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「コミュニケーション」:たにやま哲学カフェの御報告

category - イベント参加
2019/ 06/ 25
                 
もう私のライフワークの一部となりつつある哲学カフェですが、

これまでに何度かお邪魔させて頂いているたにやま哲学カフェさんに今回も参加させて頂きました。

前回の予告通り、今回も私がファシリテーター(司会進行役)として、テーマ「コミュニケーション」について参加者の皆様と語って参りました。

医師という立場で患者さんとのコミュニケーションに悩む毎日、医療現場でのコミュニケーションが重要であることに異論をはさむ人はおそらくいないと思います。

そもそもコミュニケーションとは何なのか、はたして良いコミュニケーションを行うためにはどうすべきなのでしょうか。
            

話題はまず「会って話すコミュニケーションでは想いが伝わりやすいのに、LINEやTwitterなど文字ベースSNSによるコミュニケーションでは誤解が生まれやすい」という御意見から始まりました。

確かに文字だけの情報のやり取りでは、私も経験がありますが、相手に真意が正しく伝わらないという側面があるように思います。それが原因でケンカになることさえあります。

なぜそういうことが起こるのかを考えるのに一つ参考になる話として、コミュニケーションには言語的なものと非言語的なものがあり、様々な見解があるものの、コミュニケーション全体のうち言語的なものは約2割、非言語的なものは約8割くらいを占めている、という考え方があります。

従って文字だけのコミュニケーションであるSNSはそれだけで8割真意が伝わらない可能性があるという考えへとつながります。

またもう一つの意見として、SNSの場合はその手軽さも手伝って誤解が生まれやすいのではないかということも言われました。

というのもコミュニケーションが正しく成立するためには相手の理解度と合っているかどうかが大前提だけれど、

SNSのように手軽だと相手の理解度と合っているかどうか確認されないままにひたすらコミュニケーションが繰り返され、それが誤解の温床になっているのではないかというわけです。なるほど、確かにそうかもしれません。

一方で相手の理解度と究極的に合わせていくと、もはや条約とか非常に堅苦しい約束レベルにまで発展しうるため、そこまでいくと逆に相手が引いてしまう可能性もあるので、相手との理解度が高ければ高いほどよいコミュニケーションになるとは限らないというのは深くて難しい部分だと思います。

だけれど、同じ文字によるコミュニケーションでも手紙は時として人の心を打つではないかという意見も続いて出されました。

確かに手紙もSNSも、文字によるコミュニケーションという点では共通しています。両者の違いは一体どこにあるのでしょうか。

一つの違いは書いた字には個性が出るから、手紙は文字によるコミュニケーションだけではなく、非言語的な部分もあるのではないかという意見がありました。

確かに文字は筆圧だとか、にじみだとか、筆跡という言葉もあるようにその人の人がらが出ると言われますし、

ゆっくり書くか、いいかげんに書くかでも、同じ人の字には違いが現れます。そういう意味に手紙は言語的な部分だけでない非言語的な部分もありそうです。

もう一つはそれを作成するのにかける時間がSNSと手紙とでは、圧倒的に後者の方が時間がかかるということです。

時間をかけるということは、大げさに言えば命を削るということです。命を削るほどその人に価値を感じているということの裏返しです。

だから同じ文字情報であっても、わざわざそこまでしてくれたという共感が、文字情報を言外の非言語情報とともに伝えてくれるのではないかという御意見もありました。

このことはSNSという便利なツールが普及した現代になってからこそ、その価値が映えてきた側面もあるかもしれません。


非言語的なコミュニケーションに価値があることがわかってきた所で、話題はコミュニケーションをとることの目的に移って参りました。

前半の話題は人間どうしのコミュニケーションに注目してきましたが、考えてみればコミュニケーションは人間だけの話ではありません。

人間以外の動物ともコミュニケーションもあるし、動物どうしのコミュニケーションもあります。そして動物だけではなく植物とのコミュニケーションもあるように思います。

いい音楽を聞かせると植物がよく育つとか、そういう話も含めるとコミュニケーションの幅はかなり広いように思えます。しかもそうしたコミュニケーションのほとんどは非言語的なものです。

一方でAI(人工知能)とコミュニケーションはとれるかという命題も出ました。これに関しては会場の意見はAIとはコミュニケーションは取れないのではないかというものが上がりました。

今、賢いロボットのようなものを想像するとして、それと交わすコミュニケーションはコミュニケーションのようでいて、コミュニケーションではないのかもしれないという感覚があったように思います。

そこに関してはもしかしたら議論の余地はあるかもしれませんが、もし今それが正しいとした場合、コミュニケーションの目的ははたしてどこにあるのでしょうか。

コミュニケーションという言葉を英語で表記した時のcommunicationの接頭辞、「com-」には「共に」を意味します。「common(ありふれた)」や「community(地域共同体)」にも通じる言葉です。

一言で言えば、「共感(感情の共有)」というのが会場の中でまとめられた意見でした。

SNSであろうと手紙であろうと、会って話そうと、どんな手段でコミュニケーションをとろうにも、突き詰めれば「共感」したい、「共感」してもらいたいという所にコミュニケ―ションの目的はあるのかもしれません。

ただおそらくコミュニケーションには原始時代から受け継がれてきた最もスムーズに目的が果たされる順序のようなものがあるのではないかという意見もありました。

その基本は会って少しずつ距離を詰めていくことにあり、現代のSNSなどの人為が生み出したツールはその順序を一足飛びで超えてしまい、その不自然さがコミュニケーションの不具合に通じているのではないかという意見も出されました。それは確かに私にも思い当たる節がある話でした。

SNSでのグループは「時間的にも空間的にも見えない(見えにくい)共同体」だという御意見もありました。見える共同体であれば絶対に食い違わないはずのことでも、見えない共同体だと意図せず食い違ってしまうことがありうるということです。これはSNSを使って生きる人達は肝に銘じておくべきことであるように感じました。


さて後半はそのコミュニケーションの不具合について焦点を当てることで、その逆を考えることで良いコミュニケーションとは何かを見つめ直そうと目論んで話を進めて参りました。

まず、コミュニケーションの不具合の具体例として会場から挙がったのは、子育て世代のお父さんが、お母さんとお子さんとの間のコミュニケーションが密になり過ぎていて、お父さんがお子さんとコミュニケーションをとろうとする際にのけ者になりがちだというものがありました。

これはお父さんからすれば仕事でお子さんと会いたくても会えない時間が長く、共働きのケースではないとした場合には圧倒的にお母さんとお子さんの交流時間が量的にどうしても長いため、お父さんとしてはなかなか切実な悩みです。

ここにおいてはお母さんがお父さんを立てるように普段からお父さんのことをお子さんに伝える努力をしてみてはどうかという意見がありました。

またそうしてもらうためには、お父さんがお母さんに普段から歩み寄って優しくあるべきだという意見が女性陣から出ました。

お父さんにはお子さんと仲良くなりたいという想いが絶対にあるはずなので、「共感」という目的に向けてのモチベーションは誰よりも大きいはずです。

こう考えるとコミュニケーションというのは自分の想いが大きいだけでは不十分なのだという側面が見えてきます。

また別の例として、ある方は職場でどうしても気の合わない方がいて、自分が何をしゃべっていても相手が嫌な顔をしているように思えてなかなかよいコミュニケーションが取れず悩んでいたそうです。

ところがあるYouTubeでの情報をみて、「相手は自分の写し鏡。相手が嫌に思っているということは、自分が嫌に思っているということと同じ。ということは自分が楽しくやれば、相手も楽しくなるはず」ということを知ったそうです。

それを知ってからその方は努めて笑顔を見せたり、自分が楽しそうにふるまうことを意識したところ、身近な人達とのコミュニケーションがうまくいくようになったという経験を紹介されました。なかなか参考になる御意見だと思います。

笑顔は認知症の患者さんに接するときにも実は非常に重要な要素で、とあるドクターは自分の笑顔を患者さんにそのまま伝わるように接することを心がけ実際に良好なコミュニケーションへとつながっているということをおっしゃいました。

認知症という病気では様々な脳機能が失われていく中で、笑顔という情動をつかさどる脳の深い領域は最後の最後までやられない重要な部位であるとともに、笑顔がコミュニケーションの根幹を担っているということも知れたように思います。


これまで自分がどうしゃべりかけるかというコミュニケーションにおける「話す」という側面にだけ焦点が偏っていましたが、「聞く」というのも立派なコミュニケーションの要素だという意見もありました。

また「聞き上手」とは単にうんうんとうなずくだけのことではなく、相手の話をよく聞いていないとできないことだという話もありました。

一方で「話す」のは難しいという感想をおっしゃる方もおられました。なぜかと尋ねたら、「聞く」のは相手の反応をじっくり観察できるけれど、「話す」というのはまだどう反応されるかわからない相手の反応をリアルタイムに観察しながらフィードバックを得つつ話し方に反映させていかないと適切なコミュニケーションにつながらないからという御意見でした。

私は「話す」のが比較的好きな方でしたので、「話す」のは難しいと言われた意見に一瞬違和感を感じたのですが、その理由を聞いてもしかしたら私が話す時は相手の反応を見過ごしてしまい、もしかしたら相手が嫌がっている空気も読めずに独りよがりのコミュニケーションになっているかもしれないと気を付ける必要があると感じました。

そう考えると、人間が言語やSNSなどの発明品を生み出すことによって可能となった高度なコミュニケーションは、話すことも聞くことも高度な技術が要求されうる実は大変奥深い行為だという側面も見えてきました。

ということはある程度心に余裕がないと良いコミュニケーションもできないということです。良いコミュニケーションを始めるにはまず自分が変わることが重要だと思うからです。

夫婦の例で言えば、夫婦仲良くならなければこどもとも良いコミュニケーションが取れない。良いコミュニケーションをとるためにはよく話し合うこと。その話し合いもお互いの心が通じ合うようにすること。

お互いの心を通じ合わせるためにはまず自分から。なぜならば他人は変えられないけれど、自分は変えられるからです。自分が変えられるということは写し鏡として相手も変えられるかもしれないからです。

勿論、世の中にはどうしても良いコミュニケーションをとれないという相手も存在すると思います。コミュニケーション技術を磨けばどんな人とも仲良くなれるという綺麗ごとを言うつもりは私にはありません。

でもそれはどうしてなのだろうかということに関してはもう少し思考を深める必要があるかもしれません。少なくともその場ではこれといった意見まで到達することはできませんでした。


最後に私の個人的な興味として「オンライン診療(テレビ電話)でも良いコミュニケーションは可能か?」という疑問を会場にぶつけてみました。

対面診療と比べて、どうしても情報の量も質も低下せざるを得ないオンライン診療、しかしコミュニケーションの本質を考えた場合に、オンライン診療という場でも質の高いコミュニケーションを維持することができるのではないかという希望的観測を私が持っているが故の質問です。

これに対して少なくとも離島や遠隔地などの人が、多少コミュニケーションの質が落ちるにしてもそこでもたらされる安心感には大きなものがあるだろうという意見がまずありました。

確かに対面診療の選択肢が少ない場合にオンライン診療のメリットは言うまでもなくあるであろうと思います。

一方でオンライン診療は対面診療によるコミュニケーションにどこまで肉薄できるのだろうかという疑問もあるわけです。

これについては一つ時間というものに注目すればそこに十分価値のあるコミュニケーションは行いうるのではないかという意見がありました。

つまり時間を使うということは命を削るということ、オンライン診療の場においても医師も患者もそれほどの時間を費やしたいと思える関係性ができていれば、そこは良いコミュニケーションのスタートラインにすでに立っているという考え方です。

良いコミュニケーションの全貌がおぼろげながら見えてきたように思います。

まとめてみますと、「良いコミュニケーションは何をおいてもまず自分に余裕がある時にはじめてできるもので、

非言語的な要素を大事にしつつ、もっともな順序があることもわきまえながら、何はなくともまず自分から楽しもうという気持ちからはじめること、

そして話す時にも相手をよく観察し、聞くときにも相手をよく観察すること、そうした対話を何度も繰り返していくこと、

そうして共感をベースにして信頼関係が構築されていくことで、様々な障壁があったとしても、乗り越えていけたときに達成できるもの」
だと言えるように思います。

この原則を守っていけば、オンライン診療でも十分にやっていけると勇気づけられたように思います。心に留めて頑張っていきたいと思います。

今回も大変有意義な哲学カフェとなりました。御参加の皆様方にはこの場を借りて心より感謝を申し上げます。


たがしゅう

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