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バイオマーカーによるミスリーディング

category - 素朴な疑問
2019/ 10/ 29
                 
先日「せん妄」の記事を書く時に参考にした文献をさらに読み込んでみると、

次のような内容が書かれていました。

日本老年医学会雑誌 第51巻(2014年)
≪5号≫高齢者のせん妄 企画:服部 英幸
高齢者のせん妄の機序
藤澤 大介 他
            

(以下、引用)

低酸素や低血糖などの代謝異常や虚血性病変は直接ニューロンの傷害を生じ、

神経伝達物質の産生やバランス異常をきたして、せん妄を惹起すると推測されている。

S100βは、グリア細胞の一つであるアストロサイトに発現する蛋白であり、神経傷害を反映し、脳損傷や各神経疾患において末梢血中で高値となることが報告されている。

せん妄との関連も報告されており、せん妄のバイオマーカーとして最も確立しやすいもののひとつではないかと予測されている。

(引用、ここまで)



ここでひとつわかることはせん妄は脳組織を破壊する現象が起こりうるということ、

ひいてはストレスがそういう影響をもたらしうるということです。

以前ストレスは炎症を起こしうるということを学びました。というよりも抗ストレスシステムが疲弊・破綻すると炎症を抑えきれなくなると言った方がより正確かもしれません。

そこで脳組織の損傷を反映するs100βというタンパク質がせん妄のバイオマーカーになるのではないかという指摘が書かれています。

バイオマーカーというのは糖尿病であればHb1Ac、前立腺がんであればPSA、というよう病気の状態を客観的に測定し評価するための血液検査上の項目のことを意味します。

広くは画像検査や体温、血圧などのバイタルサインもバイオマーカーと表現する場合もありますが、一般的には血液検査での病気を判定できる項目を意味することの方が多いです。

さてもしもs100βというタンパク質が上がればすなわちせん妄であるという関係が立証されれば、患者にせん妄を疑う状態が出現した際に血液検査を行い、それが本当にせん妄であるかどうかが確認できるようになる、ということが期待できるわけですが、

せん妄に限らず、様々な病気について研究が進められているバイオマーカーの確立という試み、実は大きな懸念が私にはあります。

それは、もしs100βが上昇していなければせん妄ではないという思い込みが起こりやすくなるということ、

ひいてはs100βが上昇していないせん妄様の症状は、ともすれば患者の精神的な問題によって引き起こされた偽のせん妄だと扱われてしまうことです。

s100βの上昇はあくまでも脳組織損傷の部分的な反映です。せん妄を起こす機序には必ずしも組織破壊が起こっているわけではありません。

組織破壊が起こる前であったり、あるいは組織破壊が起こらなくても、せん妄症状が出ていればそれは真のせん妄という可能性は十分にあるわけです。

医学には特定の症状を起こす病態の原因が複数存在するとき、その複数の原因をすべてひっくるめて「症候群」という概念でまとめるやり方があります。

s100βが上昇するせん妄もあれば、s100βが上昇しないせん妄もある、それらもひっくるめて「せん妄症候群」と捉えるべきだと、

というよりも、現実に起こっている「せん妄様症状」という事実に対処できずして、あれはせん妄だ、これはせん妄じゃないなどと言っていても始まらないですし、

もっと言えば、現実を狭い視野で捉えてしまうことへとつながってしまうリスクがあるような気がするのです。

これは西洋医学の病名(診断名)中心主義にも通じる問題点だと思います。病名(バイオマーカー)がつかないと世界が見えないし、病名(バイオマーカー)がない世界を認識できないという落とし穴です。

病名があろうとなかろうと全体をみる視点を忘れずに、バイオマーカーがあろうとなかろうと目の前の事実から目を背けない視点を持っていたいと私は考える次第です。


たがしゅう
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コメント

非公開コメント
        

「名前」の功罪
人間は万物に名前を付けて情報交換する事を常としています。
人名、地名、商品名、事象、病名然りです。

もし、名前と言う概念が存在せず、また万人の共通認識になっていなかったら、と考えると、1つの事を伝えるのに膨大な文字数の会話をする事になります。

ふと、わが子がやっと言葉を発するようになった頃の事を思い出しました。語彙が限られる子供に「なに?」と聞かれて理解できるように説明するのに苦労しました。
そして、その会話でいろいろと気づかされたことがあります。
理解できる少ない単語を組み合わせて1つのものを説明するのがこれほど骨の折れる事か、ものに名前を付ける事がなんと合理的な事かと気づいたのです。
それと同時に、子供に「名前」だけで伝えると、間違って伝わることもしばしば経験しました。

名前を万人の共通認識と(無意識に)思っていると思わぬ落とし穴にはまります。そして、名前をしらない未知のもの、またはよく似たもに対して多くの人は、既に共通認識である既知の名前をあてがってしまいます(通常、それ世紀の大発見と思う事は少ないし、名前を付けた方が情報伝達として楽だからでしょう)。
もし、それが病名であれば誤診につながります。
カルテに病名が記載されれば、よっぽどでなければ毎回、疑って見る事はないでしょう。しかし、症状だけが記載されていれば、見る医師によっていろいろと考えるのではないでしょうか。

「名前」と言うものの功罪を感じる次第です。
Re: 「名前」の功罪
西村 典彦 さん

 コメント頂き有難うございます。

> 名前を万人の共通認識と(無意識に)思っていると思わぬ落とし穴にはまります。そして、名前をしらない未知のもの、またはよく似たもに対して多くの人は、既に共通認識である既知の名前をあてがってしまいます
> 「名前」と言うものの功罪を感じる次第です。


 そうですね。そうやって名前によって世界が狭くなる事が問題です。
 しかもそれが当たり前になると自分が狭い世界しか見えていないということに対して自覚がなくなることも問題です。
 
 名前は確かに便利なツールですが、それによって本質を見失わないようにしたいものですね。