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「こども」:たがしゅう哲学カフェ in 秋葉原の御報告~後編~

category - たがしゅう哲学カフェ
2019/ 04/ 22
                 
前回に引き続き、「たがしゅう哲学カフェ in 秋葉原」での様子を報告させて頂きます。

前編では、こどもとは誰にとっても「幸せであってほしい存在」なのではないかという意見で会場はまとまりそうでした。

ところが話は、世間で見聞きする児童虐待のニュースへと及んでいきました。

もしもこどもに対する幸せであってほしい気持ちが、全人類に共通する本能的な感覚だとすれば、

たとえ少数であったとしても、虐待という現象が起こることはおかしいのではないかと、

そうするとこどもを慈しむ気持ちは本能の類ではなく、あくまでも環境の中で獲得された性質なのではないかという意見がありました。

小さなこどもが実の親から虐待されたというニュースを聞くと確かに痛ましい気持ちになると思います。
            

ただそこは哲学カフェです。どんな意見も全否定はせずに、ではなぜ人は自分のこどもを虐待しうるのだろうかということを考えてみましょう、と提案してみました。

すると一人の参加者の方から「私は虐待をしたことがあります」という告白がありました。

それは少なくともその方からするとしつけとは明らかに違う、こどもに対して暴力をふるうことで自分の感情を落ち着かせようとする行為であったといいます。

そのような虐待とおぼしき行動をとらせるに至った本質的な原因は「恐怖」であったとその方は言われました。

つまり周りに対して良い親でなければならないというプレッシャーから来る恐怖です。

社会の中でいつの間にか形成されている「良い親子」のイメージ像が、そうでなくてはならないプレッシャーを与え、

そうでない状態でいることが何よりも怖いことであったそうです。

そのため自分のこどもに対して「家ではどれだけ好き放題してもいいから、外では絶対いい子でいるように」ということをこどもに強要されていました。

お子さんはお子さんでその期待に応えようと一生懸命でいて、言われたとおりに外ではお行儀のよい子を演じ、

家ではその反動が出ていたそうですが、それに対して親の立場としては暴力も交えた虐待とおぼしき行為で押さえつけていたそうです。

それでもそれで家庭内の秩序は保てていたし、何も問題はないように思えるまま時間が過ぎていきましたが、

お子さんもある程度大きくなったある時、そのお子さんから「自分を殺してほしい」ということを突如言われ、その瞬間で自分の子育てが間違っていたということにはっと気付かされたとのことでした。

ちなみにその後、お子さんと話し合われ、今では幸いわだかまりのない親子関係を取り戻されたようで、何よりでした。


この話はなかなか衝撃的でかつ、それまではどこかで自分とは関係のないごく一部の変わった親の特異な行動だという雰囲気が広がっていた中で、

虐待というのは一つ間違えば誰の身にも降りかかりうる現象なのではないか、という視点がもたらされた貴重な意見だったのではないかと思います。

この方にしてみても、こどもに幸せであってほしいという思いは確かにありました。でも実際はこどもに暴力を振るう行動へとつながってしまった。

はたしてどこで何がゆがんでしまったのでしょうか。

それはこうでなければならないと暗にプレッシャーをかけられる社会という集団とその価値観が原因なのではないかと考えました。

新聞、テレビ、そしてインターネットと、社会の中で情報を拡散させる技術が進歩したことも大いに関係があるのでしょうけれど、

いつの間にか社会を構成するそれぞれの人達の中にイメージづけられた様々な事についての社会の理想像への同調圧力が、

それから外れた場合の恐怖感を人々に与え、与えられた人は自分のこどもに対して「あなたに幸せになってほしいから、私はあなたにこのようにいてもらいたい」という強要する行動へと仕向けられます。

けれどその行動はこどものためを思っているようでいて、実は自分自身を恐怖から守るための防衛行動だとも言えるわけです。

本能的なこどもの幸せのためという感覚が、恐怖によって歪められていると言い換えることもできましょうか。

結局、「こうでなければならない」という価値観が、人の行動を歪めてしまうと一般化できるということなのかもしれません。

だとすれば、私達がこのような歪んだ行動をとらなくて済むようにするためには何が必要なのでしょうか。

それは「多様な価値観を認める」ということに尽きるのではないかと私は思います。

こどもが外で何をしようともありのままを全て受け入れる包容力、たとえそれが反社会的であったとしても受け入れようとする姿勢です。

もしも自分の意図に沿わない、極端に言えば犯罪につながるような行動をこどもがとっていた場合には是正する必要があるとは思いますが、

その時もこの哲学カフェのようになぜこどもがそのような行動をとるに至ったのかを理解しようとする姿勢です。

とにかく社会の固定的な価値観に縛られることなく、本能的に感じる「こどもに幸せであってほしい」という原則を崩さないようにしながら、

こどもと接し、対話し続けることによって本能的な希望が歪んでいかずに済むのではないかと考える次第です。


これに関連して参加者の方で別の場所で哲学カフェを主催されている方が興味深いことをおっしゃっていました。

その方の哲学カフェでは参加者の方が小さなお子さん同伴で来られることを特に制限しないばかりか、むしろ参加OKであることを明示するのだそうです。

小さなお子さんを子育て中の方は、例えばその哲学カフェの参加条件で小さな子同伴禁止と書かれていなかったとしても、

もし一緒に小さい子を連れてきて、その子が退屈になって会場で好き勝手し出したらどうしようという不安、あるいはこれも「恐怖」と呼んでもよいかもしれませんが、これにより参加を敬遠するという現実があるように思います。

ところがその哲学カフェではこどもがさえぎろうが、大きな音を立てて邪魔をしようが、その光景が普通のことであるかのように対話を普通に継続するのだそうです。

つまりこれも多様な価値観を認め、親がこどもを制限しなくてよい環境を作りあげるという、具体的な例だと思います。

これは大変参考になりましたし、私も次回からたがしゅう哲学カフェでは小さなお子さんの参加もOKを明記しようと思いました。

なかなか有意義かつ具体的な収穫も得られた回だったように思います。

こどもとは「幸せであってほしい存在」、その幸せを守るためにはなるべく多様な価値観を理解すること、

不登校であってもいい、発達障害であってもいい、あるいは時に道を踏み外したとしても決して見捨てず、道を戻すにはどうすればよいか一緒に考え抜く、

私にはまだこどもはいませんが、自分自身も本質的にはそのように「幸せであることを願われた存在」だということも、

忘れないで生きていきたいという気持ちになりました。


たがしゅう

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コメント

非公開コメント
        

子どもの力。
こんにちは。
自分が「幸せであることを願われた存在である」って気づき、すごいですね。

私が子どもを持って気づいたことは、「子どもは親に幸せを与えてくれる存在」だということです。(たいへんなことも多いですが)

子どもの幸せを願うのは、子どもが幸せだと親の自分も幸せを感じられるから、というのもあると思います。

そして、私は子どもを持って、
「私という存在は、私の両親や祖父母に大きな幸福を与えてきたんだ」とも気づかされ、自分の自己肯定感?幸福感?が一段上がったような気がします。

存在自体が人を幸福にできるって、アイドルでしょう!?
しかもノーギャラで!?

おそるべし、子ども力。だと思います。
Re: 子どもの力。
エリス さん

 コメント頂き有難うございます。

>「子どもは親に幸せを与えてくれる存在」
> 子どもの幸せを願うのは、子どもが幸せだと親の自分も幸せを感じられるから、
> 「私という存在は、私の両親や祖父母に大きな幸福を与えてきたんだ」

> 存在自体が人を幸福にできるって、アイドルでしょう!?


 素敵な気付きですね。
 確かに自分はいるだけで両親や祖父母にとってのアイドルなのだと実感できれば自己肯定感は高まります。
 そしてそのことでアイドル自身も頑張れる。誰もが素晴らしい好循環が生み出す潜在能力を備えているのだと感じました。
No title
いつも興味深い記事をありがとうございます。

メーリングリストでシェアして頂いた
哲学カフェの音声を拝聴しました。
様々な「気付き」「学び」が得られました。
先生をはじめ、哲学カフェ参加者の方々に感謝致します。

「こども」は人類の未来へつながる希望だと思います。
この希望は、個人レベルでなく皆で育むものだと思いました。

現代社会は、物理的な豊かさの裏側に、
意識しないと気づきにくい歪んだ世界があります。
現代社会は、本当に大切なものが欠けている気がします。
心の豊かさ、「愛」です。

たとえ「愛」が歪んでも、それを救うのも「愛」
人は「愛」を学ぶために輪廻を繰り返すものだと思います。
原点に立ち返り、学び直したいと思います。
Re: No title
Etsuko さん

コメント頂き有難うございます。

親の子に対する想い、現世代の次世代に対する想い、
そこには共通構造があるのだと思います。
初期状態として美しいその想いを社会の偏った価値観でなるべく歪められないように、歪められたとしても行き詰まったら原点に立ち戻れるように、こうした場で物事の本質について考え抜くことは大事であるように感じています。