人生を変える「物語」と正しく向き合う

2016/12/05 00:00:01 | 糖質制限 | コメント:2件

鎌倉時代後期の僧、親鸞の思想を弟子たちがまとめ上げた書物「歎異抄(たんにしょう)」は、

当時の仏教の概念を覆すパラダイムシフト級の改革思想が集積された書でした。

具体的にはそれまで自分が頑張って修行し念仏を唱えて浄土に行く事を目指した「自力」の宗教から、

そうではなくてどのような人間も最終的に仏様が救ってくれるのであり、この身のままお任せして浄土に導かれるという「他力」の宗教へと仏教の方向性を真逆に変えた書でした。

それだけ聞くと何もしなくても仏様が助けてくれるんなら悪い事やりたい放題なのかと、よく誤解されがちな本としても歎異抄は知られているのですが、

そうではないのだという事を、「100分de名著」という番組で如来寺住職で宗教学者の釈徹宗(しゃく てっしゅう)先生が大変わかりやすく解説されていました。

歎異抄の後序には親鸞が生前常々語っていたという言葉を弟子がしみじみと思い出すという場面が描かれています。その言葉とは、

「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」 意味は、「阿弥陀仏が五劫もの長い間想いをめぐらして立てられた本願をよくよく考えてみると、それはただこの親鸞一人をお救い下さるためであった」というものです。

あれ?仏教はみんなを救うためのものじゃないのかと、自分を救う一人を救うためだと断言してしまっていいのかという気が致しますが、

これに関して釈先生は大変腑に落ちる解釈を説明されています。

宗教というのは、それを受け取る人間にとっての「物語」なのだというのです。

ここで言う「物語」というのは、フィクションとか小説のように一般的に私達がイメージしやすい意味の方ではなく、「意味の体系」という意味で捉えてほしいというのです。

私達の人生も「物語」、宗教でいう救いも一種の「物語」です。すべてがつながり意味づけされた一連の流れを持つものです。

さらにここで釈先生は「物語」と「情報」の違いについて説明を加えられます。

「情報」と違って「物語」というのは、それに出会ってしまうと出会う以前に戻ることができない、そういう力を持っているものだとおっしゃるのです。

具体的な例として、こどもの頃にトイレの怪談を聞くとその晩からトイレに行けなくなるというような話を軽い「物語」の例として挙げられていました。

だから親鸞にとっては仏教はそれほどの力を与えた「物語」だったのだと、親鸞にはそういう実感があったのではないかと釈先生は解説しておられました。

この話を聞いて、私は自分にとっての糖質制限もまさに「物語」だなと思いました。

それこそ糖質制限が自分の中にしか存在しない自分の人生だけを救うための存在であったと、そういう境地に達した親鸞の気持ちが今の私にはわかるような気がします。


私は自分が患者さんに食事指導をする際には、

カロリー制限の選択肢を提示する事はあっても、カロリー制限を勧める事はまずありません。

それが医学的にいかにメリットがない方法であるかという事が明確に認識できているからです。

そういう意味では私が、カロリー制限を当たり前のように指導していた以前の私に戻る事はこれから先一生ないと思います。

そして私の職場が変わっても私はこれからも患者さんに糖質制限を指導し続けるし、職場からの圧力で私が糖質制限指導できなくなったとすれば私はその職場を迷うことなく辞めます。

私にとっての糖質制限はそれくらい大きな影響を及ぼしたものでした。まさに「人生を変えた糖質制限」です。


一方で釈先生は、現代人の宗教への向き合い方は、宗教を「情報」として扱っているような節があると指摘されています。

自分が今抱えている悩みに対して都合の良い宗教情報を求めて、いろんな宗教の良い所をつまみ食いしてしまうという事をしてしまいがちです。

しかし、それによってものすごく救われるようになるのかと言われれば、実はそうではないのです。

そもそも宗教というのは救いをもたらす一方で、ものすごい差別性、暴力性をはらんでいる側面があります。かつてのオウム真理教による地下鉄サリン事件がわかりやすい例だと思います。

そういう事が起こらないように、それぞれの宗教でそんな極端な事をさせないようにするための教義という名のリミッターが設けられています。

ところが、様々な宗教情報のつまみ食いをそれぞれのリミッターが効かなくなるというのです。

自分の都合の良い所だけつまみ食いしてリミッターが効かず、自分勝手な事になってしまうという事に対して警鐘を鳴らすとともに、

「歎異抄」というのは、そのリミッターを再確認するための書であるという事を釈先生は述べておられました。


糖質制限で言えば、よく「糖質制限は肉食べ放題」とか「お酒は止めなくていい」という都合の良い所だけ知るような姿勢が、

まさに釈先生の言う宗教のつまみ食いとその危うさに通じる話なのかなと私は思います。

本来なら「物語」、すなわち「意味の体系」に相当する糖質制限は、つまみ食いして理解するようなものではなく、なぜ糖質制限という発想が生まれたのか、その妥当性を生命の歴史から学ぶような視点を持てば真に人生を救う手段となりえますし、

そうやって理解していけば、自ら糖質制限のメリットを手放すような話には決してならないように思います。そうならないとすれば理解が足りないのか、もしくは理解していてもやむなしの事情があるかのどちらかではないかとさえ思います。

あるいは宗教が包含する凶暴性に関しては、糖質制限関連のあるグループが別のグループに対して排他的な姿勢をとったりしているという所にその話に通じる所を感じて時折悲しくなる事があります。

もともとは健康のために情報発信しているはずなのに、いつの間にかお金が絡んだり地位や権利に目がくらみ、そのグループ内に限定される情報として価値を高めていくような行為は本末転倒と感じざるをえません。

健康情報は誰もが公平にアクセスできるものであってしかるべきです。そうでなければ必ず歪みを生じます。

その事を私達は忘れてはならないように思います。


たがしゅう
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コメント

No title

2016/12/05(月) 09:17:01 | URL | EE #-
100分で名著はなかなか興味深い番組ですね。
>もともとは健康のために情報発信しているはずなのに、いつの間にかお金が絡んだり地位や権利に目がくらみ、そのグループ内に限定される情報として価値を高めていくような行為は本末転倒と感じざるをえません

深く同意します。
糖質制限はビジネスとして成り立たなければ大きな動きにはならないことは承知しています。
だが、ビジネス、つまり営利を得ることだけが一人歩きして本質が損なわれていないか、考え続けなくてはならないと思います。

群盲象を評す、という言葉があります。
>6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」

人間の身体について、代謝、常在菌、その他、実はまだよくわかっていないことだらけです。
我々は限られた分かっている知識の一部を、しかも自分がよく知っている部分だけにフォーカスして、様々な議論をしているわけです。
糖質制限は最近、宗教の宗派争いのごとく、様々な争いを見受けます。誰も全体像は把握できていない、みんな「盲」であることを時々思い出さなくてはならないのかもしれません。自分の知っていることはごく一部であることを認識する必要があると思います。見ている部分が違うだけで本質的には知りたいことは同じはずです。

Re: No title

2016/12/05(月) 18:50:44 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
EE さん

 コメント頂き有難うございます。

> 群盲象を評す、という言葉

 わかりやすい比喩ですね。

 私達は人間というものを一側面だけで捉えがちです。例えば、栄養や生化学だけで全てを説明しようとする姿勢もその一つと思います。わからないという状態が不安だから地に足ついた結論をすぐに求めてしまう心がそうさせてしまうのだと私は思います。

> 糖質制限は最近、宗教の宗派争いのごとく、様々な争いを見受けます。誰も全体像は把握できていない、みんな「盲」であることを時々思い出さなくてはならないのかもしれません。自分の知っていることはごく一部であることを認識する必要があると思います。見ている部分が違うだけで本質的には知りたいことは同じはずです

 同感です。わからない事と真摯に向き合い謙虚な姿勢で考え続けるべきと考えます。

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