安らかな死のための精巧なシステム

2020/02/20 10:25:00 | ふと思った事 | コメント:2件

今回は人の死について考えてみたいと思います。

死をタブー視する風潮は今の日本に根強いと思いますが、「縁起でも話をしよう会」などの活動からもそれではよくないとするムーブメントが生まれてきています。

私も死については事前にしっかりと考えておくべきという立場をとっています。しかもその検討は人生の中で何度も見直されてしかるべきだと思っています。

なぜなら人は心が変わりながら生きていくからです。あるときに決めた死との向き合い方が死ぬまでずっと同じであるとは限らないからです。

死は人生のタイムリミットでもありますので、タイムリミットを意識することで生きている時間を充実にさせる効果もあると思います。

ただ今回はとりわけ死の瞬間は辛いのかどうか、ということについて医師の目線から考えてみたいと思います。
死の起こり方は人それぞれ千差万別です。それこそ急にポックリと逝く方もおられれば、長い時間危篤状態を保ちながらゆっくりと息を引き取るという方もおられます。

小康状態を長く保ち、このまま長期戦になるかと思いきや急に病状が悪化することもあれば、もう絶対に無理だろうと思った所から奇跡の復活を遂げられるという方もおられます。

私も医師として多くの臨終の瞬間に立ち会ってきました。その上で少なくとも多くの患者に共通して言える事は「最後は食べられなくなってくる」ということです。

なぜ食べられなくなってくるのでしょうか。あるいは食べられさえすれば命を長らえることはできるのでしょうか。

時期にもよりますが、食べられない患者さんに強制的に栄養を送っても、あまりよい事はありません。

逆に食べられない患者さんをそのままにしておく、これは在宅医療の現場ではよく遭遇し、逆に病院医療の中ではまず遭遇できない場面なのですが、そのようにすると安らかに逝かれる方が多い印象を受けます。

これはなぜかと言いますと、一つの可能性として身体の防御反応、言い換えれば死の準備段階として強制絶食により血中ケトン体を優位にするという現象を身体が起こしているからではないかと思います。

もっと言えば、それは通常の糖質制限食でもたらされる程度の軽度の高ケトン血症ではなく、βエンドルフィンが出る程の強力なケトン産生です。

βエンドルフィンとはいわゆる快楽物質ですが、強力な鎮痛効果、多幸感などをもたらす効果があるとされています。

ランナーズハイなど極限の状況で生み出されるという話が有名ですが、実は断食も長期間行うと「断食ズハイ」とでもいうような状態がもたらされます。

この辺りのメカニズムについては当ブログでも以前解説したことがございますので、よければそちらも参考にして頂ければと思います。

つまりは人が死の領域に近づく時、残りの全機能をケトン体産生を通じた脳内幸福物質で満たすことに集中させ、

死の瞬間を幸福的に迎えられるようにするために備わったシステム、その結果として食べられなくなってきているのではないかと思います。

加えて脳の働きが沈静化されていけば、呼吸も深く浅くなっていきます。これを医学的には「チェーンストークス呼吸」と呼びますが、

このような換気量の少ない呼吸になってくると、体内に二酸化炭素がたまっていくようになります。

二酸化炭素がたまりすぎると意識障害をきたし、これを医学的には「CO2ナルコーシス」と呼ぶのですが、

意識障害と言うと怖い印象ですが、これは自然の麻酔がかかっていると考えると合理的です。

即ちそうする事によって穏やかに鎮静されていくため、その点においても穏やかな死を迎えることができるようになるということです。

さらに言えばケトン体には抗炎症作用がありますので、肺炎にしても敗血症にしても激しい炎症に見舞われる病態が死に至らしめる事となった場合であっても、

その大火事の状態を死の瞬間には最終的には鎮火するような形に持って行くことさえできるようになっています。

つくづく人間の身体はよく出来ているなぁと感心するわけですが、

逆に言えば、このシステムを邪魔するような事をしてしまうと、死が苦しくなりうるということになります。

例えば本人が食べられない状態にあるのに無理矢理食べさせる、食べられないからといって点滴で栄養を送る、その点滴内に大量の糖が含まれていればなおのことケトン体代謝を働かせることができなくなります。

もっと言えば、多大なストレスがかかる環境におかれればストレス反応に伴い糖代謝が駆動され続けることになるため、やはりせっかくのケトン体を利用するのが難しくなってしまいます。

せっかく見事に構築された死へスムーズに持ち込むためのシステムが邪魔されてしまうと死が痛く苦しいものとなってしまう、この邪魔というのはまさに病院医療で根こそぎ行われてしまっている事ではないでしょうか。

勿論例外的に脳卒中などで食べられなくなった原因が局所的な問題にあり、胃腸は栄養さえ送り込めば良好に機能するという状況の時は、人為的な手段で栄養を送り込めば再び生命を維持することは可能となりますが、

全身の機能が衰えて死の段階へ入ろうとする際にはなるべくその過程で身体の中で行われるプロセスを邪魔しないようにすることが本人にとって最善の死を迎えることにつながると私は考えています。

だから臨終の際にはなるべく点滴しない、無理に食べさせない、本人の希望する場で最後を過ごしてもらうという事が重要になってくるのです。


「在宅マジック」という言葉があります。

一般的には病院で余命あとわずかだと言われた患者さんが、在宅に帰ると余命より十分長く生きることができたという事例のすごさを表す言葉ですが、

在宅マジックは臨終の瞬間においても起こりうる現象です。おそらく安らかな死を迎えるための最適な環境は多くの人にとって自宅であることがほとんどで、多くのストレスが緩和されるためだと思います。

ただここで「本人が自宅に帰りたい」という気持ちがあるという事が重要です。そうでなければ必ずしも自宅に帰ることが抗ストレス効果をもたらさないからです。

冒頭の話につながってきますが、死の問題をタブー氏し続け、いざようやくその時になるまで死について考える事から逃避し続けてしまっていると、

身体の機能が衰えてゆとりもないような状況の時に下す判断はまず間違いなく「先生にお任せします」になることでしょう。

そして先生に任した結果、多くの場合訪れる結果は、病院で点滴につながれて、尿道にバルンという管が入れられたり、場合によってはそれ以外にも様々な医療機器につながれたりして、

俗に言う「スパゲティ症候群」と称される管だらけの状態で最期を迎える事になり、

その状況を心地よいと思う人はまずいないでしょうから、身体の中はストレスまみれで糖代謝が駆動され続け、

さらには糖を含む点滴によって二重に糖代謝が駆動され続け、もう十分に働けない細胞機能にムチを打ち続けることになってしまい、

死を安らかにするためのシステムが阻害されてしまって、より苦しく死の瞬間を迎えてしまうことへとつながってしまうのです。

人間は生まれた時から多くのケトン体に囲まれているということがわかっています。

「ゆりかごから墓場までケトン体」、その恩恵を受けられるようにするためには、

余計な人為を加えないことは勿論、自分がどのような人生を送りたいか、最期の瞬間をどのように過ごしたいか、

そのことを主体的に考えているということが非常に重要なことだと私は思います。


たがしゅう
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コメント

No title

2020/02/20(木) 19:48:19 | URL | こたろう #-
私はずっと以前にコメントさせていただいたことのある「こたろう」と申します。もしかしたら覚えていてくださったでしょうか。

死の直前にケトン体が強力に産生されることは、私も実際にあると思います。以前、私が大怪我をした時の翌朝に、高血糖&高ケトンという通常とは全く違う珍しいパターンになっていたからです。あたかも痛んだ身体をケトンが緊急に保護しているかのようでした。

私の妻はヘルペス脳炎で他界したので、苦しまずに逝けたのかどうかずっと気がかりでした。でもたぶん多幸感に包まれ、まばゆい光を見ながら旅立てたことでしょう。

とても良い記事を書いてくださって本当にありがとうございました。

Re: No title

2020/02/21(金) 06:16:28 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
こたろう さん

 コメント頂き有難うございます。
 もちろん、覚えてございます。いつもブログ勉強させて頂いております。
 
> 以前、私が大怪我をした時の翌朝に、高血糖&高ケトンという通常とは全く違う珍しいパターンになっていたからです。あたかも痛んだ身体をケトンが緊急に保護しているかのようでした。

 確かにそれは普段のこたろうさんの状態から考えると臨時応答の印象がありますね。
 著しい身体ストレスを緩和しようとケトン体産生が急峻に促されていたのではないかと考えることができます。

 奥様はきっと幸せに逝かれたのではないかとお察しします。こたろうさんの奥様なのですから、間違いないと思います。

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