているようにも思えるわけです。

哲学カフェ自体、多様性を許容する場であるわけですが、ここで特定の結論を導こうとしないことがまさにこの話に通じると思います。

正義を振りかざす行為は特定の価値観を押しつける行為です。

正義とは秩序を保つために必要な概念ではあるけれど、これが相手の賛同や納得が得られない場合には相手に対して不自由さを感じさせる、すなわちそれはストレスであり「行きすぎた正義」だとも表現される感覚をもたらします。

人間社会は多様な価値観の集合体ではあるけれど、その中で最大多数の了解が得られるルールや価値観に基づいて振りかざされることが、「正義」が秩序を保つという本懐を成し遂げるために必要なことなのではないかと私は考える次第です。

しかし考えてみれば最大多数というか、集団のほぼ全員が納得するようなルールや価値観はごく限られているようにも思います。

「人を殺してはいけない」が最もそれに近いようにも思えますが、それさえ自分が反抗しない限り殺されてしまいそうな場面においては崩れてしまいそうなルールにさえ思えます。

ならばそもそも絶対的な正義というものは存在しないことになるのではないでしょうか。

「正義」という概念にゆとりを持たせて、ふんわりと理解しておく、

そして基本的には「絶対こうでなければならない」という概念を持たずに多様性を受容するように努めれば、

正義によって苦しんだり、誰かを苦しめたりすることはなくなるのではないかとも思います。

それが正義を行きすぎさせないための秘訣なのかもしれません。



たがしゅう

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