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自分のできることを精一杯やって後は万物に身を委ねる境地

category - 主体的医療
2020/ 04/ 05
                 
先日紹介した末期がんサバイバーの刀根健さんの本の中で、

もう一つ私が大変参考になったことがありました。何を隠そう私の提唱する主体的医療の根幹に関わる内容です。

刀根さんは末期がんを克服するに至ったサレンダー(降伏、明け渡し)の境地に至る前に、様々ながん代替療法について徹底的に調べて徹底的に取り組んでおられています。

「がんを自力で治す」という強い意志の下、自分の力で調べたことにまさに「主体的に」取り組んでこられたのではないかと思います。

しかしそのように主体的に動いたにも関わらず、実際にはがんが日ごとに進行し、状態が悪化していくという経過をたどってしまいました。
            

この事実は、「自分で決めて自分で動くという主体的な行動が必ずしもよい結果をもたらすとは限らない」という主体的医療の根幹を揺るがす問題提起になっていると思います。

ただ、一方で刀根さんにもたらされた末期がんからの劇的な回復をもたらしたサレンダーという気付きも、主体的な行動からしかなしえなかったということもまた事実です。

考えてみれば「自分で決めた行動が必ずしもよい結果をもたらすとは限らない」というのは当たり前のことですね。そんなことが成り立つようならば人生ほど簡単なものはありませんので、そんなはずはありません。

それでも主体的な行動がなぜ重要なのか、そこに主体的医療を考える上での重要なエッセンスが含まれていると思うのです。

私が刀根さんの主体的と思える行動をみて気付いたことは大きく2つありました。

1つは主体的な行動においては体調のバロメータが必要不可欠であるということ

もう1つは主体的行動をとることの究極的な目的は、コントロールしたりされたりする世界から解放することだということです。

まず前者についてですが、刀根さんがいかに「がんを治す!」という目的の元に主体的な行動を繰り返していたと言っても、

そこに体調をバロメータにおくという観点がなかったことは問題であったように思います。あくまで「がんを治す」という目的の下に全ての主体的な行動は選択されていたという印象です。

勿論、どの方法を選んでも体調が悪くなっていっていたので、体調をバロメータにはしていたけれど打つ手が全て裏目に出ていたんだという反論がある可能性もあると思います。

それでも改善策を外部の方法に求めて、どの方法ならば自分の体調をよく「してくれる」のかという風に、不調の原因を自分の中に求めない思考となってしまっていた所に問題の根源があるように私は思います。

つまり体調をバロメータにするということの最重要点は、体調がよくなるかどうかは自分の中の要因に起因しているというスタンスを持つという所にあるのではないかと思います。

だからあらゆるがん代替療法にチャレンジしている際に体調がどんどん悪化していくという経過があった時に、

真の意味で体調をバロメータにしていたのであれば、そこに方法論はともかく、何か体調を悪化させる自分の中の要因があるのではないか、という風に考えを及ばせていく必要があったということです。

なぜなら体調が悪化するということは、自分の中の内因が乱れているということに他ならないからです。乱れた内因を外因によって整えることはできません。整えたとしてもそれは見かけ上の整いであって根本治療には原理的になりえません。

もう一つの「主体的行動がどこに向かって行われていくべきなのか」という点についてですが、

それを考える上で、刀根さんの本を読んでいて、もう一つ興味深い一節が合ったので紹介します。

(p334-335より引用)

「サレンダーって降伏するってことですよね。いまいちわからないのですが、サレンダーと諦めってどう違うんですか?」と聞かれることがある。

僕が思うに、一番大きな違いは心の在り方じゃないだろうか。

明け渡し(サレンダー)は自分を超えた存在に対する信頼がベースにあるので、基本的に気楽で安心している。

自分よりもっと大きなものに身を任せている感覚が、安心感とリラックスと、自己肯定感を生み出している。

いわゆる「大船に乗ったつもり」という気持ちに近いかもしれない。乗っている大船が”大いなる存在”なら、沈没する可能性はゼロだから、安心して乗っていられる。

一方、諦めは「自分の力では太刀打ちできない」という自己否定感や、「こんなことになったのは他人のせいだ、社会のせいだ」という他者否定だったりして、大いなる生の流れを否定してしまう。

自我(エゴ)の特徴である抵抗、執着、判断をしてしまう。

いろいろなところに引っかかって、生という川と一緒に流れていかない。ここが一番の違いだと思う。

また、諦めはその反対側に希望があるけれど、諦めと希望は同じステージの両端。ステージの両端を行ったり来たりする状態は、ポジティブとネガティブの振り子と同じ状態。

何かを一生懸命『信じて』いる段階がポジティブ・シンキングで、『信頼』している状態が明け渡し、サレンダーの状態だと思う。

希望も持たず、諦めもしない。希望も諦めも自我(エゴ)の創造物。ただただ生の流れを信頼し、身をゆだねる、それが明け渡し、サレンダーの領域だと思う。

(引用、ここまで)



大いなる生の流れをただ信頼し、ただその流れに身をゆだねるというサレンダー状態…。

同じ信頼をするのでも、医者の治療を信頼するというのとでは次元の違う話です。

なぜならば医者の治療を信頼するのは自分ではない誰かへの信頼、大いなる生の流れを信頼するのはまさに自分自身への信頼、もっと言えば自分を含む万物の法則的なものへの信頼、偉大なる何か(something great)への信頼とでは、信頼するものの対象が全く違うからです。

そこから目線が常に自分自身にあることの重要性、それが主体的医療の本質だと私は感じさせられます。

だからこそ自分自身の体調をベースに考えることが重要となるわけですし、

自分自身がどうなるのも自分の中にも流れる大きな流れに沿ってさえいれば、あるがままの状態を受け入れられる境地に達するという心を持つことができ、

その結果、良いとか悪いとか判断する世界を超越して、自分の全てをありのまま感じ受ける世界へと進むことができ、

結果的に自分の生きたいように生きられる人生へと導かれていくことになるのだろうと思います。

ここで偉大なる何かというのを「他者」のくくりで捉えていると、単に医者を信用するのと同じことだと個人的には思います。

偉大なる何かというのは「自分」であり、「万物」だと思います。その大きな流れに従うようにするのです。

私はもしかしたら、そうした感覚に従って、症状・病気は身体からのメッセージだと捉える視点を推奨してきたのかもしれません。

あるいは「がん」や「ウイルス」を味方だと捉える発想も、ここに通じるものです。全ては「自分」であり、「万物」なのです。


怪しい話だと思われてしまうでしょうか…。


いや、そうだとしても、それも必然の流れだと思いますし、全て成り行きに従って起こっていることだと思います。

ひるがえって、今の新型コロナウイルスを取り巻く現代の環境はと言えばどうでしょうか。

完全に「ウイルス」を敵視し、「ウイルス」に感染した人を知らず知らずのうちに差別し、場合によって「ウイルス」を発生させた国を恨んでいる状況です。

ウイルスから逃れ、ウイルスを制御しようとする動きがもはや止められないほど大きな流れとなって私達の身に現実に降りかかってきている状況です。

言い換えれば世界中で「自我(エゴ)」が巨大化してしまっている状況です。

この状況から世界を救う方法があるのだとしたら、一つしかないように私には思えます。

それはロックダウンすることでも、抗ウイルス薬を開発することでもありません。

「ウイルスのせい」だとか「手洗い、うがい、マスクで身を守る」などと他人事のように捉えてしまっている問題を、自分事として捉え直すということです。

「他人に感染させられる」のではなく、「自分の身体のシステムがオーバーヒートしてしまっている」と捉え直すことです。

「ウイルスから大切な人を守る」のではなく、「ウイルスがいても共存できるように自分自身を整えて生きていく」と捉え直すことです。

そしてその捉え直しの中で、自分ができることを自分(万物)にとってよい形で実行し続けるということです。

自分だけが助かりたいという一切の自我(エゴ)を捨てられた時に、そして全てを受け入れられた時に、身体はどんな形であれ結果的に最高のパフォーマンスを発揮して最高のストーリーを展開してくれるはず、と思います。

そのように思える人が一人でも多く増えて行けば、

新しく構築されたその世界はきっと誰も恨み合うことのない幸せなものへと近づいていけるはずです。

その思考の転換を行うことができるのは、何を隠そう本人の主体的な行動以外にはありません

主体的医療はそこに向かって進んでいくべきだと私は思います。


たがしゅう
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コメント

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大いなるものとの合一
薬局勤務薬剤師の池上と申します。
ブログを拝見し気づきとさせていただております。今回の件について非常に考えさせられる内容かつ良著をご紹介いただき感謝を申し上げます。

働きながらヨガインストラクターもさせてもらっているのですが、今回の『サレンダー状態』、ヨガ哲学(?)にとても類似しているような印象がありメールさせていただきました。 
(ハタ)ヨガ(ポーズ・アーサナを取るヨガ)は『心の作用を止滅させる』を目的に日々実践・取り組むことを推奨しており、今は様々なヨガ流派があります。
とはいえ、体を鍛え(ポーズを取る)、呼吸を安定させ、瞑想を行う事はどの流派にもあると考えております。
大いなるものと一体になること、一体となれた事で解脱したといった状態(安心感にも似た状態でしょうか)ともまた、少しニュアンスが異なるのかもしれないですが、大きな流れのようなものに身をゆだねて(美空ひばりさんの「川の流れのように」が浮かんでしまいましたが)いる状態は、不安感がないような気がして、今のこの時期には必要な状態な気がしました。 とりとめのない長文で失礼いたしました。 お読みいただければ幸いです。 池上宜芳
Re: 大いなるものとの合一
池上宜芳 さん

 コメント頂き有難うございます。
 ヨガにも同様の思想があるのですね。

 姿勢を整える、呼吸を整える、瞑想をするといったアプローチは私の中では対症療法だと考えております。
 根本治療はサレンダーのように大いなるものの流れに沿う選択を主体的にできるかどうかという所にかかっていると私は考える次第です。