意思表示できない人の主体的医療の在り方
2018/09/04 00:00:01 |
主体的医療 |
コメント:9件
主体的医療は自分の主体性が発揮できない認知症や意識障害の人にはどう適用されるでしょうか。
そうした人達でしばしば問題になってくるのが延命処置の是非です。
具体的には、脳卒中などで寝たきりで意思疎通困難となり口から食べさせると誤嚥を起こすリスクが高いという人に、胃瘻や中心静脈栄養などの栄養補給の代替経路をどうするかという問題です。
現実問題としてはこの状況では家族の意志が最大限尊重されているところがあると思います。 しかしそれでは当の本人の意志が尊重されないことになる、しかし本人意思はもはや確認できない、
だから事前に本人意思を確認する試みを適宜行っていきましょうという流れがあります。これをアドバンスドケアプランニング(Advanced Care Planning ;ACP)と言います。
ただそれでも事前に本人意思が確認できていることはむしろ少数派です。
そのため本人の意志度外視でおそらく望まぬ延命が繰り広げられているということも少なくないと思われます。
胃瘻を作れども寝たきり、表情もなく、1日に何度も痰を吸う必要があり、そうしていても時折熱発し、その度に絶食抗生剤点滴を繰り返して消耗していく…
そうした姿をいつもまざまざと見せつけられている私の立場から見れば、はたしてこれが本当に本人が望んでいることなのかということについて疑問に思います。
こうした人に対してそれでも主体的医療を展開しようとするためには、本人の推定意志を探るしかありません。こうなる前の本人であれば、はたしてどのように思うであろうか、ということを考えるのです。
しかしそもそも「先生にお任せ」し続けてきた人の推定意志を探るなんて不可能に近いことです。
可能性があるとすれば、一番長い時間苦楽を共にしてきた人物であれば、多くの場合それは家族になると思いますが、
その人なら理屈的にも一番本人の推定意志に近づけるはずです。
ところがここでもう一つ、日本人の文化的価値観の壁が立ちはだかります。すなわち多くの場合「患者を看取る勇気が持てない」ということです。
言い換えれば、「家族を見殺しにできない」という感覚を多くの人が抱くということです。
その背景には「他人の目が気になる」とか、「自分が見殺しにしたとか思われたくない」などという心理が文化的価値観に後押しされる形で働くことが影響していると思われます。
また、昔は病院での延命技術がそれほど発達していなかったので、
1960年代とかそれ以前の時代にはおよそ8割が亡くなる時には自宅で家族に看取られるという状況がありました。
ところが次第に病院での延命技術が進歩したり、救急車による臨時搬送体制が整備されたり、
医師主導となる「先生にお任せ」志向も手伝って、その後在宅看取りの割合は激減し、逆に9割近くが病院で亡くなる時代へと激変したのです。
その結果、起こってきたのが「死が身近なものではなくなった」ということです。
私は病院に勤める医師でしかも寝たきり患者を診る機会も多いので、一般の人よりおそらくは死を身近に感じています。
そして胃瘻や中心静脈栄養などの延命処置を行っている人の多くがどのような姿をしているのかもよくわかっているつもりです。
その経験を経て自分がもし意思表示できなくなった場合、口から食べられなくなった場合の意思表示を行うならば、一切の延命処置は行わず、症状の緩和のみを行なってほしいと私は思います。
「臭いものにはフタ」ということわざがありますが、
身近に感じられず病院という別世界に押し込みてきた「死」というものを忌避する習慣があまりにも長く続き過ぎたために、
誰もが死と向き合えず、死についてまともに考える機会の得られないまま、
死を直視できない世代が多数派の世の中となってしまったように思えます。
生き方のヒントを与えてくれるアドラー心理学の考え方で言えば、ここで必要になってくる考え方は課題の分離です。
本人の課題と家族の課題を混同してはなりません。意思表示できず口から食べられなくなった結果を請け負うのは家族ではなく、あくまでも本人です。
望まぬ延命は本人の主体性不在の状況で、家族が本人の課題と自分の課題を混同することによって生み出されていると私は思います。
そんな不要な悲劇を生まないようにするには、まずは可能な限り本人の推定意志を探る努力を怠らないこと、
それがどうしてもわからない場合は自然重視型の見送り方を基本におき、そこに適切な人為を加えるのがよいと私は考えます。
俗な言い方をすれば、原始時代の人の亡くなり方を想像しながら、それを現代版にアレンジするということです。
即ち胃瘻、経鼻胃管、あらゆる点滴を一切行わず、はたからみて苦しそうな時のみ必要に応じてモルヒネなどの人為的な緩和手段を用いるという見送り方です。
すなわちそれが私自身の生前事前意志と一致するということです。
主体的医療は医療の適切化にも寄与するものと私は考えています。
たがしゅう
プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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コメント
No title
デリケートな問題にメスを入れて下さりありがとうございます。
見守る家族は、
延命処置を行うか否かという現実に直面すると思考が乱れ、
本当に大切な事に気付かないものかもしれません。
そして延命処置をを選択してしまいそうです。
先生がおっしゃるような気持ちがあるからです。
>「患者を看取る勇気が持てない」
>「家族を見殺しにできない」
>「他人の目が気になる」
>「自分が見殺しにしたとか思われたくない」
医学の発達により生まれた、延命処置に、
私たちの心が適応できていません。
それは延命処置というものが、どのような経過をたどり、
どのように死に至るのか、知らない人の方が多いからです。
私もそのうちの一人です。
いずれ必ずお別れが来るのなら、送られる側、送る側、
苦しむ時間、辛い思い出を減らしたい。
意思表示できる人、意思表示できなくなった人、
同じ気持ちではないかと思います。
>原始時代の人の亡くなり方を想像しながら、それを現代版にアレンジするということです。
>即ち胃瘻、経鼻胃管、あらゆる点滴を一切行わず、はたからみて苦しそうな時のみ必要に応じてモルヒネなどの人為的な緩和手段を用いるという見送り方です。
私自身、このような見送られ方が出来れば、悔いはないです。
そして、この様な見送り方が出来れば、悔いはないと言いたいです。
すごくすごく、頷いてました。
今回の記事は、特に、始めから終わりまで、それこそ、Etsukoさんのコメントまで、大きく頷きながら拝見しました。
「縁起でもない」の一言で、考えないようにしている人のいかに多いことか。そこから、考えることが大切なのだと、そう思える社会にして行きたいと思います。
私のブログでも、先生の記事を紹介させてください。
9/16、大阪でお会いしたかったですが、夜勤でした。
9/29には、新宿で、鳥谷部先生と夏井先生とお会いする予定です。たがしゅう先生にも、またお会いしたいです。
承認待ちコメント
最高の死に方
田頭先生のご尽力もあって、私の母は在宅にてとても安らかな最期の時を過ごして逝きました。亡くなるその日まで意思の疎通が可能で、少しずつこの世から剥がれていく様は確かに悲しくもありましたが、残された者には何の後悔もなく、本人の望んだ死に方を全うさせてあげられたのは心から良かったと感じましたし、自分も同じように死にたいと思いました。特養の現実を目の当たりにすれば多くの人は過剰な延命を否定するはずですが、この社会は余りに清潔過ぎるのですよね。死があまりに非現実的なものになり過ぎていて、「人間は必ずいつか死ぬ・・ただし自分以外」という感覚の人が殆どだと感じます。私達家族は割と死が近くにあったので日頃から死に方について話し合ってきたこともあって在宅での看取りを選択できましたが、親戚の中には良い印象を持たなかった人も居ましたので、遺言として文章にしておくことは大切だとは思いました。どの道、もう直ぐ大量死の時代がやってきて、在宅にならざるをえない人も出て来ますので、人の死について慣れておくためにも介護は義務教育のカリキュラムに含むべきのようにも感じます。
Re: No title
コメント頂き有難うございます。
> 延命処置というものが、どのような経過をたどり、
> どのように死に至るのか、知らない人の方が多い
その通りです。
延命処置がなされた結果どのようになるかを知っている人であれば、
おそらくそれを希望される人はほとんどいないだろうと想像します。
死が身近に感じられないが故に、人は見えない恐怖を遠ざけ続け、決断を先送りにし続けているのかもしれません。
しかし、もし延命治療の現実を目の当たりにして、その実情をよく理解したとしても、
課題の分離ができていないと、それでも延命治療を希望してしまうのではないかと思います。
自分の課題と他人の課題を混同せずに、自分の課題に「主体性」を持って向き合う、これが大切なことと思います。
Re: すごくすごく、頷いてました。
コメント頂き有難うございます。
また記事に共感して頂き有難く思います。
少なくとも死をリアルに感じられる機会をもっと私達は持つべきなのかもしれませんね。
ブログ記事の紹介はいつでも無断で行って頂いて構いません。
9/29の新宿での鳥谷部先生を囲む会には私も出席させて頂く予定です。
Re: 最高の死に方
コメント頂き有難うございます。
またお母様におかれましては心よりご冥福をお祈り申し上げます。
> 死があまりに非現実的なものになり過ぎていて、「人間は必ずいつか死ぬ・・ただし自分以外」という感覚の人が殆どだと感じます。
確かにその通りだと思います。
「先生にお任せ」し続けてきた結果、「主体性」を発揮できなくなる事態に陥り、最終的に「家族によって延命治療が選択される」という状況になった人は非常に多いと感じています。
すべての今の医療のこじれは、「主体性」の欠如から始まっているようにも思えてきました。
素人、玄人関係なく、様々な情報をもとに健康に関する選択をそれぞれが主体的に行っていく世の中へ、少しずつでも変わっていけばよいと私は思っています。
> どの道、もう直ぐ大量死の時代がやってきて、在宅にならざるをえない人も出て来ます
強制的に在宅になってしまえば、おそらく望まぬ延命は繰り広げられ続けるだろうと思います。
自らが在宅を希望して、自らの死に方を選べるかどうか、鍵を握るのはやはり「主体性」だと感じています。
No title
南杏子さんの著書「サイレントブレス」を思いだしました。
主人公がそれぞれに最期を選ぶ物語です。
私にも訪れるいつの日か…全てを受け入れ私もそうありたいと思います。
Re: No title
コメント頂き有難うございます。
誰にでも必ず訪れる問題、先延ばしにせずにきちんと向き合いたいものですね。
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