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自分の思考の樹を育てる
自分だけの思考の軸が形作られていき、
それは他の誰とも違うものとなっていきます。
それ故に成熟思考の持ち主同士で話し合って一つの結論に持っていくことは本質的には難しいと私は考えています。
逆に言えば、思考が成熟していなければ成人でも自分の思考の軸ができていないので、
他人の意見に左右されて、それが容易に変えられるリスクを抱えるということになります。
例えば、誰かに糖質制限のことを尋ねられて説明をする際に「〇〇先生の本やブログを読んで下さい」とだけ言う対応をするのは、思考が成熟していない可能性があります。
言い換えれば、糖質制限を自分の中で完全に理解し切れていないということです。
他人の意見に乗っかるのは楽ではありますが、その意見がこの先ずっと自分と同じ意見であり続けるとは限りません。
将来乗っかった他者の意見に自分が賛同できなくなった時に困ったことになってしまいます。
しかし思考が成熟していれば、自分の言葉できちんと糖質制限について説明することができますし、
そればかりではなく未知の質問に遭遇しても、自分の頭で考えて解答を考えることができるようになります。
だから思考を成熟させるためにゆっくりと自分の頭の中で内省する作業が大切だと思うのですが、
思考が成熟した人同士だとしばしば議論に決着がつかないため、妥協という形で議論を終えるということをしばしば経験します。
思考の成熟者と未成熟者との議論は成熟者への合併吸収、
成熟者同士の議論は本質的に折り合いがつかないという事となれば、
思考の成熟者にとって、はたして人と話し合うという行為にはどれほどの意義があるのでしょうか。
そんな事を考えつつも、私は最近哲学カフェの語り合う方式に大変興味を持っています。
哲学カフェは、多人数が意見を出し合って一つの意見に集約させるという話し合いの作業とは異なり、
他人の意見を決して否定せず、多様な意見をありのまま認めて、無理に一つの意見に集約させようとはしません。
その代わり、一見真逆の意見に見えても実は本質的に同じ部分があることに着目したり、時には誘導されたりして、新たな気付きが与えられたりします。
それによって一つへの集約ではなく、それぞれの参加者の頭の中で思考の幹を育てていくことができます。
きっとそうやって自分の思考の種を、それぞれが育てていけばいいのだと思います。
そして一見別々の場所で育ったはずの思考の樹々が、
実は共通の根で繋がっているということに気付いた時に、
いわゆる集合知として人類の叡智が生み出す宝となるのではないかと思います。
だから、人と意見が違っていても構わない。無理に合わせなくてもいい。
そのままいろんな人の意見を聞きながらも決して迎合することなく、
自分の思考の樹を地道に育てていけばいいのだと私は思います。
たがしゅう
コメント
人の意見を聞いて、自分の意見はよくなかったのかなっておもって、人の意見にのっかってしまいます。
人の意見を聞きつつ、自分の意見と考えて答えを出せばいいですね。
他人の意見を尊重したほうが楽っておもう自分がいるんだなって気づきました。
先生今日もありがとうございます。
2018-02-01 20:05 瀬川里香 URL 編集
Re: タイトルなし
コメント頂き有難うございます。
自分の意見を持つと、人生の目的や自分が今何をするべきかという目標が明確になってきます。
自分の意見を持たず、誰かの身に任せることは楽ではありますが、何がどうなっても文句は言えない状況です。
どちらがよいかを判断し、どちらの道を選ぶかは自分次第だと思います。
2018-02-02 08:17 たがしゅう URL 編集