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こどもの主体性を守り抜く
こどもたちのいじめ問題にも共通構造があるとふと思いました。
察するに幼いこども達の場合は、若手医師時代の私以上に、主体性を発揮することは相当困難なことに思えます。
なぜならば知識も情報も経験もまだまだこれからなわけですから、自分の頭で考えようといくら言ったところで考えようがないのではないと思うのです。
それではこども達が主体的医療に参加するのは不可能なのでしょうか。
そもそも小さなこどもに主体性は存在しないものなのでしょうか。
いや、そんなはずはないと私は思います。むしろ赤ちゃんの時、人は皆主体性の種を持っていると思います。
泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑い、実に自分の気持ちに正直に生きているのが赤ちゃんであり、純粋なこども達もきっとそうであろうと思います。
しかしそれがいつしか育っていくにつれ言葉を覚え、集団生活を体験し、社会のルールにさらされていく中で主体性は失われていくのではないかと、
人間社会という人為的環境の中に存在している限り、「知識がなさ過ぎて主体性が発揮できない存在」へと変貌させられてしまうのではないかと思うのです。
たとえば暴力を振るういじめっ子と、それを傍観する大多数のクラスメートがいて、
自分の力で解決できないいじめの状況に教師へ助けを求めたとしても、
いじめっ子にはぐらかされたりして、その状況があることを教師が見抜くことができなければ、
いじめられっ子はそこから主体性を発揮して、自分が精神的に追い詰められなくて済むようになるための主体的な行動をとることができるでしょうか。
おそらくそんなことができる子はほとんどいなくて、自分の世界は学校という場所しか存在せず、その限られた世界の中で行き場を失ってやはり苦しみ続ける子が大半になってしまうのだろうと思います。
社会とか、規則とか、そんなものを一切取っ払えば、その場から逃げれば良いだけの話ですが、そんなことは現実的ではありません。
では知識がまだ十分でないこども達は、ある程度教育システムの中で主体性について学び取る事ができるようになるまでは、
主体的に行動することを諦めるしかなく、それまでに社会の大きな波に飲まれた場合に対してはなす術がないのでしょうか。
多くの場合は確かになす術はないのかもしれません。それはこども達の多くが学校生活に適応し、そしていじめは常に繰り返されていることからわかります。
しかし唯一の希望は、その子が「なぜ?」をとことん考え抜くことができるかどうか、だと思っています。
なぜ自分はいじめられるのか?なぜいじめっ子はそのような行動をとるのか?なぜ自分は辛い気持ちを感じているのか?
理由がわかれば、次に考えるべきは「そして、どうすればいいか?」です。
そうやって知識がなくとも考え続けることは誰でも、どんな時期でも、言葉の概念がなかろうとも可能なのではないでしょうか。
その考える姿勢さえ失われなければ、どんな不合理な社会であったとしても生き続けることが可能だと私は思います。
願わくはそれが社会の教育システムの中で奪われないことを願うばかりですし、
親をはじめとした大人達はそんな主体性の種である「なぜ?」姿勢を最大限尊重することが大事だと思います。
決してこどもに答えを与えてはなりません。自分で考えて、自分なりの答えに到達するにはどうすればいいかを全力で応援するのです。
たとえそれがこどもにとってどれだけ険しい道であったとしても、です。
そうでなければ、その子はその場は乗り切れたとしても、いずれ必ず常識という名の社会の波に飲まれ、自分の生きたい方向へ生きられなくなります。
このことは、現代の西洋医学中心医療という常識の中で、病気という課題と遭遇し、それを枠にとらわれずに徹底的に考え抜く姿勢と共通構造を持っているように思えます。
つまり、大人の世界でも十分当てはまる話だということです。
野生動物達はそんな難しいことを考えずとも主体的に生きているはずなのに、
人間だけは脳が発達してしまったが故に主体的に生きていくためにはひと工夫もふた工夫も必要になってしまいます。
逆に言えば、その工夫が施されず、何も考えずに人間社会の中でこどもが育っていけば、かなりの確率で主体性がそぎ落とされていくことがデフォルトとなってしまっているということです。
なぜならば社会のルールを守るよう求められるからです。秩序を保つのに主体性はしばしば邪魔だからです。
けれどいじめの予防にも、精神疾患の予防にも、病気の予防にも主体性は不可欠だと私は思います。
私はこども達の主体性を守り抜く大人でありたいと思っています。
たがしゅう
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