かんじんなことは数値化できない

2018/06/18 00:00:01 | フランスから学ぶこと | コメント:0件

友人から勧められて、「星の王子さま」という本を読みました。



星の王子さま―オリジナル版 ハードカバー – 2000/3/10
サン=テグジュペリ (著), Antoine de Saint‐Exup´ery (原著), 内藤 濯 (翻訳)


この本は確か以前読んだ小説「君の膵臓をたべたい」の作中にも登場しており、

少し魅力的な本として描かれていたので、どんな本なのか機会があれば読んでみようかと思っていた本でした。

今回その友人の後押しもあって読んでみたのですが、

一言で言えば、「童話の形をとった深い哲学書」でした。 作者はフランス生まれの飛行士で作家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリという人です。

20歳の頃から航空に異常なほどの興味をもちはじめ、飛行機の操縦で何度となく危機に陥ったにも関わらず、

情熱は冷めることなくますます増していき、その情熱を自身の作品の中にも込めていったという経歴の持ち主です。

その一方でこだわりの強いサン=テグジュペリは、今で言うところの発達障害気質があったのでしょうか、

周りの人達からは異端視され、友達という友達ができず、徹底的に孤独と向き合った人生を過ごした人物でした。

そんな中で、唯一の友達、というよりも友情をはるかに超えた信頼関係を抱いた相手、レオン・ウェルトに宛てて書いた本、

それが「星の王子さま」という本でした。


ざっくりとしたあらすじとしては、

主人公「ぼく」は純粋な心の持ち主で、大人になってもその純粋な心を持ち続けているも、

自分のことを理解してくれない大人達に嫌気が指している飛行士で、サン=テグジュペリ本人を彷彿とさせる人物です。

その「ぼく」がある時、砂漠で飛行機が不時着し、水も食糧もない中で飛行機の修理に当たっている最中、

突然「星の王子さま」という自分と同じ純粋な心、いやひょっとしたら自分よりも純粋な心を持っている存在と出会い、

「ぼく」に対して「星の王子さま」がぶつけてくる様々な質問や語られる思い出を通じて、

「ぼく」が人生で大切なものを思い出さされるというストーリーです。

一番有名な台詞に「かんじんなことは、目に見えないんだよ」というものがあり、

これは宮本武蔵の五輪書(ごりんのしょ)に出てきた「目に見えないところをさとって知ること」という言葉にも通じる、

非常に人生において本質的なメッセージを与えてくれている作品であるように思います。

友人はこどもの頃に読んで大好きになった作品だったとのことでしたが、

私は大人になって初めて読んでみて、確かに童話調で書かれていてこどもでも読めるかもしれないけれど、

はたしてこの物語の深い部分がこどもにわかるのであろうかと思うほど深い内容の本だと感じました。

いや、そのように深い意味があるなどと思うこと自体が、私がありのままを読むという純粋な心を失っている証拠なのかもしれません。

もしかしたら作者のサン=テグジュペリも、大人になってこどもの時の気持ちを失っていく自分に抗っていたのかもしれないと、この作品を読んで思わされました。


もう一つ、この本を読んでいて、現代医療の欠陥にも通じる鋭い指摘が書かれている部分がありましたので、少し紹介したいと思います。

(以下、p21-22より引用)

(前略)

おとなというものは、数字が好きです。

新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。

〈どんな声の人?〉とか、〈どんな遊びがすき?〉とか、〈チョウの採集をする人?〉とかいうようなことは、てんできかずに、

〈その人、いくつ?〉とか、〈きょうだいは、なん人いますか)とか、〈目方はどのくらい?〉とか、〈おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか)とかいうようなことを、きくのです。

そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。

おとなの人たちに〈桃色のレンガでできていて、窓にジェラニュウムの鉢がおいてあって、屋根の上にハトのいる、きれいな家を見たよ……〉といったところで、どうもピンとこないでしょう。

おとなたちには〈十万フランの家を見た〉といわなくてはいけないのです。

すると、おとなたちは、とんきょうな声をだして、〈なんてりっぱな家だろう〉というのです。

(引用、ここまで)



実は西洋医学を中心とした現代医療でもこれと全く同じ「おとな」のものの見方がなされています。

即ち現代医療の患者の捉え方は数値やデータが中心です。

身長、体重、BMIは数値がどのくらいで、何の症状があるかないかという見方もゼロかイチかの二進法で数字的な捉え方です。

血液検査などはまさに人を数値で捉える典型ですし、画像検査でもありのままを見るというよりは、何かの所見があるのかないのかを探す目線で見ています。

その結果、「この人は〇〇病の人」というラベリングをすることで、その病気に対応する教科書的な治療法を当てはめていくという形で医療が展開されているのが基本構造です。

その患者がどんな性格で、どんな声や表情をしていて、どんなことに興味があるかという事には決して主眼は置かれません。

強いて言えば、精神科が最も患者の持つ背景にアプローチできている診療科ではないかと思いますが、

残念ながらそれらの情報を得た上で行う対処方法が機械的で、薬物療法が中心に行われてしまっている事が大きな問題となっているという事については過去にも述べました。

一方で東洋医学は患者の声、匂い、表情、性格、興味や嗜好など、ありのままを捉えて、その人にあったオーダーメイドの治療法を導く医学なので、

西洋医学に比べれば、ありのままの姿を大事にする医学と言えるかもしれません。

しかしそれでも患者を「虚証」だとか、「実証」だとか、特定の概念に当てはめる視点があるので、

本当の意味では「星の王子さま」的とは言えないかもしれませんが、

それでも、ありのままを見ることを大事にして対象を扱うということの大切さに一歩近づけるのではないかと思います。

血糖値に左右されて自分の身体の声を聞くことがおざなりになってしまったり、

Low T3症候群になっているから糖質制限をやめるべきと即断し、自分が抱えているストレスに目を向けようとしなかったりするのは、

いずれも「ぼく」や「星の王子さま」が嫌うおとな的なものの見方になってしまっているのではないかと私は思います。


本質をつくメッセージというのは、

時を超えて、形を変えて、人の心に突き刺さるものですね。


たがしゅう
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