安保徹先生との対話〜後編〜

2022/01/13 12:30:01 | 偉人に学ぶ | コメント:0件

免疫学者、故・安保徹先生が残された言葉との対話を続けていますが、

最後は「薬」というものとの付き合い方について考えてみたいと思います。

折しも昨年11月末に、私も「薬とは何なのかを徹底的に考えるオンラインセミナー」を開き、「薬」については持論があります。

安保先生はこの辺りのところをどのように考えておられるのでしょうか。

今回も相手との違いを感じ、その考えを尊重しつつ、自分の中で生まれる変化を大切に、「対話」をしていきたいと思います。

今、このコロナ時代だからこそ意味の感じられる「対話」にさえ思えます。それでは参りましょう。

● 体が血流障害を治そうとして、血流がおしかけるときに痛みがでます。それを痛みどめで常に止めていると、血流障害によって、顆粒球増多が起こり、発ガンが促されます

血流を止めれば、炎症反応が止まる、これが消炎鎮痛剤のしくみです。これは、病気の治癒による消炎とはまったく違います。
 
● 痛み止め( 消炎鎮痛剤 )は、血管を閉じ、血流を止めます。全身の血流が悪くなり、血管がたえず絞られた状態になり 血圧も上がり、動脈硬化も進行します。組織破壊が繰り返され、細胞のガン化が促進されます。ガンが見つかったら、発ガンした場所に血流が増えるようにするべきだと思います。

現代医療は、症状を、徹底的に薬で取り去るという方向に進んできました。しかし、じつは苦しい症状こそが、治癒のために必要なプロセスだったのです。

● 例えば、痛む、熱をもつ、腫れ上がる、発疹がでる、こういう症状は、じつに不快です。しかし、その症状こそ、患部に 血流を送って治そうとしている、体の治癒反応なのです。

熱があるから、痛みがあるからこそ、治癒に向かうのです。それゆえ、対症療法は、ほんとうの治癒をもたらさないのです。その結果、病を慢性化させてしまいます

消炎鎮痛剤とステロイド剤を、病気治療に使い続けてはいけません。血流障害を起こし 組織破壊を促す「 病をつくる薬 」の代表格です。

● 患者さんはいったん楽にはなりますが、治癒反応を抑えられ、病気の治りは悪くなり、さらに薬を足すという悪循環が始まります。

● 例えば、潰瘍性大腸炎で現れる下痢や腹痛は治癒反応ですが、どこの医療機関で受けても、消炎鎮痛剤とステロイド剤によって、この治癒反応は完全に止められてしまいます。



ほとんどの病気に関わっていると言っても過言ではない「炎症」という生理現象は、「破壊」と「再生」の両方の側面があります。

現代医療はこの「炎症」に対して「破壊」のニュアンスで捉えすぎている側面があります。

だからこそ、この「破壊」を食い止めようと「消炎鎮痛剤」や「ステロイド剤」などと言った「抗炎症薬」が現代医療の中で開発され発展されてきた流れがあると思います。

一方で「炎症増強剤」という薬は現代医療にはありません。強いて言えば、漢方薬には温めたり、発汗を促進したりすることで炎症を促進させるような薬がありますが、「炎症増強剤」という認識では使われていないと思います。

他方もしも「炎症増強剤」という薬が存在したら、医療の中で積極的に使われるかと言われたらおそらくそれはないでしょう。なぜならば「炎症」は多くの人に辛く苦しい感覚をもたらすからです。

この「辛い」「苦しい」という感覚があるからこそ、「抗炎症薬」が治療として広く受け入れられているということなのでしょうけれど、

安保先生はこの状況に対して、「炎症」が持つ「再生」の側面に光を当てておられます。

そしてつつがなく「再生」を完了させるために「血流」が重要であり、「血流」を滞りなく再開させる過程の中で、「辛さ」や「苦しさ」は必要なプロセスであるということを安保先生は指摘されています。

確かに「破壊」だけではなく、「再生」の側面を意識しておくことは非常に大事なことです。私も常日頃患者さんに対して、例えば風邪を引いて出て来る発熱などの一連の症状に対して「身体に感謝する」という視点を持つことを勧めています。

それは部活での厳しいトレーニングを単なる拷問と思うか、指導者からの愛情と思うかの違いに似ているかもしれません。その場で起こっている現象そのものは同じかもしれませんが、受け止め方が変わるとその後の結果に与える影響が変わってくるように思います。

とは言え、「炎症」というものを完全に「再生」だと捉えることもまたバランスを欠いています。

例えば、サイトカインストームと呼ばれるウイルス感染症の最重症型は、自分の身体が死亡するところまで「炎症」が止められなくなっている状態です。「死亡」を新たな生命への「再生」と受け止められなくもないですが、個人の人生においてこの状況を「再生」と受け止めるのには無理があるでしょう。この状況であれば「炎症」は「破壊」と受け止めるのが自然です。

逆に言えば、「炎症」のそういう側面ばかりを見ている人間にとって、「炎症」「破壊」以外の何者でもないという見方になったとしても不思議ではありません。でも実際は、「破壊」の側面と「再生」の側面と両方があるということを知っておく意義は大きいのではないかと私は感じています。

安保先生は「炎症」を「再生」だと受け止めているからこそ、消炎鎮痛剤やステロイド剤を「破壊薬」だと断じていると思います。一方で現代医療のメインストリームは「炎症」を「破壊」だと受け止めているからこそ、これらの薬を「治療薬」だと捉えているところがあると思います。

私はどちらの視点も重要だと思いますし、どちらにも偏り過ぎてはいけないのだろうと思っています。

きっぱりと「こうしなさい!」と言われたらすっきりするのでしょうけれど、そうはうまくいかないのが人生だと思います。

● 本来、治癒反応を促す治療を行っていれば治る病気も、対症療法を続けることで難治化し、本格的な難病になっていきます。

● 難病に指定されている病気は、医療が難病にしてしまったものが少なくありません。

● 病気を治したいと願うならば、薬の常用をやめることが大切です。

● 熱、痛み、下痢、吐き気、だるさ、などの様々な不快症状は、すべて体が自ら治ろうとする治癒反応であり、悪者ではありません。
  
体が治ろうとするときには、副交感神経優位になり血管を開き、血流を増やして傷ついた組織を修復します。

痛みや熱、腫れ、などの症状は、血流が増え、組織を修復する際に生じるもので、この苦しい修復プロセスを通り抜けた先に、治癒というゴールが待っています。

● 病気を治すには、治癒反応を応援してあげればいいのです。血流を止める消炎鎮痛剤やステロイド剤を使わないようにすること。痛くても、できる範囲で動かして血流を促すこと。下痢は止めず水分を十分にとること。このような方法で、やがて体は治っていきます。

● 病気によっては、かなり苦しいこともあります。血流がふえるほど、痛み、かゆみ、炎症などが強くなるからです。治癒反応があまり強くて耐え難い場合には、症状の2~3割を取る程度に薬を使ってしのぐのはやむおえません。症状が和らいだら、また体が治る反応を助けてあげてください。

● ありがたいことに、いったん障害を受けても、私たちの組織は血流さえ送りこまれれば、修復されるようにできています。

痛みが起こる原因は、そもそも血流障害です。消炎鎮痛剤で血流障害はさらに悪化します。薬をやめると、体は血流を再開させるために血管を開きます。また痛みがぶり返して、いたちごっこになります。

● 消炎鎮痛剤を常用している人は、血流が途絶えてしまうために、高血圧、耳鳴り、めまい、頭痛、腰痛を併発している人が少なくありません。
 
長期使用に伴って組織破壊が進みます。
 
交感神経緊張により、血糖値を上昇させるグルカゴンの分泌を促します。また、インスリンを分泌する膵臓のランゲルハンス島を破壊します。

骨盤内の血流が悪くなり、子宮内膜症や卵巣嚢腫にかかりやすくなります。
 
慢性的な血流障害によって、体のあちこちに痛みが生じるようになります。
 
● その結果、高血圧、糖尿病、不眠症、便秘、頭痛など、新たな病気が上乗せされます。
 
● そのたびに医師は、降圧剤、経口糖尿薬、睡眠薬などの薬を処方します。薬漬け医療のはじまりです。
 
湿布薬、内服薬、座薬といろいろありますが、どれもまったく同じことが起こります。



以前、難病とは何なのかについてじっくり考えたことがあります。

その時、私は「原因は何にせよ自分でストレスをマネジメントできなくなった状態こそが難病だ」という結論に到達しました。

一方で稀ながら存在している難病を克服する方々のメンタリティについても考察したことがあります。

その時に「症状(病気)に感謝する気持ちが重要だ」という視点に気づきました。

辛くて苦しい症状や病気に感謝するだなんて、まして難病に感謝をするなんてありえないと思われる人がほとんどなのかもしれません。きれいごとのように感じてしまう人もいることでしょう。

ただここにおける安保先生のコメントは、なぜ症状(病気)に感謝した方がいいのかを心の底から理解できる手助けになるのではないでしょうか。

他人から「感謝しなさい」と言われて無理矢理する感謝は、本当の「感謝」ではないはずです。

「感謝」という境地に至るためには、なぜ有り難いと感じるのかについて自分の頭で主体的に考えることが必要不可欠なのではないでしょうか。

逆に言えば、自分の頭で考えることを放棄し、

「症状や病気は自分を苦しめる取りのぞくべき相手だ」という常識的価値観に縛られて、

それらを抑える作業を、自分の手で行うのでもなく、薬の力を借りて抑えてもらうという作業を繰り返し続けることが、

もはやどうしようもないほどに自分の頭で考える力を失わせ、身体は誰のコントロールを受けることもなく暴走し続けていく・・・

これこそが「難病」と呼ばれるものの構造であるように私は感じられます。


あらゆる病気からの治療は「薬」を使い続けたその先にあるわけでは決してなく、

いかに「薬」というものから離れていくかというところにあるという点について私は完全に同意します。

一方で「薬」というものを一切使わない医療にも強い違和感を感じるところです。

安保先生はそこについて、「症状の2~3割を取る程度に薬を使ってしのぐのはやむおえません」とおっしゃっています。

ここはすべての問題を自力で解決しようと躍起になるのではなく、時には他人の力を借りて問題を克服してもよいという構造に通じるものがあります。

他人の力を借りること自体が悪なのではないはずです。けれどいつまでも他人の力を借り続けることには歪みを生じてくると思います。

例えば、薬を使うという行為を、親がこどもを助けるという行為とリンクして考えてみます。

こどもは無限の可能性を持つと言われていますが、最初からすべてを自分でできるわけではありません。

そうした時に親が手を貸すことで困難を乗り越えられる場面が出てきます。その経験からこどもは学び、次同じようなことに遭遇した時には自分一人で対処することができるようになるかもしれません。

しかしそれにも関わらず親がこどもをずっと手伝いつづければ、こどもはその楽に甘んじて自分の力で問題を克服しようとする力をいつまでも成長させなくなってしまうかもしれません。

ここに薬を使う行為を当てはめれば、安保先生のおっしゃる「症状の2~3割を取る程度」という塩梅は、非常にバランスが取れているように思えます。

なぜならば親がこどもの可能性を信じているからこそ7〜8割を自力で何とかさせようという余地を残している、と思えるからです。



● 消炎鎮痛剤よりさらに血流を止める力、消炎作用が強いのがステロイド剤です。

ステロイド剤の組成はコレステロールと同じものです。コレステロールは血管の内側に付着し、蓄積してくると、酸化コレステロールに変化し、動脈硬化の原因になります。ただし、酸化する前の新鮮なコレステロールは、ホルモンや細胞の膜をつくる材料として、欠かせない脂質です。
 
ステロイド剤を使い続けると、体に蓄積され、酸化コレステロールに変化して、組織を酸化し、組織破壊が進行して悪化の一途をたどります。

ステロイド剤の常用は、新たな病気を上乗せします。頻脈になり不安感が増すようになります。血糖値が上がり糖尿病を発症します。組織破壊が進むと、体のあちこちに痛みが生じます。
  
● そのたびに降圧剤、精神安定剤、経口糖尿薬、消炎鎮痛剤が加わり、薬漬けから逃れられなくなります

医師の多くは、ステロイド剤を使うことが治癒反応を止めて病気を難治化させ、新たな病気を生み出しているという認識がありません

アレルギー反応は、抗原や汚染物質を体外に排泄するために、体が必要にせまられて起こしている反応です。発熱、炎症、かゆみ、発疹など、さまざまな不快症状が現れます。目的は血流をふやし、有害物質を排泄することにあります。

● 膠原病でも、リンパ球とウィルスが闘って、破壊された組織を修復するために、炎症を「わざわざ」起こします。リンパ球による炎症反応はつらい症状となって現れますが、そこを通り抜けないと体は治ってくれません。

体が治る反応を、ステロイド剤で止めてはいけないのです。

治癒とは逆行する方向で消炎していることが、危険だといっているのです。
 
多くの医師はステロイド剤や消炎鎮痛剤の害を軽視しています。




ここでは話を「ステロイド」にしぼります。

「ステロイド」と言えば、当ブログでもしばしば取り上げていますが、まず「薬」以前に自分の身体で作られているホルモンでもあるという前提を忘れないようにしておく必要があります。

逆に言えば、「薬」としての「ステロイド」はそのもともと人体に存在している「ステロイド」の構造を元に作られているところがあります。

もともとの「ステロイド」は、ストレスがかかった時に放出されるコルチゾールやアルドステロンといった「抗ストレスホルモン」であったり、

男性・女性の性別の特徴形成に関わる「性ホルモン」であったり、脂質の消化吸収に重要な役割を果たす「胆汁酸」であったり、

その材料をコレステロールとし、人体の様々な主要システムに関わっている物質の総称です。

この「ステロイド」を「薬」として認識した際に一般的には、強力な「抗炎症作用」を持っていると同時に、長期的に連用していると副作用が蓄積されてくる諸刃の剣のような存在として認識されています。

主として慢性炎症性疾患、具体的にはアレルギー性疾患、自己免疫疾患、炎症性腸疾患などの難病の治療に対して長期連用されてしまうことが多いわけですが、

それはステロイドを使用しないとその炎症が治まらないからであって、それ以外に方法がないために結果的に連用せざるを得ない状況にせざるを得ないというのが医療者側の「ステロイド剤」への一般的な感覚だと思います。

けれど安保先生はそこに「ステロイド剤こそが病気を作り出している」と切り込んでおられるのですね。

先ほどの親が行うこどもへの支援のたとえで言えば、親がこどもが働かなくて済むように無期限で大金を送り続けて支援しているような状況に近いでしょうか。

期限付きで「ここから先は自分の力で」という前提があれば、自分で頑張ろうという意図は立ち上がるかもしれませんが、

無期限ともなれば、いつまででも怠けて頑張ろうと思わないであろうことは想像に難くなりません。このように自分で克服しようという意志の消えた状態こそが病気だと安保先生は示しておられるように感じます。

大事なことはそれにかまけないこと。そうやって強力に支援してもらっているからこそできることを、その期間に一生懸命行って、支援期間が終わった後に自力で頑張れるようにするための糧とすること、ではないかと思うのです。

ステロイド不使用の治療方針を掲げられている医師も稀ながら見受けられますが、それはある意味で自分で働けということを強く促しているスパルタ教育精神に通じるところがあるのかもしれません。

けれど私は「ステロイド剤」がいつ何時も病気の素となり使うべきではない「薬」とまでは思いません

自立に向けて、強力な支援が必要となる時期はあって然るべきだと思います。

人生で困難を感じ、それを自力では克服できない時に「ステロイド」の力を借りることがあってもいいと思います。

大事なことは、それは一時的なサポートであるということをわきまえて使うこと、その問題を克服できるように自分の頭で考えて決断をすることだと私は思います。

二度と同じストレスに巻き込まれないようにするためには、自分が成長することや考え方を変えることが必要不可欠です。さもないと「ステロイド」という名の親の援助から抜けることはできません。


● 高血圧の治療薬で私が危惧しているのは、降圧利尿剤の害です。利尿剤は体から水分を搾り取る作用があります。脱水で血液量を減らして血圧を下げることに成功しても、脱水で血液はドロドロになり、血液が流れなくなってしまいます。

利尿剤による脱水は、全身で循環障害を起こします。目では房水の排出がうまくいかなくなり、眼圧が上昇し、緑内障を発症します。血液の濾過や尿の産生ができなくなり、腎不全が起こります。

● 実は腎臓病でも、緑内障でも利尿剤が使われています。いずれの病気も、利尿剤によって循環障害がつくられ、
▪️緑内障➡腎臓病
▪️高血圧➡緑内障
▪️腎臓病➡高血圧

といった具合に、新たな病気が上乗せされてしまいます。
 
● 私の母は、緑内障の点眼薬( 利尿剤 )をやめたら、目のかすみが完全になくなり、調子がよくなって、驚いていました。点眼薬で水分を搾り取られて循環障害を起こし、見る機能が低下していたのです。

腎機能低下の患者に、利尿剤を投与することも問題です。尿を出すには、血行を良くする必要があるのです。それを、利尿剤で化学的に腎臓を働かせようとすると、腎機能が壊されていきます
 
利尿剤 ➡ 脱水 ➡ 血液粘性上昇➡ 血流障害 ➡ 頻脈 ➡ 顆粒球増多 ➡ 腎障害
 
の図式が見えます。
 
 
● 利尿剤は多くの病気に使われています。利尿剤を服用した患者は、激しい喉の渇きと体調不良を訴えます。渇きが強いのに、身体は水を十分に吸収できなくなってしまいます。そして破綻していくのです。

患者が増え続けている病気があれば、その治療法に疑問をもつ必要があります



ここでは「降圧利尿剤」に注目していますが、根本的な構造はステロイドの時と全く同じだと私は思います。

血圧が高いから降圧剤で負荷を減らして血圧を下げる
眼圧が高いから利尿剤で水分を減らして眼圧を下げる
腎臓の組織圧が高いから降圧利尿剤で組織圧を下げる


一見正しい「治療」を行っているように見えるかもしれませんが、

「なぜ圧が高くなっているのか」を考えずに、圧が高いことが前提でそれを対症療法で是正しようとする行為は「治療」のようでいて、問題の先延ばしでもあり、時間をかけて問題を複雑化させていく行為でもあるように思います。

緊急避難的に圧を下げることをはあっていいにしても、本当にやるべきことは目先の圧を下げることよりも、「圧が高いということは自分の身体がどういう状態にあると考えられるのか」について自分の頭で考えること、そして考えた仮説をもとにさらに自分はどうしていくべきかを考えることだと私は思います。

現代医療で行われているすべての「対症療法」に同じ構造があると私は思っています。

例えるならば、現代医療は自分では働くことのできない人間を次から次へと生み出しているようなものだと私は思います。


●「 みんなこの治療を受けているから 」とか、「 偉い先生が処方してくれる薬だから 」と、医者任せにしていては、治るものも治らなくなる可能性があります。自分の身体を救うためには、動物的な勘を働かせる必要があるのです。



ここまで来れば、安保先生のこの最後の言葉はとてもしっくり来ます。

「医者任せにしていては治るものも治らない」

私はこれからも医療から卒業できるように患者さんを支援する「主体的医療」を追求していきたいと思います。

安保先生、ありがとうございます。


たがしゅう
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