押すべき時と引くべき時

2017/09/29 00:00:01 | ストレスマネジメント | コメント:0件

言語的に謝っていても、非言語的に謝っていない場面が見られることってあると思います。

先日、自分自身の中にそれを感じた瞬間がありましたが、

時々私は他人に対しても、何となくそれがわかることがあります。

直観的にとも言えるかもしれませんが、おそらく非言語的なメッセージには大きなものがあるという事なのだと思います。

取って付けたような謝罪をしているけれど、その実が伴っていないと感じた場合、私は謝罪を受け止めた上でその場をサラリと流します。

そしてその相手へこちらからのメッセージを積極的に伝える事を一旦諦めます。

なぜならば、相手は腹の中では全然謝っていないのであって、そんな人に対して自分の言葉が届くとは到底思えないからです。 私が議論をする価値があると思っているのは、冷静かつ余裕が感じられる人です。

冷静さをかき、ヒステリックに自分の主張をまくしたてる人に対して説得をした所で時間の無駄だと思っています。

世の中の人すべての人と分かり合えるなんて綺麗事は通用しないと私は思います。というよりもむしろ、違っている方が自然です。

目線を生物界全体に向けても生物多様性がある事が、生物がここまで命を紡いできた最大の秘訣だと私は思っています。

だから分かり合えない人がいること自体を悲しんだりしませんし、

私の主張が絶対的に正しいはずなのにと地団太を踏んだりもしません。現時点での私の考えであり、私が間違っている可能性だって十分にあるわけですから。


基本的には「自然の流れに逆らわない」ということが大事です。

疲れたら基本的には身体を休めるべきです。疲れているのに意に反して無理を続ければ身体を壊してしまいますよね。

自分の考えを押し通すか、一旦引くかについてもそれと同じことが言えると思います。

相手に自分のメッセージが伝わらなさそうなのに、無理して説得を試みてもろくなことはありません。

しかし場合によっては、自分の意見を押し通すべき場面もあるかもしれませんが、

そういう場面にはきっと、おそらくこれも非言語的な形で、押し通すべきだと感じる何かがあるはずだと私は思います。

それにただ自然の流れに逆らわないだけだと、言い換えれば自分を持たずに流されるままに生きていくという受け身的生き方になってしまいます。

そうではなくて自然の大きな流れには沿う、しかしここぞという時にだけ流れと違う方向に進んでみる、

自然に適切な人為を加えるという生き方が大切だと私は感じています。


たがしゅう
関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する