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不自然な「友達」より気の合う「仲間」
やはり実家ほど気持ちの落ち着く場所はありません。
私は実家で何にもとらわれずに一人の時間を過ごすのが好きです。
そう言えば、昔は同級生達を自宅に招いてワイワイガヤガヤとやっていた時代もありました。
今は同窓会が開かれていても参加する気があまり起きません。
私があまりにも変わりすぎて、一から説明するのが面倒だからかもしれません。
疎遠になる人達というのは、それ相応の理由があると私は思います。
互いが全く違う世界で生きるようになった人達と疎遠になるのは自然の摂理です。
それなのに「友達だから」という概念の呪縛によって、すでに価値観が変わっているのに年賀状を送り続けるような関係は少なくとも私の性には合いません。
価値観が共有できるから、また会いたいと思うから年に1回とかいうしきたりにとらわれずに交流を深めるというのが、本来の「友達」の出来方だと思います。
その「友達」もまた、時が過ぎ価値観が変わればまた自然と離れていくべきで、
人と人とのつながりはそのように移ろいゆくものだと私は思うのです。
ネット社会になり、不自然な「友達」の出来方には拍車がかかったように感じています。
私はFacebookにアカウント登録こそしていますが、積極的に使用はしていません。
友達申請が来ても思い当たる節がなければスルーします。また友達申請を直接頼まれれば承認こそしますが、それだけで積極的に交流しようとは思いません。
なぜならばそのような人とのつながり方は不自然だと感じてしまうからです。
人と人とのつながり方は、今も昔も気の合う人同士が、
会いたいから会う、会いたくなければ会わないというシンプルなルールが基本であるはずです。
それなのにいつの間にか行われた構造改革に、考えることなく流されてしまった人達は、
会いたくないのに会う、会いたいのに会えないという不自然な人間関係が構築され、しかもその事に気付いていないという状況に見舞われてしまっているように私には思えます。
Facebookは芸能人が多数のファンを獲得したり、
会社やお店がより多くの顧客を集めたりするのには良いんでしょうね。
名声や利益を得るのに多くの不特定多数の支持者を集める事は有利に働きますから。
だけど、いわゆる「友達」作りには、これほど向いていないツールはないと私は思います。
すべての必要なステップをすっ飛ばして、それでも「友達」に仕立て上げてしまう破壊力があるからです。
取ってつけたような「友達」ではなく、価値観の合う「仲間」が欲しいのなら、
顔を付き合わせ交流を重ねていくより他にないと私は思います。
そういう相手がいなければ、心置きなく一人でいればいいと、
そんな事を考える実家での夏でした。
たがしゅう
コメント
管理人のみ閲覧できます
2017-08-15 09:12 編集
Re: ご回答ありがとうございます
コメント頂き有難うございます。
そういう問題を考える時に参考になるのはアドラー心理学における「課題の分離」です。
その問題を解決できないことによる結末を最終的に誰が引き受けることになるかということです。
それが自分の問題でなければ、あれこれ悩まない方がよいと思います。なかなか割り切れない場面もあるかもしれませんが。
2017-08-15 09:30 たがしゅう URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-08-16 16:24 編集
Re: 同感です!
コメント頂き有難うございます。
上手に適応なさっていると思います。
嫌なことは嫌だと言う、それができなければ言わなくても済むよう環境を変える、
絶対的な正解はなくて、それぞれの人生に合わせてそれぞれがやり方を見出していくべきだと私は考えます。
2017-08-16 16:31 たがしゅう URL 編集