「差」:たにやま哲学カフェ参加の御報告
2018/12/27 12:00:01 |
イベント参加 |
コメント:2件
クリスマスも終わり、年の瀬も近づいて参りました。
今年私は、クリスマスの夜をいつも参加しているたにやま哲学カフェで時間を過ごすことにしました。
私が住んでいる所からそう遠くない場所で開催されますし、
知っている人はほとんどいない中で行われ、かつこれといった自己紹介もなく始まるので、
普段の人間関係を意識することなく、自由に発言することができて新鮮です。
さて、今回のたにやま哲学カフェのテーマは「差とは何だろう?」というものでした。 こうした概念的なテーマはイメージが絞られにくいために話の展開が如何様にも変化しうるというのが面白いところです。
司会の方がこのテーマを選んだ理由として、
仕事柄リハビリ治療を患者さんに施していて、効く効かないをどのように判定するかについてあいまいな部分も多く、
差とは何だろう、ということについて意識することがあったのだろうです。
「差と聞いて何か頭に思い浮かぶことがありますか?」という司会の方の促しによって今回の哲学カフェは始まりました。
差とは算数とか数学の世界では、「引き算の答え」という明確な意味があります。
つまり何かから何かを引いて残ったものが「差」というものになるわけですが、
差を生じるためには何かしらの基準が必要となる、ということに気付きます。算数の差の場合は「数値」という基準です。
つまり人が「差」を意識する時、そこには何かしらの基準が必ず存在しているということになると思います。
例えば、「格差社会」という言葉がありますが、社会的地位の格差だとか、情報量の格差だとか、様々な格差はありますが、
最もイメージしやすい格差社会は貧富の差、すなわちここでの基準は「お金」ということになります。お金が多い人とお金が少ない人の間には「格差」がある、ということですね。
次に差がどうして生まれるのかということについて考えを及ばせると、
違いがあるから差が生まれるという意見が出ました。確かに5-3=2、9-6=3というように、数字が違えば必ず差が生まれますが、
2-2=0のように同じものからは差は生まれません。ゼロという差があるではないかという考え方はここでは少し置いておきましょう。
ということは世界は多様性に富んでいて、人は「差」を意識せざるを得ない世界で生きていると、
人は差を意識せずには生きてはいられない、これはもはや本能ではないかという考え方が見えてきました。
ただ一方で同じ「差を意識する」のでも、その差をポジティブに捉える人と、ネガティブに捉える人がいる、という意見も出ました。
他の種族との差を意識したからこそホモサピエンスは進化したのかもしれないし、差があるからこそ幸せに向けて頑張れるという考え方もあるでしょう。
かたや「差別」という言葉があるように、他人を貶めるように意識される差もあります。そうしたネガティブな差の意識は嫉妬という感情を通じて自分自身を自滅に導いていくことさえありえます。
このように差を意識する際、個人の価値観によってその差の見え方は変化するということも言えると思います。
先程、差を意識するときには必ず基準が存在するといいますが、この基準は「価値観」と置き換えることもできるかもしれません。
さらには自分に対する自信の大きさが差の生じやすさに関わってくるのではないかという意見もありました。
自分に自信がない人は差というものを意識しやすく、その差を埋め合わせようとする欲求が働きます。
人によってはいじめやマウンティングという行動をとることで他者を貶めることによって差を埋めようとします。
ところが自分に自信がある人はそもそも人をいじめようだとか、他者を征服しようと考えさえしないものです。
自分に自信がある人は差を感じているのではなく、「違い」を感じているということができるかもしれません。
基準、価値観を元に意識される「差」というものが、自分への自信によって「違い」へと変化するとはどういうことでしょうか。
「世の中は多様性があるものだから、人は差を感じずにはいられない」と言いましたが、
ある人が感じているその「差」を、また別の人は「違い」として感じていることがあると思います。
その「差」は根源的には一体どこから生まれるものなのでしょうか。
一つの考え方として、その人の価値観を規定する基準が単純化しているか、複雑化しているかという差に起因する、というものがあると思います。
ここに今、40-50代でとある同窓会に参加したとします。
自分は独身だけれど、そのくらいの年齢になれば家族がたくさんいる人だってざらにいるでしょうし、
自分は一人暮らしで細々と会社員で生活しているけど、社会的地位が高い職業で国内外を飛び回っているような人もいるかもしれません。
そうした場合にある人はその同窓生達との「差」を感じ、嫉妬を覚えたり、場合によっては自分はダメな人間だと落ち込んでしまうかもしれません。
それはその人の価値観に「結婚」、「お金」、「地位」といったくらいのものしかないからそう思うのでしょう。
ところが、例えばその独身一人暮らしの人がゲームや音楽、映画について詳しかったり、
あるいは派手さはなくとも丁寧に決められた仕事をきちんとこなす几帳面さに優れている側面があるとしましょう。
さらに言えば、独身→自由度が高い、結婚→自由度が低いという価値観も併せ持っているともなれば、
その人の価値観には「結婚」「お金」「地位」以外にも「ゲーム」「音楽」「映画」「丁寧さ」「几帳面さ」「自由度」など基準となる考えが実に多様に存在しているということになります。
こうなると誰かと誰かを比べた場合に、ある人が別の人に比べて圧倒的に劣っているという状況は生まれにくくなります。
つまり一つの価値観にとらわれず、多面的な基準、要素を持って自分というものが存在しているのであって、
そのありのままの自分を認めるところを基本にして生きている人は、相手がどんな大富豪であろうと、ハーレム状態であろうと、強大な権力を持っている人であろうと、
それらの人と「差」を意識するのではなく、「違い」を感じるということになるのではないでしょうか。
アドラー心理学の中に「ほめてはいけない」という教えがあったと思います。
これは叱るにも通じますが、褒める行為によって褒める側と褒められる側の上下関係が生まれ、
褒められた側は一過性の至福感には満たされるけれど、褒める相手との上下関係が意識され続けることによって、
褒められた側は褒められる行動しかとらなくなるようになる、すなわち主体性が失われるという事に対する警告であったと私は理解しています。
今回の「差」の哲学カフェを通じて、この教えは「差を意識してはいけない」ということでもあったのかもしれないと感じました。
詩人、金子みすゞの有名な詩「みんな違って、みんないい」というものがありますが、
違うのは当たり前、しかしそれを「差」と意識するのではなく、「違い」と意識することで自分を認められることができるんだよ、と教えてくれているのかもしれません。
しかし褒めてはいけないという言いながら、世の中では褒める教育や褒める指導が確かな成果を挙げているという事例もあります。
そこでの褒めるというのは上下関係を作るようなことではなく、
素晴らしかった部分を適切に認める、ということではないかと私は思うのです。
あなたのここは素晴らしい、なぜならば私にはないものをあなたは持っているから、と純粋に認めるということです。
指導者の立場になると陥りがちですが、相手のやる気を出そうとするが余り、そこまで褒めるべきでもない所をいたずらに褒めて伸ばそうとするのがよくないのではないかと私は思います。
だから褒めるといっても、「認める」に近い褒め方をすれば、
それは「差を生み出す」というよりも、「違いを認める」ということになり自分の、ひいては人類の自信へとつながるのではないかと感じた次第です。
そう思っていると、このたにやま哲学カフェの会場を提供して頂いているお寺の御住職より、
仏教の教えの中で、人をダメにする煩悩の中で最も大きなものに「慢」というもの、すなわち「思い上がりの心」があると教えて頂きました。
そしてこの「慢」こそが相手を「認める」ことを含めた他人を評価しようということだとおっしゃいました。
人は何も知らない、誰かの何かを評価するなんておこがましい、わからない中で悩みながら謙虚であり続けることの大切さを最後に説かれました。
「差」について自分の中できれいに着地しようとした中で、最後にまるで頭の後ろをハンマーで叩かれたかのような衝撃を覚えました。
「・・・何を偉そうに思っていたんだ、自分は・・・」と戒められた気分です。
それでも、多様性を受け入れる社会が、望ましい社会であることは私の中で揺らぐことはありません。
一つの価値観だけを押し付けられることはあってはならないはずです。しかし医療の世界では実際にそれが起こっています。
だから、「認める」というよりも受け入れる、「評する」というよりも理解する、
そうやって「差」ではなく、「違い」を当たり前に感じられる社会になれば、
世の中は平和に近づいていくのかもしれません。
たがしゅう
プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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コメント
No title
私のクリスマスの夜は月1回の定例の
カフェに参加していました。
「差」という観念からではありませんが、
いじめ、マウンティングについて考えたところでした。
他人が基準だから起こるのか。
確かに自分に自信がないのかもしれませんね。
いいタイミングでのblogでした。
褒め言葉に「えらいね」があります。
言われる度に違和感をおぼえます。こと自分の意志で自分のためのことに対してだと余計に。
相手はそのつもりはないのでしょうが潜在的な上下関係なのかもしれませんね。
もう少し考えを深めてみようと思います。
Re: No title
コメント頂き有難うございます。
> 褒め言葉に「えらいね」があります。
> 潜在的な上下関係なのかもしれませんね。
そうなのですよね。
今回のようなテーマで語り合っていると、
何か自分でも意識していない領域に踏み込んでいるような感覚を覚えます。
上下関係ではなく、水平関係で多様性を捉えることができればよいのではないかと個人的には考えています。
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