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病気を回復へ導く主体性とは

category - ふと思った事
2019/ 05/ 18
                 
いわゆる難病とされる病気で多くの患者さんが今この瞬間も苦しんでいるのではないかと思います。

私は常日頃、難病の克服には主体性が不可欠だと考えておりますが、

そうした患者さん達は治ろうとする主体性を放棄しているのかと言われたら、決してそんなことはなくむしろ誰よりも強く治りたいと願っていることと思います。

でも現実には多くの場合、願いもむなしく病気は進行してしまい、希望が無残にも打ち砕かれてしまうのが現実ではないかと思います。

治ろうとする主体性は持っているのに治らない人達にとって欠けているものは何なのでしょうか。
            

それは「現実と希望のギャップが大きい」ことではないかと思います。

エンドオブライフケアの講演会の際に学びました。人は現実と希望のギャップが大きい時に苦しみを感じるのだと。

今難病の状態にある人は多くの場合、元気な頃の自分を強く思い浮かべています。

誰かに喜んでもらうことが嬉しくて様々な人達を気遣って今まで感謝されてきた自分が、

今や何もできずに逆に多くの人達に気遣われている状況におかれている、と。

そんな状態が悲しくて悔しくて苦しくて、身体はストレスを受け続けてしまうのです。

ストレスを受け続けている身体の中では糖代謝が激しく駆動され続けている状況で、しかも材料となる糖質が補充されていないのに過剰駆動され続けるので、次第に消耗していってしまいます。

この状態で仮に糖質制限を試みても、絶食状態においたとしても、代謝は糖代謝メインの状態なのでもう一つのエネルギーシステムである脂質代謝を利用することもできません。

がんにおけるカヘキシア(悪液質)や、食糧難で少量の糖質食しか与えられない地域で飢餓に瀕している人達とも共通構造がある話と思いますが、

ともかく苦しみ続ける難病患者の身体は皮肉なことにさらに苦しい状況に追い込まれるよう代謝が仕向けられてしまっているのです。

ではどうすればそうした難病患者さんの悪循環を断ち切ることができるのかといいますと、

この流れの逆を考えればいいのです。すなわち「現実と希望のギャップを小さくする」と。

現実は如何とも動かし難いので、自分で自由に設定することができるこの希望をなるべく現実に近づけるのです。

それは悪い意味で「諦める」というのとはまた違います。「ありのままを受け入れる」という方が適切だと思います。

難病という名前は人類が勝手に命名したものであり、本来はどんな状態であろうと私は私です。

今までの生きてきた人生の結果として今の私があります。そのまぎれもない事実をまずはありのまま受け止めるのです。

そして人は生きているだけで意味があり、生きているだけで誰かに貢献できます。その証拠にあなたのことを心配する家族がいます、友達がいます、医療職のスタッフがいます。

もしあなたに何の価値もなければ、誰があなたのことを気にかけようとするでしょうか。

そのことをしっかりと認識して、今この現実の状態からほんの少しだけ良いところに希望を見出すのです。

元気な頃の自分をいきなり目指そうとしてしまうと、思うようにならない現実にまたストレスを感じることになってしまいます。

だから今置かれた自分の状態を認め、その上で今置かれた状況で自分に何ができるかを考えるのです。過去の自分と比べずに今ここにいる自分ができることを考えるのです。

この思考の転換プロセスにおいて主体性が大きく発揮されるべきなのです。なぜならば誰もその人の代わりに思考を変えてあげることはできず、自分の思考を変えられるのは自分しかいないからです。

そしてありのままの状態を受け入れて、その上で自分にできることを前向きに探し始めた時、

身体の慢性持続性ストレスは解除され、糖代謝への偏りがなくなり、ケトン体も使えるようになって、本当に治るための自己治癒力が湧いてくるのです。

もちろんその変化が起こるまでの間に細胞の不可逆的変化が起こっていたら、いくらケトン体からのエネルギーが補充されても回復はしませんが、それでもどんどん悪化していくことに比べたらはるかにマシだと思います。

例えば病状によってはニコッと笑うこと自分のできる唯一の希望だということもあるかもしれませんが、

裏を返せばそれすらもできない状態は、主体性の喪失を意味し、それは即ち人生の終わりを意味するのではないかと思えます。


私は難病から解放される道はそこにしかないと考えています。

私達がもともと備える治る力には凄まじいものがありますが、

使い方を間違えれば、あらゆる外部治療を無効にする「凄まじく治さない力」へと変化する恐ろしさがあります。

今後私がどれだけ治療技術を上げたとしても、その思考の転換へ患者さんを導くことが出来なければ、

これからも病気を治せない事実と直面し続けることでしょう。

そこに貢献できないことは無念ではありますが、病気と向き合うのは常に患者自身の問題です。

同じ主体性でも自分を無意識に苦しめ続ける主体性ではなく、

自らを回復に導く主体性へと一人でも多くの患者さんを導いていきたいと考える次第です。


たがしゅう

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コメント

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身体の冷却について教えてください
記事とは関連性がない質問ですがご容赦ください。

スポーツ後の「ケア」で一般的なのが、「冷却=アイシング」があります。

野球中継で試合直後のピッチャーが肩に大きな氷嚢をあてがってる映像等を目にしますが、スポーツ界では「身体を酷使した直後はまず冷やせ」というのが定石です。しかも意外に「キンキンに神経がマヒするほど冷やす」のが一般的です。

冷却後はしっかり温め血流を回復させます。

ここで疑問が湧くのですが、身体にとって冷やす行為は「血流が鈍くなりむしろ悪影響となる」わけではないのでしょうか?

所々の説明では「熱を持った筋肉はまず冷やして炎症を抑える」とあります。

打撲や捻挫等の外傷も「即座にアイシング」が有効とされています。

しかし「炎症」は身体の防護機能であり意図的に炎症を抑え込むものではないとすると、アイシングは矛盾したものとなってしまうのです。

なぜ状況次第ならば、一時的な身体の冷却は有効なのでしょうか?

メカニズムを教えていただけたら幸いです。

またこの「冷却というケア」が筋肉において有効な治療であるならば、同じく筋肉でできている「臓器」のケアに応用はできないものでしょうか?

Re: 身体の冷却について教えてください
だいきち さん

御質問頂き有難うございます。

> スポーツ後の「ケア」で一般的なのが、「冷却=アイシング」があります。
> スポーツ界では「身体を酷使した直後はまず冷やせ」というのが定石です。
> 身体にとって冷やす行為は「血流が鈍くなりむしろ悪影響となる」わけではないのでしょうか?


スポーツにおけるアイシングは、一般的に捻挫や打撲など痛みの急性期に行うのが通例と思います。
外傷が発生すると、炎症反応よりも先に侵害受容器といって痛みを感じるセンターが刺激されて神経を通じて即座に脳へ痛み刺激が伝達するというメカニズムだとされています。その後外傷が発生した組織の損傷具合に応じて組織修復のための炎症反応が遅れて起こってくるという感じです。

従って外傷受傷直後のアイシングは炎症を抑えるためというよりも単純に痛みを抑えるためで、冷温環境下では神経の機能が低下するという特徴を人為的に応用していると思えばよいと思います。そして当座の痛みを抑えておきながら、数時間〜数日かけて次第に組織が修復されてきた段階となれば、今度は温めるようにすれば、血管が拡張して組織の修復が進みやすくなるのではないかと思われます。
一方でスポーツ全般の活動終了後に疲れた部位にアイシングを行うという行為は御指摘のようにあまり合理的ではないように私は思います。もしかしたら上記の外傷後のアイシングの話が拡大解釈されているのかもしれません。

なお痛みは「今組織が損傷したので修復するまでなるべく動くな」ということを教える身体からのメッセージなので、アイシングという人為で痛みを押さえるという行為はそのメッセージを忘れさせるような事となるので、いいような悪いような話です。