病名の功罪

2019/01/09 00:00:01 | 主体的医療 | コメント:2件

現代医療における標準的な診療スタイルには「診断」という作業が不可欠です。

問診、診察、検査というプロセスを経て、その患者さんの病態がどういうものなのかという事を表す「病名」をつける、それが「診断」という作業です。

誰しも、何か謎の症状に悩まされて、その原因が全くわからないという状態に陥った場合、とても不安になるのではないかと思います。

そこに「あなたの病気の原因はこれなんですよ」ということを象徴的に表すのに、この「病名」が使われるわけです。

「病名」がわかる、即ち「診断」がつけば、「治療」の方針が決まり、患者も安心する。そういうわけで西洋医学中心型医療において「病名」は非常に重視されているわけですが、

この「病名」という存在が、主体的医療の観点では非常に厄介な問題として立ちはだかってきます。 一つの理由としては、そうやってつけられた西洋医学的な「病名」の多くは、結局「原因不明です」と言っているものも多く、

単にその人の状態を表しているに過ぎず、そうなのにまるで病態が判明したかのように扱われ、根本治療がなされずに対症療法に終始してしまうという状況が広く見られているからです。

具体的には「高血圧症」という病名で診断されたら、食事療法、運動療法、それでもダメなら薬物療法という流れになりますが、

「高血圧症」という病名は、単に「血圧が基準よりも高い状態ですよ」ということを示しているに過ぎず、

なぜ血圧が高くなっているのか、もっと言えば血圧が高いとなぜ病気と診断されるのか、ということについての情報を与えてくれません。

まことしやかに塩分が高いことが原因だと言われていたりはしますが、それは正確ではありません。

なぜならば血圧が上がるという現象自体は、健康な人でも起こることですし、塩分を摂っている人が必ずしも血圧が上がるとは限らないからです。

私に言わせれば、血圧が高くなる理由は何らかの身体的および精神的負担がかかることによって、

その負担状態から脱しようとするために生体調整機構が働くというところにあります。

そしてなぜ血圧が高いと病気といわれるのかと尋ねられれば、

様々な疫学的調査から血圧と病気の関係を調べたところ、血圧が高くなればなるほど病気の発症リスクが高まるということが明らかになっているからです。

しかしなぜ血圧が高くなるのかという点に言及せずに、数値が高いこと自体が問題だという形にすり替わってしまうと、

血圧を高くし続ける負担状態が何かという根本治療的発想に向かわずに、とにかく血圧を下げるためにどうすべきかという対症療法的発想にしか向かわなくなってしまうわけです。

その結果、「高血圧症」と診断されたら、食事療法、運動療法、薬物療法となります。

私は血圧を高くし続ける負担状態の原因は食事とストレスだと考えていますので、

本来食事療法は高血圧症に対して根治的になるはずなのですが、残念ながらその方法論が間違っているという所ですれ違ってしまうのです。

運動療法も私に言わせれば対症療法的なのですが、前提となる食事療法が間違っていますので、それに連動して運動療法も効果が出ないという構造になっていますし、

薬物療法が根本原因にまったくタッチしておらず、完全なる対症療法だという事は言うまでもないと思います。

このように「病名」がつくことは、「わかったような気持ちにはさせつつも、真相をうやむやにする」というデメリットがあるのです。


もう一つ、「病名」がつくことによるデメリットがあります。そしてこちらの方がより重大な問題です。

それは「病気の原因が自分にあるということから目を逸らせる」ということです。

このデメリットが主体的医療における最大の壁と言っても過言ではないかもしれません。

例えば、原因不明の全身の痛みに長年悩まされている患者に、「線維筋痛症」という病名がついたとしましょう。

患者はそれを聞いて、どこの病院に行っても原因不明だとか、気のせいだとか言われ続けていたこの謎の痛みは、

なるほどその「線維筋痛症」という得体の知れない病気の仕業だったんだと合点がいき、後はとにかく先生の治療に身を任せますという心持ちになるかもしれません。

しかし「線維筋痛症」という病名は、平たく言えば「よくわからないけど全身の様々な部位に痛みが出る病気」という意味であって、

何も原因が判明したという状況ではないのです。それなのに患者の意識には、「外に原因が見つかった」という半ば偽りの安心感がもたらされている所に病名をつけるということの罪深さがあるのです。

どういうところで罪深いかというと、繰り返すようですが、「本当の病気の原因から目をそむけさせる」という点においてです。

元旦のサーノ博士の書籍でも紹介したように、難治性疼痛の原因の多くは無意識下に抑圧された怒り、そこから意識をそむけさせるために脳が実際に作り出した自律神経過剰刺激に伴う症候だったと思います。

端的に言えば、難治性疼痛の原因は内なるストレスにあるわけで、そこに目を向けずにただひたすら痛みを緩和する薬を投与し続ければ、

一時的に痛みは和らげど、根本的な原因は放置されたままで一向に改善の兆しは見られなくて然るべしです。

「高血圧症」「線維筋痛症」、他にもたくさんの病名がありますが、

これらの病名をつけることによって、患者が正しい病気の原因を知り、解決のための手段を取れるのならよいですが、

そんな注意をそらす方向へ向かわせるくらいなら「病名」をつけることはしない方がよいくらいだと私は考える次第です。

だから病名よりも、その患者の「状態」を知るという東洋医学的なアプローチにはまだ見込みがありますが、

そこからさらに一歩踏み込んで、なぜその悪い状態がもたらされているのかという事について、

意識を自分の内側に向かさせることが、病気の根本治療において極めて重要な視点だと私は考えています。

しかし、例えば感染症においては病名が治療に直結する、例えばインフルエンザには抗インフルエンザ薬があるのだから、

やはり病名は必要ではないかという反論もあるかもしれませんが、

それについては長くなるので次の記事で考察してみたいと思います。


たがしゅう
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コメント

2019/01/09(水) 11:02:56 | URL | T #-
大変共感いたします。10年以上前、超多忙な日々に風邪を引くも超多忙な毎日を継続、発熱下痢が始まり続き、病院受診、即日入院となりました。好酸球40%越えでしたが抗生剤と安静で顕著に症状改善、2、3日で退院しました。こちらの想像以上の回復との医師の言葉に、原因は多忙・ストレスだったのでは?と問うと、それは無関係と断言されていました。
以降体のメッセージを聞く必要を痛感した次第です。次回楽しみにしております。

Re: タイトルなし

2019/01/09(水) 11:44:05 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
T さん

 コメント頂き有難うございます。

> 原因は多忙・ストレスだったのでは?と問うと、それは無関係と断言されていました。

 まさに本当の原因から目を反らす構造になってしまっていると思います。
 このような構造では対症療法ばかりになるのは無理もありません。構造改革が求められているように私は思います。

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