いつもと違うことはいつもの状態から生まれる

2023/01/02 06:00:00 | 普段の診療より | コメント:0件

NHK Eテレの100分de名著の2022年12月は「中井久夫スペシャル」、

精神科医の中井久夫先生の名著を、オープンダイアローグの第一人者で同じく精神科医の斎藤環先生が解説するという内容でした。

その最後の回で取り上げられた「戦争と平和 ある観察」という本の中で、中井先生が次のような言葉を書かれていました。

”戦争は過程、平和は状態である”

つまり戦争は始まりと終わりがはっきりしていて比較的語りやすいものであるけれど、

平和はどこからどこまでがそうなのかがはっきりせず、多面的で、名づけがたく、語りにくく、つかみどころがないものなのだというのです。

そして平和を維持するためには、ある時だけ頑張って努力をすれば成し遂げられるようなものではなく、地道な努力を継続的に続けていかないと達成できないものだと指摘されるのです。 私は少し前の記事で、「病気」を戦争にたとえて表現したことがありました。

上述の中井先生の言葉に当てはめれば、「病気」は「戦争」のように始まりと終わりがはっきりしているものでしょうか。

例えば「高血圧症」というのは「病気」の一つとして扱われていると思いますが、これの始まりと終わりはあまりはっきりしていないように思えます。

となれば「病気」を「戦争」とたとえること自体が間違っているということになるのでしょうか。

ここで、私は一人の患者さんとのエピソードを思い出しました(事実に基づいていますが、個人情報保護の観点で一部をフィクション化します)。

60代の女性で私の「主体的医療」の考えをよく理解して下さっている方です。

私のオンライン診療を時々受けられて、自分の健康管理はうまくいっているかをその都度確認されるようにしています。

もしも自分ががんになった時にはたがしゅう先生のように、標準治療には頼らずに自分の食事とストレスを見直して向き合っていくようにしたいと言ってくれている方でした。

その方がある日、血便が出たということでびっくりされて私にオンライン診療を申し込まれます。

その患者さんは不安でいっぱいの様子で私に質問を投げかけます。「先生、どうしたらいいでしょうか。何が考えられますでしょうか」と。

私は血便が出るという状況に加えて、日頃から便が細くなっているという情報を聞き出しました。

血便、すなわち便に血が混じるというだけだと、大腸ポリープからの出血、大腸に起こった炎症、あるいは単純に痔からの出血など様々な可能性が考えられます。

しかし「いつも便が細くなる」という情報を合わせて血便を考えますと、私の中では大腸がんの可能性が高くなってきます。

なぜならば1回や2回であればまだしもいつも便が細いということは、大腸の一部に持続的に狭くなっているところがあるということであり、大腸壁の肥厚が示唆され、その肥厚した部分にがんがある可能性が想定できるからです。

「どうしたらいいですか?」と問われた私は、思わず「正直言って大腸がんの可能性も考えられると思います」と答えました。

しかし結果的にこの返答によって患者さんの中の不安は大きくなってしまったように私には思えました。

日頃、がんというものは自分の状態を反映した細胞の姿であって、大きくなるも小さくなるも自分の身体(栄養など)と精神(ストレスなど)の在り方次第だという私の考えを理解してくれているはずの患者さんが、

血便と私の言葉をきっかけに冷静さを失い、普通に病院で診てもらうことを迷われるようになりました。

結局、私は食事とストレスマネジメントで様子を見る方針と、不安が抑えきれない場合は病院で診てもらうという方針との2つを患者さんに提案し、患者さん自身に選択してもらうよう促しました。

その提案も患者さんの不安を増幅させてしまったかもしれません。結果的にはもやもやが取れない様子でオンライン診療を終えることになってしまいました。


このエピソードを振り返り、冒頭の言葉をもう一度考えてみます。「病気」には始まりと終わりがはっきりしているのかどうか。

私は血便が起こり、治るまでの過程であれば、始まりと終わりがはっきりしているのではないかと思いました。

つまり「戦争は過程」という言葉と照らし合わせた場合の「病気」は、非日常的状態だということができるかもしれません。

一方で「戦争は過程」の「戦争」に「病気(非日常的状態)」が対応するのだとすれば、「平和は状態」の「平和」に対応する言葉は何でしょうか。

「病気」が当てはまるのであれば、対応する言葉は「健康」でしょうか。普通に考えればそう思うかもしれません。

しかし先ほどの高血圧を考えてみましょう。これは始まりと終わりのはっきりしない、日常的な「状態」でしょう。

一方で「高血圧症」や「糖尿病」などの生活習慣病と呼ばれる病気も皆、「状態」と言っていい「病気」だと思いますし、こうした「状態」的な病気が重なって日常的なものになると、

脳卒中や心筋梗塞などの突発的な「病気」の発症につながることはよく知られています。

すなわち、「病気(非日常的状態)」の土台には「病気(日常的状態)」があるという構造になっているのではないかと思うのです。

つまり「平和」に相当する言葉は「健康」から「病気(日常的状態)」までをも含んだ概念、

言い換えれば、「健康」という言葉と「病気(日常的状態)」という言葉には連続性がある、とも言えると思うのです。


「血便」という「病気(非日常的状態)」は全くの「健康」の状態から発生するわけではないでしょう。

最初は「健康」と呼べる状態だったかもしれないけれど、それが何らかの要因が1つ2つと加わっていくことによって、

次第に「健康」から「病気(日常的状態)」と呼ばれる状態へとグラデーションで変わっていきます。

そしていつの間にか「病気(日常的状態)」という「状態」になっていたある日、突然「血便」のような「病気(非日常的状態)」が起こるということです。

これは「平和」と「前戦争状態」に連続性があって、気づかないうちに「平和」ではなく「前戦争状態」になっていたある日、突然「戦争」が勃発することと共通構造を持っているように思います。

もっと一般化して言うならば、「いつもと違うことはいつもの状態から生み出される」ということになるでしょうか。


もう一度60代女性のエピソードに立ち返ってみます。

彼女にとっての「血便」のエピソードは、間違いなく「いつもと違う状態(非日常的状態)」だったと思います。

始まりがあって終わりもある「過程」、どこからどこまでがはっきりしている比較的語りやすい現象です。

これが青天の霹靂のように感じられたからこそ、それまで冷静に考えていたはずの思考は一気に吹き飛んで不安の嵐の中に飲み込まれたのではないかと思いますが、

この「いつもと違う状態(非日常的状態)」が起こる背景に、必ず「いつもの状態」が関わっているとするのであれば、

その「いつもの状態」を「平和」や「健康」と捉えているのか、それとも「病気(日常的状態)」や「前戦争状態」だと捉えているかでその後の反応は全く変わってくるでしょう。

「いつもの状態」と「いつもではない状態」の連続性が感じられなくなっていると、「いつもではない状態」が出現した時に驚き、戸惑い、どうしていいかわからないパニックの状態になってしまうのだと思います。

ところが「いつもの状態」と「いつもではない状態」に連続性があると思えている時は、

同じ「いつもではない状態」に遭遇した場合でも、「いつもの状態」をより好ましい状態にするための努力の仕方に改善の余地があるかもしれないという気づきにつながるきっかけにもなる
かもしれません。

私は常日頃から病気や症状は自分を苦しめる悪の存在ではなく、自分の身体や精神の状態を反映したメッセージの形だと思っています。

言わば身体からのメッセージが小さい「健康(無症状)的状態」と、身体からのメッセージが大きい「病気(有症状)的状態」との間には連続性がある、ということの表れであって、

この連続性を理解していないと、私の「がんになったら食事とストレスを見直す」という治療方針に賛同している人であっても、

「血便」のような非日常的な有症状的状態の「過程」が起こってきたら、まるで「平和」だった生活にいきなり「戦争」が起こったかのようなパニックに感じられるのかもしれないと思いました。


ひるがえって日本は今、「平和」な状態でしょうか。

突然の「血便」のように、突然「戦争」が起こるようなことは起こらないと言い切れるでしょうか。

本当に「平和」なのでしょうか。あるいはいつの間にか「前戦争状態」に陥ってしまってはいないでしょうか。

もしそうだとしたら「戦争」を防ぐために私たちにできることはないでしょうか。

「前戦争状態」から「平和」へと近づけていくために、私たちに何かできることはないのでしょうか。このまま指をくわえて「戦争」に突入するしか方法はないでしょうか。

私は「戦争」に突入しないためにできる地道な努力はきっとあると思います。

しかし少なくともそれは短期間だけ頑張ったら達成できるようなわかりやすい行為ではなく、

もっと地道で継続的に働きかけ続けなければならない何かであろうと思います。

「血便」という「過程」についてもきっと同じことが言えるのではないでしょうか。


たがしゅう
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