Post

        

任せれば希望の道へは進めない

category - 主体的医療
2019/ 05/ 04
                 
もしもあなたが友人や恋人から、今日の夜に何を食べたいかを尋ねられ、それに返事する場合のことを想像してみて下さい。

おそらくは「あなた(みんな)が好きなものでいい」とか、「自分は何であっても構わない」という返事が多いのではないかと想像されます。

こうした返事は一見相手を思いやっているようでもあります。「自分のことは気にしなくていいから、好きなものを自由に選んでほしい」と相手に選択する自由を提供している側面があるからです。

ただ、裏を返せば、食事を選択するにあたってかかる責任から自分は逃れようとしているという側面もあるように思います。

それが証拠にこうした返事をするのはかなり楽であるはずです。

本当は何でもいいと言いながら、自分の嫌いな料理が出て来たら嫌なはずです。

しかしそのリスク以上に自分が選択をしない事の楽さ加減に多くの人が惹かれてしまうということなのではないでしょうか。
            

実はこの話は医療に通じます。「誰かに任せるとか、自分が責任を取らないとかいう行動は、とにかく楽なのです。

私は現代医療において絶対的に不足しているものは患者の主体性であること、そして患者が主体性を失わざるを得なくなる環境が強固に構築され尽くしてしまったという問題についてしばしば語ってきました。

多くの患者が「素人だからわかりません」「先生にお任せします」という行動を取りがちであるのも、突き詰めれば責任が及ばないことに伴う楽さから来ているように私は思います。

一方で主体的医療は全ての治療のための行動を患者自身が責任やリスクを負いながら決断していくという構造です。

この責任やリスクを負うという行為は、一定の困難さをはらんでいます。

先ほどの食事の例で言えば、「自分は焼肉が食べたい」などと具体的に意志表示をする行動に通じます。

このように言うことで、「もしかしたら相手は肉が嫌いで嫌がられるかもしれない」というリスクや、自分がわがままを言うことでグループ内のいざこざや混乱を生み出すかもしれないリスクを生じることになります。

そうなるくらいなら自分の希望を言わずに相手に決断を委ねる方が圧倒的に楽なわけです。これをノン・アサーティブコミュニケーションといいます。

その代わりに責任やリスクを承知で勇気を出して自分の希望を言えば、本来自分が望む食事を食べる道へと進めるという大きなメリットを生じる可能性が出ることになります。

勿論、その自分の主張を無理矢理通せばいざこざも生じやすくなってしまいます。これをアグレッシブ・コミュニケーションといいます。

そうではなくて自分の責任を抱え、自分の主張を述べた上で、相手のリアクションも見ながらその場において最善の食事を模索していくという作業が、面倒でありながらも不和を最小にしつつ自分の望む道へ進める可能性が最も高くなる方法となると考えられます。これがアサーティブ・コミュニケーションと呼ばれるものです。


この構造をもう少しわかりやすく整理してみます。

・任せるは楽だが、自分の行きたい方向へ行けるかどうかは運任せ
・自分で決めるのは大変だが、自分の行きたい方向へ進みやすくなる
・しかし他者との折り合いをつけながら進まなければ、必ずしも行きたい方向へは進めない


いい人であろうとすればするほど、他人からよく思われようと思えば思うほど、

自分が望むところへ行きたい気持ちを抑え込み、誰かに任せるという楽への道へ突き進んでしまう側面もあると思います。

医療においては自分の頭で考えることの大変さから逃れたくて、また医療者から嫌われたり見捨てられたりされたくなくて、

「とにかく先生にお任せ」というノン・アサーティブコミュニケーションに終始してしまう人が多いのではないかと私は考える次第です。

自分の頭で考えて医療のことを決断していくことは確かに大変なことかもしれませんが、

今は自分の頑張り次第で情報や知識はいくらでも蓄えることができる時代へと突入しました。

せっかくこんな頑張れる時代になったにも関わらず、今までのように自分を楽な方向へと逃がし続けるのは大変もったいないことだと私は思います。

楽は魅力的ですが、その選択の連続では自分の行きたい方向へ進むことは十中八九できません。

しんどかろうとも、険しかろうとも、自己選択といういばらの道のその先にこそ自分の望んでいる場があるのではないかと私は思います。

それは食事においては自分の食べたいものかもしれませんが、医療においてはそれこそが健康であるということです。

自己選択をするために必要な事は最低限の知識とほんの少しばかりの勇気です。

時には失敗してしまうこともあるでしょう。しかし自己選択して起こった失敗は、どうすれば失敗しなくて済むかという次へのステップへとつながります。

他人に任せて失敗したとしても、任せた相手を選んだ運のなさを呪うしかなくなってしまいます。がん医療などはまさにそうした構造が如実に当てはまるのではないでしょうか。

自己選択を繰り返している限りは成長し続けることができます。そして失敗を糧にその作業を繰り返していけば着実に自分の行きたい場所へと近づいていけるはずです。

健康でありたいと心から願うのであれば、時に任せる楽の魅力に流されることがあったとしても、

基本的には医療における自己決断を行う主体性を持ち続けるべきだと私は思います。


たがしゅう

関連記事

            
                                  

コメント

非公開コメント
        

No title
たがしゅう先生

糖質制限をしていると、家族や知人との食事やお土産などで勧められたものを断るという事がかなり多くなりました。
苦手で食べられない物ならともかくとして、自分の食べられるものを断るというのは、それまでの生活で殆どした事がありませんでした。
今思えば、食事という自分の体にとって重要な選択なのに、周りから流されるままだったなあと感じます。(給食をどんどん食べた方が偉いのだと考える心理に近いかもしれません)

勧められた物や貰った物を食べずに断るのは自分でも失礼だと思いますし、今でも多少の勇気が要ります。
しかし、「本当は食べたくなかった」等と複雑な心境を抱えながら食べるくらいなら、むしろ他の人に譲って美味しく食べてもらった方がずっと良いと考えるようにしたら、随分楽になりました。

食べようと思わない物を断る、という小さな自己選択ですが、その選択をした時には清々しささえ覚えます。きっと、自分で選択したという事自体が影響しているのだと思います。
Re: No title
mina さん

 コメント頂き有難うございます。

> 「本当は食べたくなかった」等と複雑な心境を抱えながら食べるくらいなら、むしろ他の人に譲って美味しく食べてもらった方がずっと良いと考えるようにしたら、随分楽になりました。

 そうですね。御指摘のように、最終的な行動はどうあれ「自分でそうしようと決めた」という所がストレスマネジメントのコツだと思います。

 例えば、糖質入りのおすそ分けをもらって食べたっていいのです。それが本当に自分でそうしたいと決めたことであれば。問題はそうした方が周りに喜んでもらえるから、というのが先にあって選んだ行動であれば、自分の気持ちが置き去りになっているということです。
 自分がどうしたいかという気持ちから逃げずに辛くとも選択を積み重ねていくことが最終的には自分にとって好ましい道へとつながっていくのではないかと私は思います。
私の主体的医療
悪性腫瘍からステージ3b摘出術後から4年生へ進級しました。30台で増殖スピードが早いものです。
無治療でいきたかったので手術も避けたかったですが、皮膚から腫瘍が飛び出してしまいそうもいかず抗がん剤は分子標的役だけ3回したあとバスし、ケトン食していました。
その他にあれやらこれやら。
先日の4年生進級試験(血液検査)ではかつてない最良の結果が出ました。
マーカー、白血球、リンパ、neut、コレステロール、中性脂肪、他


これまでケトン食で困難が多々ありましたが、糖質推進派の先生からはもちろん糖質制限批判の先生がたからヒントをいただき学び実践してきました。

またケトン食で再発された方の記事をみては懸念を予測していた点が的中してしまっています。

主体的医療の維持には、先生のような柔軟性を持って批判派の先生の考察は必要に思います。
私の今回の進級試験の結果には少なからず鈴木先生のこれまでの考え方も含まれているます。
個人差や病気の種類によって違うのかもしれません。
昨今賑わっているグルカゴン大変興味深いです。
これからも勉強させて下さい。

Re: 私の主体的医療
ナッツ☆ さん

 コメント頂き有難うございます。

 主体的医療を行うには情報の適否を自分の頭で、あるいは自分の身体で判断することです。
 血液データよりも自分の体調です。血液データをだけを信じて自分の体調がないがしろにならないことを願います。

 私の発信する情報が少しでも何かの役に立てることを願っています。