小ささとさりげなさ

2019/11/04 15:40:00 | 主体的医療 | コメント:0件

何かしらの講演会や研修会などに参加した際に、多かれ少なかれ学びというものがあると思います。

提供された情報そのものが有用でなかったとしても、演者のしゃべり方であったりスライドの使い方が参考になったり、

あるいはあまりよくない話し方であったとしても、それが反面教師となったり、そのことがきっかけとなって別の思考が深まったり、

必ずや何かしらの気づきというものがあるのではないかと思います。

しかしながらその気づきはそのまま放置していると、残念ながら記憶の彼方へと消えてしまうものです。 だから記憶から消えてしまう前にアウトプットした方がよい、というのがよくビジネス書で語られる黄金パターンですし、

「教えることが教わること」だとか、「See one, do one, teach one.」などの格言にも通ずる成長のための基本であるように思います。

今から思えば学校のテストなどは、半ば強制的にそのアウトプットを求められる機会だったようにも思いますが、

社会人になってからの勉強では、そのアウトプットを強制される場がなかなかないので、

自らがアウトプット行動を起こさない限り、記憶の定着が起こりにくいということになるのではないかと思います。

しかも終了直後になんとなくわかった感じ、ためになった感じがして満たされた感覚になるため、

そこから自分にさらに負荷をかけてアウトプットを捻出するという作業へと持っていきにくいという落とし穴もあるわけです。

また学校のテストでアウトプットが強制されるのは、自分で考えて手に入れた知識ではなく、誰かによって手に入れられた知識なので、

この作業は自分が内容に興味を惹かれない限りは、ある種修行のような行いになる側面があるようにも思えます。

その修行を、強制力が働く学校だから敢行できるのであって、そこでアウトプット力の基礎が作られるところもあるのですが、

基本的には本人の意図に関わらず強引に叩きこまれているような状況であり、あまり主体的ではありません。


自分で主体的にアウトプットするという修行をスムーズに行えるようにするためにはどのような工夫が必要でしょうか。

ひとつは誰かに教えるための「場作り」が大切だと私は思います。

例えば家に帰って勉強したことを家族に伝えるのも一つの「場」ではありますが、

そこでは何をどうしゃべったとしても何らデメリットを生じるリスクがないという意味で、かなりハードルの低い「場」ではないかと思います。

一方で、私のようなブログにアウトプットする場合は、少し考えをまとめて文章化する必要がある分、

家族へ感想を語る場合に比べてハードルは上がる「場」であり、批判的なコメントを受けてしまうリスクがあるという意味でデメリットもあります。

さらには有志の勉強会を立ち上げて、そこで学んだことを発表するという「場」があれば、これはやたらめったらな事は伝えられませんのでしっかりとした準備が必要ですし、

自分の頭の中をかなり整理する必要もありますし、うまく出来なければ恥をかくなどといったリスクも家族団欒やブログの「場」と比べるとさらにハードルは高まります。

ハードルが高いアウトプットの「場」はリスクが上がる分、それだけ自分に対しての記憶の定着率も上がります。


さて、こうしたアウトプットのための様々な「場」があることがわかった上で、

自分がどのアウトプット法を選んで、どれだけ成長するかというのは自分次第となる、というところはすんなり理解できるのではないかと思います。

その次はあまり主体的でない人達へこのアウトプットから始まる自己成長の黄金パターンを経験してもらうために、

何か援助者ができることはないでしょうか。

これを無理矢理「ブログを書きなさい」だとか、「勉強会で発表しなさい」などと言ってしまうのは、

基礎学力をつけさせるために半ば強引にテストを受けさせる学校での戦略と同じになってしまいます。

しかし「家族と団欒しなさい」くらいであれば、言ってみて相手の意図に沿わなかったとしても、

それほど本人への心の負担とはなりにくいのではないかと思います。

従って主体的でない人を主体的なアウトプットへとつなげるための一つ目のポイントは「スモールステップ」です。

本人にとってさほど負担には感じられないであろうアウトプットのための「場」を準備するのが、ひとつ良いことなのではないかと私は思います。

もう一つの私なりのポイントは「さりげなさ」です。

その「場」の提供をいかにさりげなく行えるかどうかは非常に重要なポイントだと思います。

なぜならば、「何か強制させられている」とか「どこかへと誘導されている」ということを意識した時点で、

人は自分が進みたい方向とは違う場所にいることを感じ、無意識にストレスを受けて、そこを我慢するか回避するか、

いずれにしても主体的でない行動への引き金となってしまうからです。

ところがこの「場」の提供をさりげなく行うことができれば、

本人はいつのまにか自己成長のレールの上に乗り、しかもそれを自らつかみとったかのように感じ(実際、自らつかみとった形にはなるわけですが)、

あとは自らが望んで自己成長のための行動を繰り返す黄金パターンに入ることになるのではないでしょうか。

私は自らの自己成長に対してもこのことを意識していきたいですし、

勿論、本職の医師として患者さんの主体性を育む際にも、この「小ささとさりげなさ」を意識していきたいと思います。


たがしゅう
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