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「恐怖/勇気」:福岡哲学カフェ参加の御報告〜後編〜

category - イベント参加
2019/ 11/ 23
                 
引き続き、先日参加した福岡哲学カフェの感想を書きたいと思います。

会のはじめにテーマについての自分の考えを紙に書いて表明するのがルールである本カフェにおいて、

今回のテーマの「恐怖/勇気」に対して私は次のような考えを提示しました。

恐怖とは生命を維持するための危機回避システム、勇気とは自己成長のための手がかり

このテーマに対して10数名の参加者で対話を深めて参りました。
            

まず私は、もしもそれがなかった場合に人間はどうなるかということを考えて見えてくる恐怖の意義を考えてみました。

恐怖がなければ人は危険を顧みずに危ない領域へと突き進んでしまうでしょう。

そう思えば、とかく悪い感情だと捉えられがちな恐怖のポジティブな側面が見えてくるように思います。

他の参加者の皆さんからも様々な恐怖に関する意見が寄せられましたが、

とりわけ私の印象に残ったのは、「スカイダイビングの時に感じる恐怖と、天安門事件の時に戦車の前に立ちはだかった青年の恐怖は同じものであるのか」という問いかけでした。

いや、そもそもその青年が感じていたものは本当に恐怖だったのか、あるいは勇気だったのではないか、という疑問にもつながります。

この問いをきっかけに私は恐怖と勇気の表裏一体性に気がつきます。

恐怖ばかりを感じている人は自分を危機から守りたいが故に勇気のある行動はなかなかとれない、

逆に勇気あふれる行動をとる時にそこには恐怖はないか、あったとしても少ないのではないかという表裏一体性です。

またスカイダイビングのチャレンジャーも天安門事件の青年も、はたから見ると勇気ある行動であるように見えますが、そこに至る動機は全く異なっているように思えます。

少なくともスカイダイビングの方は極めて個人的な勇気で、天安門事件の方は集団に影響をもたらしうる勇気という違いはありそうです。

一方で彼らに恐怖が全くなかったかといえば、本人に聞かない限りは想像するしかありませんが、同じ状況が恐怖と感じられる場合も十分ありえるように思えます。

だとすれば恐怖と勇気を分けているものは一体何なのでしょうか。


考えに行き詰まった時には私はよく「それは動物にも存在するものなのか」という視点で考えるようにしています。

人間も動物の一種であることは疑いようのない事実であり、動物のふるまいの中に言葉によって修飾された人間の行動の原点というものがあるように思えるからです。

今回の場合、恐怖はおそらく動物にもあるだろうと思います。それがあるからこそ動物は危機的な状況を回避しようとしているのでしょうから。

しかし勇気の方はどうでしょうか。カフェ内では「動物には勇気はない」という意見が大勢を占めました。

例えばつばめの巣にいる雛鳥達を親鳥が大鷲から自分の身を呈してでも守ろうとする場面、それは勇気ではなく本能であろうという意見がありました。

その意見には一理あるのですが、親鳥のその行動に私達人間が「勇気」と名付ける現象の「種」のようなものはあるのではないかと私は思いました。

つまりその動物界に共通する「勇気の種」とでも言えるような性質に対して、私達人間は概念や価値観などで味付けをして、それを私達が「勇気」だと認識しているという考えです。

だとすれば「勇気」とは非常に人為的かつ後天的で、「勇気の種」は先天的なものだという考えに至ります。

では何が「勇気の種」を「勇気」たらしめているのでしょうか。

これを考えるためにもう一つ会場から出た意見にヒントがありました。

それは「恐怖を直視した状態での行動こそ勇気と呼べるのであって、恐怖を回避した上での行動ならそれは勇気とは呼べない」というものです。

また「勇者は人に勇気を与える側面があるが、一方で“勇者は懼れず(おそれず)”という言葉もある。はたして勇者は恐怖を直視しているのか」という意見もありました。

スカイダイビングのチャレンジャーと、天安門事件での青年。どちらが勇者に近いかと問われれば後者の方がそれに近いように思えます。

確かに勇気とは恐怖を直視した時にのみはじめて成立する現象に思えますが、勇者には恐怖を直視した上でそれを乗り越えさせる何かがあるようにも思えます。

それが何かを考えた時に、私は「信念」なのではないかと思いました。

ある人に何者によっても曲げられない信念がある時に、人は恐怖を乗り越えられる力が与えられるのではないかと思ったのです。

天安門事件の青年にはそれがあった、スカイダイビングの人にはそれがなかったと、

だから後者の勇気は個人的で、前者の勇気はその信念を通じてそれに共鳴する人達へ遠隔的に勇気を与えることができたと、

もっと言えば与えられたように見えて実はその人の中にもあった勇気の種が信念を通じて育てられたと、即ち自分で「勇気」を育てたのではないかと私は思いました。

ここで話は綺麗にまとまりそうでしたが、終盤はっとさせられる意見も飛び出しました。

それは「勇気ある行動は必ずしもよいことではないのではないか」という意見です。

確かに勇気と無謀を履き違えた行動というのも世の中では見聞きします。

だからそこ何が信念であるかということが重要であり、その信念は人類全体への社会貢献に根ざしている必要があるということ、

もっと言えば、信念は揺らぐべきではないけれど、絶対に自分が正しいとは思わないこと、

信念は各々の人達の中でそれぞれ育っていく樹なのだと、別々に育ちそれぞれが尊重され、

さらに別々のようでいて、ま実はそれらが全て根源でつながり人類愛につながっていくのが理想型であって、

「勇気」とはその理想へ近づけるものであってほしいと感じた次第です。

というわけで、対話を通じて変化した「恐怖/勇気」に対する私の考えは次の通りです。


恐怖と勇気は表裏一体。
恐怖が全動物にあるのと同様に、勇気の種のようなものも全動物に存在する。
しかし我々が勇気と呼ぶそれはとても人為的なもの。
勇気を周りに気づかせる存在が「勇者」。
「勇者」であるためには自分の「信念」が必要。「信念」とは絶対的正義ではなく、揺らぐことなく自分の中に立ち続ける思考の樹である。


実に興味深い哲学対話の場でした。是非また参加させて頂きたいと思います。


たがしゅう

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コメント

非公開コメント
        

パニックになる人、ならない人
例えば操縦している飛行機が故障などで墜落している時に冷静に対処できる能力は勇気とも違うように感じます。このパイロットは墜落している時に恐怖を感じていないのではないかと思われます。
生命の危機が迫った時、サバイバル状態になり、その状態は、その危機から脱するまで続きます。このサバイバル状態においては、その瞬間に恐怖を極限まで感じて体が硬直し、何もできなくなる人(いわゆるパニック)と、ほとんど恐怖を感じず冷静に対処できる人がいます。理由は分かりませんが、阪神淡路大震災を経験したものとしてそう思いますし、パニックを起こす人は航空機のパイロットになれないと言うのも聞いたことがあります。そう考えると不足の事態に冷静に対処する能力は勇気とは違うように思います。
Re: パニックになる人、ならない人
西村 典彦 さん

 コメント頂き有難うございます。

 確かにパイロットの例は勇気とは少し違うような印象を受けます。
 「恐怖⇔勇気」軸というものがあるのだとすれば、その冷静行動はその軸の外にいるような感じです。

 言い方を変えれば恐怖を恐怖と感じるレンジが一般の人より狭いということで、
 恐怖を感じるレンジを狭くするためには未知の現象の数を可能な限り減らすことが必要という構図も見えてきます。

 パイロットの方が恐怖を感じにくいのはあらゆる不測事態に対するシミュレーションができているということの裏返しなのかもしれません。