「安楽死」を望む主体性とどう向き合うべきか

2022/02/10 11:50:00 | 主体的医療 | コメント:2件

救急疾患はともかく、長く患っている慢性疾患において医者の言いなりになっていても病気から卒業できることはまずないし、

真綿で首を絞められるようにジリジリと病状は悪化していくし、患者さんもそれに気づかないまま最終的にはろくなことにならないという構造が現代医療の中には厳然としてあるということに気づき、

コロナ禍の医療界の混乱ぶりを見て、その想いはさらに強くなり、この構造に巻き込まれないようにするためにも、

「病気とは自分自身の表現型であり、自分自身の行いや考えを改めること以外の方法で病気を根本的に整えることは不可能である」という考えで医療全体を捉え直す「主体的医療」の普及に向けて、私は決意を新たにしたところです。

主体的医療」の中では、「お医者様にお任せ」の考えを非推奨とし、患者さんがどう考えてどう行動するかという主体性を何よりも重視します。ただ「お医者様にお任せ」という方向に主体性を発揮する人がたくさんいることもまた紛れもない事実なので、その人達のために従来型医療は今後も残すべきであろうとは思っています。

主体的医療」では、本人のあらゆるニーズに寄り添い、表面的なニーズだけに捉われず、「対話」を通じて本人の深層的なニーズを捉え、それを叶えるためにどうすればいいかを従来の医療概念に捉われない発想で医療者が支え、そのための方法を一緒に考え続けます。

その「主体的医療」の患者さんがどのような選択をしたとしてもその主体性を尊重するという立場に立った時に、どうしても避けては通れない、前もって十分に考えておくべき問題があることに気づきました。

それは安楽死の問題です。 患者さんのどんな主体性も認めるというのであれば、患者さんが「死にたい」と主体性を発揮した時にも、それを支えないといけないという話になってしまいます。

ただ同じ「死にたい」という希望を表出した場合であっても、それが表層的なニーズなのか、深層的なニーズなのか、という点はまず考慮しなければなりません。

おそらくは多くの自殺には表層的な「死にたい」というニーズによって衝動的に突き動かされはしたものの、深層的には「死にたい」わけではなく、「こんなにも自分が辛く感じる世の中が許せない」というようなニーズがあったというケースがたくさん含まれているのではないかと思います。

この場合は「主体的医療」でなすべきことは、「死にたい」を支えることではなく、「許せない」という気持ちに寄り添い、支えることだと思うのです。

こうしたケースでは、身体は元気であることが多い(自殺行動を実行できるほどの身体能力がある)と思います。だからこそ深層ニーズに寄り添い、心を整えることができれば「死にたい」という表層的ニーズを変更して再び人生の一歩を踏み出すことは十分に可能です。

ところが同じ「死にたい」という希望を表出する場合であっても、病気や加齢を理由に身体が非常に不自由であると、それに伴い生きているだけで肉体的な苦痛を感じ続けるという状況も可能性としてはあり得ると思います。

その場合、表層的なニーズは「死にたい」で、深層的なニーズは「人為的な死でも構わないからこの避け難い身体的な苦痛から早く解放されたい」であり、つまり深層的にも本当に「死ぬ」ということを希望されていることになります。

ただその痛みなのか、息苦しさなのか、身体が動かないことなのか、その種類が何であるにしても、自分のこれまでのシステムの過剰適応的使用が反映された表現型であり、もしも自分がその立場なら最後の最後まで過剰適応の要素を最小化するように整えて、整えきれない部分は医療の緩和ケア技術を利用し、人為的に死亡させるという選択は取らないと思いますが、

誰もがそのように考えられるとは限りませんし、その緩和ケア技術の利用の延長線上に安楽死を促す処置を施すという行為が含まれているようにも思いますので、

本人が表層だけでなく深層的に「死亡」を希望した場合には、その主体性に「主体的医療」は答える必要があるように私は思います。

さもないと、「安楽死であろうと人為的な死は良くない」と一方的に固定的な価値観を押し付けてしまうと、それまでいかに理想の「主体的医療」が展開できていたとしても、最後の最後に患者の主体性を踏みにじってしまう愚行にもなりかねません。

ただ少なくとも今の日本の中では「安楽死」は法律で認められていません。認められていない以上は、たとえ患者さんの深層的に安楽死を希望していたとしても、医師がそれを援助すれば医師は法律に従って処罰されることになってしまいます。

従って残念ながら、今の日本社会の中では「死にたい」という患者さんのニーズにだけはいかに「主体的医療」の中でも応えることはできないということになると思います。このニーズには医療用麻薬等を徹底的に用いてせめて身体的苦痛を可能な限り取り去ったり、延命処置につながりうる行為は一切行わないということで代用していくしかないと私は考えています。

ただ逆に言えば、深層的にも「死にたい」と願っている患者さんがそのニーズに至った理由は身体的苦痛であるわけだから、医療がその身体的苦痛をとることに成功できれば、「死にたい」という深層的ニーズが変わる可能性はあるかもしれません。

そう考えると「死ぬ」というニーズの背景には、表層的であろうと深層的であろうと「死ぬ」以外のニーズが隠れていることがあるということは肝に銘じておく必要がありそうです。

なぜならば、「死ぬ」という行為は不可逆的であり、もし判断が間違っていたとしても取り返しがつきません。また誰一人「死ぬ」という経験を持ち帰って語ることができた人は人類史上一人もいないので、「死ぬ」という行為が深層的な希望だとどれだけ豪語していた人であっても、実際に死んでみたら希望とは全然違ったということもあり得ます(そんなことを感じることもできないのかもしれませんが、死ぬ直前に後悔を感じる可能性はゼロではないかもしれません)。

言わば「主体的医療」の中でも「死ぬ」というのは万策尽き果てた際の究極の選択であり、可能な限りそれ以外の方法で代用したり、調整したりすることができないかを検討すべき選択肢だと私は考える次第です。

もし現状で、どうしても「死ぬ」以外の選択肢を考えられないという人から私が相談を受けたとしたら、本当に「死ぬ」以外の選択肢がないかどうか、まずは「対話」をさせて欲しいと持ちかけると思います。

その「対話」の中で、万策尽き果てているという状況に私が心底納得できた場合は、日本では無理なのでオランダ、ドイツ、ベルギーなど「安楽死」が法律で認められている国への移住とともに医療機関への調整をサポートさせて頂く行動をとるしかないかもしれません。

ただここで思い返すのは「対話の目的は対話を続けることである」というオープンダイアローグの原則です。

もしも私が「対話」的に「死にたい」という患者さんのニーズに寄り添い、「対話」を続けた結果、「死ぬ」という決断を理解しそれを支援することになれば、それは同時に「対話の終了」を意味することにもなるように思えます。

勿論、人はいつか必ず死ぬ生き物なので、望む望まざるに関わらず「死」の瞬間は訪れるものです。その瞬間が訪れた時点で「対話」は強制的に終了となります。

しかしその「死」が自然に訪れたのか、人為的にもたらしたのかでは、「対話」における意味はまるで違って来るように思えるのです。

人為的に死をもたらした場合、そこには「もう対話は行わない」という明確な意志が存在しますので、それこそ永遠の分断を意味する行為になると思いますが、

もしも自然な形で死が訪れて対話が終了したのであれば、そこに「対話を行わない」という相手の意思は存在しません。

もっと言えば、死んだ後であっても、生きている人の中で死んだ人のことを思って「対話」を続けることも可能ではないかとさえ思えます。

私はかねてより本を読むことが好きで、読書という行為は非常に対話的だと感じていました。決して相手から直接的に価値観を押し付けられたりすることがないですし、相手にペースを乱されることなく自分の考えを表出することもできます。

一方でテレビやネットの動画などは押し付けられたりはないものの、何かペースを乱される感じがあるというか、動画のペースに自分がついていけないと理解が乏しくなったりする感じがあって、

なんとなく流されて見てはしまうものの、対話的な感じではないなという風にも感じていました。

死んだ人に思いを馳せて、その人のことを考えたり、その人が言っていた言葉から思考を深めていく行為は非常に「対話」的であるように私は感じます。

そういう意味では「対話」は自分で中断しようと思わない限り、たとえ死が二人を分かつとも「対話」は続けていけるものなのかもしれません


実はもう一つ、「安楽死」については考えてみたいことがあります。

それは、過去に「安楽死」を行ったことによって罪に問われた日本の判例についてです。

ネットで見つけたある判例を読んだ時、私は衝撃を受けました。

なぜならば、これは医者であればひょんなことで誰にでも起こりうることだと感じられたからです。

なぜこのケースが訴訟にまで発展してしまったのか、そしてどうすればこのような悲劇を繰り返さないようにできるのか、

次回はその問題について考えてみたいと思います。


たがしゅう
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コメント

2022/02/13(日) 18:26:16 | URL | タヌパパ #-
 私の父親が3回目の脳梗塞で倒れた時、先生が言われました。「脳の三分の一しか血が流れていません。死ぬ事は有りませんが、話をしたり動くことは、もう出来ないと思います。」
 更に「このままだと誤嚥性肺炎を起こして亡くなられる可能性が高いです。」間をおいて「抗生剤を打てば生き続けられますが、打ちますか。」と言われました。
 断りました。良い先生に恵まれたと、家族一同感謝しています。
 

Re: タイトルなし

2022/02/17(木) 09:30:06 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
タヌパパ さん

 コメント頂き有難うございます。

 ご家族が望まれる本人の推定的意思を担当の先生が尊重して下さったのですね。何よりです。

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