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正しく疑えるようになるために

category - 素朴な疑問
2017/ 11/ 24
                 
食欲、性欲、睡眠欲などの生理的欲求が広く動物に認められますが、

脳の前頭連合野が発達したヒトならではの欲求として知識欲があります。

知識欲は「なぜ?」を追い求める力、自分の頭で考える人生を送るためには欠かせない原動力です。

しかしそもそも「なぜ?」という着想を持つためには、「疑う」という行為も大事になってきます。

疑うということをしなければ、「あぁそれはそういうものなんだ」と受け入れてその後の行動は知識欲へとつながらなくなっていくからです。

ここで読者の皆さんに質問です。皆さんはどういう時にものごとを疑いますか?
            

怪しい恰好をした人が一般的には高価だとされるものを破格の値段で売ってくる時ですか。

同棲している恋人の帰りがいつもよりも遅くなっている時ですか。

あるいは糖質制限であらゆる病気が良くなるという都合のいい話を聞いてきた時でしょうか。

ヒトが何かを疑う時には、その人が持っている価値観というものが大きく関わってきます。

自分にとってこういう恰好をしている人は怪しいという価値観、この商品の値段なら相場はこのくらいが妥当という価値観、

恋人であれば何を差し置いても自分との時間を大事にするはずだという価値観、

あるいは食事療法だけですべてがよくなるなんてそんな虫のいい話があるはずがないという価値観です。

いずれにしても自分の人生の中で時間とともに形成されてきた価値観とずれているかどうかという事が、「疑う」というアクションが起こるかどうかの鍵となってきます。

逆に言えば、価値観が変われば以前なら疑っていた状況も疑わなくなる状況も起こり得るわけです。

様々な個性的なファッションを受け入れられる価値観になれば、以前なら怪しいと思っていた人を怪しいと思わなくなるでしょうし、

商品の価格ではなく内容に重きをおく価値観になれば安いものが必ずしも悪いとは思わなくなるかもしれません。

社会生活の中で恋人との時間を押してでも費やさなければならない時間がある事が理解できれば恋人の帰宅の遅さを理解できるかもしれませんし、

食事で様々な病気が改善する様子を見聞きして自分でも経験する事ができれば糖質制限を疑わなくても済むようになるかもしれません。

このように、何かを疑うという行動を自分が取っている時に、

その基準となっている価値観は妥当かどうかという事を時々振り返ってみることは大切なことであるように思います。

他人の価値観は変えられませんが、自分の価値観はいくらでも変えることができるからです。


一方で疑うというアクションを起こすためにはそれなりの知識や行動力が必要です。

自分の専門分野であればまだしも、あまり親しみのない分野の話を専門家と称する人からもっともらしい事を言われれば、はたしてそれを正しく疑うことができるでしょうか。

例えば家を買おうと思ったとします。人生で一番大きな買い物と言われる家の購入です。

だまされるわけにはいかないので、誰にとっても猜疑心をかき立てられやすい状況ではないかと思います。

しかしその際、テレビでCMを流している有名な某住宅メーカーからきちんとした身なりで丁寧な言葉遣いで家の説明をされたら、

その話を疑うことははたして可能でしょうか。

住宅の構造、建築業界の事情、耐震補強、耐用年数、地価の相場、ハウスダストの原因、日照権の詳細など幅広く知識を持っていなければ、「あぁそういうものなのか」と受け入れてしまうのが関の山ではないでしょうか。

そしてその時に疑う行為の邪魔をするのが「大手のメーカーであればきちんとやってくれるに違いない」という価値観です。

しかしもしもそのメーカーが利益を生み出すために多少強引な事を顧客に要請し、それに気付かれないよう販売戦略を組み立てているとすればどうでしょうか。

そうです。価値観によっては疑うべき状況で疑わなくさせられてしまう事も起こり得るということです。

従って、正しく疑うためにはそれなりの知識と、知識に基づいた行動力が求められるということです。

ヒトに与えられた「知識欲」はそのための原動力であって、

世の中の構造が複雑化した事によって生み出された産物だと私は思います。


たがしゅう

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コメント

非公開コメント
        

英語で
こんばんは。
どうでもいい話ですが、英語で、「疑う」は、suspect と doubt があって、当時の英語の先生からは、

suspect は、刑事が思う疑い。
doubt は、母親が思う疑いだよ、と教えられました。

彼が犯人に違いない、という疑い=suspect
彼が犯人のはずがない、という疑い=doubt

日本語だと曖昧になるから、「疑う」を考えるときは、どっちの単語になるのかな?と考えます。二つが同じ「疑う」に訳せちゃうあたりが、日本人がいかに疑うことに無防備かを表しているようにも思えます。



テレビという魔法
テレビの内情を少しばかり知っているものとして意見させていただきます。

「テレビに出る」と「有名になる」

今も昔も変わらない普遍的な方程式です。
ニュース番組の中継映像の背景に映る野次馬などその最たるもので、出演すれば地元では有名になります。
そして今や、一般の方々がSNSで不特定多数相手に自らの特技や日常生活を恥ずかしげもなく動画配信する時代。
そして視聴者からの絶大な支持をもらって、一般人が一気に著名人になる場合もあるようで、理解に苦しみます。
動画メディアは増加してきましたが、いずれにせよカメラを通して映し出されたものは、ある種フィルターがかかって実物に脚色がかかるような不思議な効果を得るのかもしれません。

そして見る者は、その動画の裏側で何が起こっているのかはあまり重要ではなく、その切り取られた部分だけが面白ければよいようです。
だからイメージを良くも悪くにも操作することもが可能なのです。

情報収集する側が知識を持って情報を得る。
心掛け次第では、昔とは比べ物にならないくらいの良質な情報も得ることができるのですから、知識欲は自分の特権と思って欲深くなってもいいのでしょうね。
Re: 英語で
エリス さん

コメント頂き有難うございます。

確かに国の言語には個性が出ますね。
敬語表現が複雑という辺りも「忖度」が流行語になる日本らしさが現れているように思います。

言霊という言葉もありますが、操る言葉がその人の価値観を形成していくところもあると思います。
そういう意味で異国の言葉から学び、「疑う」という行為の本質を知ることには意味があることのように思います。
Re: テレビという魔法
だいきち さん

コメント頂き有難うございます。

> 見る者は、その動画の裏側で何が起こっているのかはあまり重要ではなく、その切り取られた部分だけが面白ければよいようです。

テレビや動画の情報はコントロールしにくいとも言えるかもしれません。
「テレビではこう映っているけれど、実際のこの人はどんな人なのだろう」と、そこまで考えが及ぶ人は少数派で、8割くらいの人は良くも悪くも情報操作されてしまうのだと思います。