病気と戦わず、病気を見つめる

2018/03/31 00:00:01 | おすすめ本 | コメント:5件

先日、友人に勧められて以下の小説を読みました。



最後の医者は桜を見上げて君を想う (TO文庫) 文庫 – 2016/11/1
二宮敦人 (著), syo5 (イラスト)


ある日突然余命幾ばくもないことを宣告されたとある3名の患者達、

それぞれの患者が病気と向き合っていく姿がリアルに描写され、生と死について深く考えさせられる医療系小説です。

作者の二宮敦人さんは随分お若い方ですが、すでにこの作品以外にもたくさんの小説を書かれていて、この作品もすでに10万部以上を超えるヒット作となっているそうです。 小説の中でキーマンとなるのは二人の医師です。

あくまでも生きることにこだわり病気と闘い続けることを勧める腕利きの外科医、福原先生と、

治らない病気とわかった時点で病気と闘うのを止め、自ら死に向かって歩くという選択肢を提示する死神との異名を持つ皮膚科医、桐子先生です。

白い巨塔の財前先生と里見先生を彷彿とさせる対立構造で、二人の医師の主張もそれぞれ筋が通っていて興味深いのですが、

二人とも「病気と闘う」という基本的姿勢の中で両極の関係にあるため、意見が真逆で対立してしまっています。

現実の医師たちはここまで両極端ではないにしても、やはり病気と闘うことを前提に二人の医師の思想が混ざり合う形で医療を展開していることがほとんどではないかと思います。

作者の二宮先生、医療関係者でもないというのに綿密な取材をなさったのでしょうか、

現代の医療現場の実情が実にリアルに描かれていると感じました。

特に患者視点での描写が見事で、突然の余命宣言に戸惑い、悩み、怒り、苦しむ姿が実にリアルに描かれています。

読んだら患者目線で感情移入してしまい、非常に考えさせられたという方もきっと多いのではないでしょうか。

個人的には私は神経内科医なので、

小説の中で出てくる神経内科医が取る行動や、行う検査の内容なども非常にリアルで、

まるで自分が経験してきたかのように具体的な描写で描かれていることにも大変関心しました。

ただ、そうした描写は非の打ちどころがないほどリアルなのですが、

そもそも小説はフィクションであり、ストーリー展開はやはりリアルとは言えません。

当たり前の話ですが、作者の価値観を通じてストーリーが展開されています。

言い換えれば、作者の価値観の中では医療はこのように見えているというバーチャルな世界が小説の中で描かれているということです。

あまりネタバレしてもいけませんが、小説の中では医療が理不尽なほどに過酷な試練を与えるような存在として描かれています。

この本の読後の感想は人それぞれでしょうけれど、あえて多くの人が感じるであろうことを想像するならば、

もしも自分が余命幾許もない厳しい病気だと突然宣告されたら、自分らしく生きるためにどういう選択ができるかという事を考えさせられる人が多いのではないかと思います。

ただ私の価値観は作者のそれとは少し違っていて、そもそも病気と闘うべきではないと思っています。

確かに西洋医学ベースの医療は時として患者に残酷な選択を迫ります。

しかしそれは全て病気を克服すべき悪として捉えているから生まれている構造だと思います。

私は、病気と戦うのではなく、病気を見つめるべきだと思っています。

病気とは、何の理由もなくどこかから降って湧いてきた悪の存在ではなく、病気を起こすにはそれなりの理由が必ずあるはずです。

がんにしても、認知症にしても、神経難病にしても、何も原因がないのに勝手に起こってくるはずはないと思うのです。

遺伝子の突然変異など自分では如何ともしがたい原因もあるかもしれませんが、

人体にはそれを修復するシステムも備わっているはずです。それなのに修復できないのだとすれば、それは修復できなくなるほど身体の代謝に異常をきたしているということです。

つまり病気とは身体の中で好ましくないことが起こっているというサインであり、身体からのメッセージです。

それをじっくりと見つめ、主に食事とストレスという2点においてその原因がなかったか考え直してみるのです。

そのステップをすっ飛ばして他者依存的に病院に頼るだけの行動を取ってしまえば、現代医療のベルトコンベア的な流れに乗せられても文句は言えません。なぜならば自分で考えることを放棄してしまっているからです。

病気をきっかけに自分を見つめ直し、自らが主体的に動いて病気が治まる方向へと生活を軌道修正し、

それでもうまくいかない時に医療の力はあくまでもサポートとして利用するというスタンスでいなければ、

最後まで自分らしく生きることが難しい世の中となってしまっていると思います。


何でもかんでも手術をはじめとした医療で病気を根絶やしにしようとする福原先生のスタンスは私にとって論外ですが、

桐子先生のように病気と戦うことをあきらめて余生を充実した時間にすべく死に向かって自分から歩く人生を勧めることも私はしません。

そもそも病気と闘うのではなく、病気を正しく見つめてそこから自分の生き方をも見つめ直すことを私は勧めます。


たがしゅう
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コメント

No title

2018/04/01(日) 07:33:47 | URL | ココア #-
病気を見つめるとは具体的にどんなことなのか?
教えて頂きますか?病気以外にも老齢からくる体の衰えなどもいたずらに医療にかかるのではなくある程度は受け入れることが望ましいと思いますが、このある程度というのがあいまいですね。うーーん、難しい。

Re: No title

2018/04/01(日) 09:42:23 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
ココア さん

 御質問頂き有難うございます。

> 病気を見つめるとは具体的にどんなことなのか?
> 教えて頂きますか?


 病気を感じた時に食事とストレスの主に2点で生活を見直します。
 食事にまつわる生活の範囲はかなり限定されますが、ストレスに関しては運動、呼吸、仕事、人間関係、気候、住居など幅広く関わってくるので隈なく見つめ直すように心がけます。

 例えば、頭痛があったとすれば、食べ物を偏って食べていないか、ストレスがかかる出来事を無理して抱え込んでいないか、スマホやパソコンの使い過ぎで肩の緊張が高まっていないかなど、生活を見つめ直してみるのです。
 当座頭痛薬を用いて抑えるということは勿論あっていいですが、それで安易に解決として元の生活に戻るのではなく、なぜ頭痛が出ているのかという身体からのメッセージに真摯に向き合い、そして何らかの対処行動をとるということが大事と思います。

 年齢を重ね、老化していく現象自体は誰しも避けられないことです。それは病気とはニュアンスが違いますが、対処は基本的に一緒です。
 つまり老化していく体力に合わせて、食事やストレスによって身体にかかる生活上の負担を適切に調整していくことができているかどうかです。
 社会システムやそれまでに構築された達との付き合いに合わせて、若い頃と同じ負荷で生活をしていくのではなく、自分の体力の衰えに合わせて仕事量を減らしたり、人付き合いを最小限にしたり、などと調整していく工夫も必要なのではないかと私は思います。
 一方で老化に抗うアンチエイジング的な発想もありますが、基本的にそれは身体に無理をかける行為だと私は思います。老化に抗うのではなく、よりよく生きることがよりよく老いることにつながるのではないかと私は思っています。

No title

2018/04/01(日) 12:44:26 | URL | ココア #-
ありがとうございます。
アンチエイジングという言葉に特に女性は弱いので、商売としては狙い目なんでしょうね。、若いと言われたいためか?ハードな運動した所を人に見せたり、歳を取ることに抗うのが良いという風潮があるような気がします。穏やかに体の声を聞いて歳を取りたいですね。

感想

2018/05/21(月) 00:18:15 | URL | エリス #-
こんばんは。
私も読みました。感想です。
きつい内容でしたが、私がいちばん感じたのは、不幸にして患者になった3人ともが、身内に助けられることです。
会社員には奥さん、女子大生には両親、お医者さんにはおばあちゃん。と、それぞれに大切な存在がある。
当たったり、気を使ったりできる相手がいるのは救いになる。支えになる。例え落命したとしても。ということでした。
厳しい状況の中で気がつく家族のありように、泣けました。フィクションですけど。

Re: 感想

2018/05/21(月) 07:06:36 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
エリス さん

 コメント頂き有難うございます。

> 当たったり、気を使ったりできる相手がいるのは救いになる。支えになる。例え落命したとしても。

 なるほど。確かにそういうメッセージも受け取ることができますね。
 裏を返せば、本当に一人になるということが救いのない状況につながるということであり、一見絶望的な状況であっても、人や社会と適切に関わり続けている限りは救いはなくならないということなのかもしれません。

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