異論の余地がある情報を「科学的事実」としてはいけない

2020/06/29 22:45:00 | よくないと思うこと | コメント:0件

私が事実重視型思考でものごとを受け止めて考えるようにしているということは、

当ブログでも何度か紹介してきていますが、ここに来て「科学的な情報」と称するものが、

まるで動かしがたい事実かのように捉えられている節があり、実は私はそこに非常に問題を感じています。

例えば、「マスクの有効性は科学的に証明されているから装着すべき」といった情報であるとか、

あるいはワクチンについて考え直していた時にも、「ワクチンの有効性は科学的に証明済である」といった表現にも遭遇しました。

この問題について考えるために、今一度私の基本である事実重視型思考のスタンスについてまとめておきたいと思います。 私の「事実重視型思考」において重要視するのは、「誰がどの角度から考えても異論を挟む余地がない事実」です。

こうした事実は数学の世界には多い印象ですが、現実の世界においては自分自身が経験したことが一番優先度の高い「事実」になります。

誰がなんと言おうと、自分の身に起こったことであれば、その解釈の仕方は様々あれど、起こったこと自体は紛れもない事実だと思います。これは誰が反対したところで議論の余地はないでしょう。

しかし実際問題、すべての出来事を自分で経験できるとは限りませんし、自分で経験できないことの方が人生には多いはずです。

そうした自分で経験できないことが事実であるかどうかを判断するにはどうすればよいかと言えば、事実度の高さに優先順位をつけるようにします。

①自分自身の実体験で確認された情報
②多数の信頼できる人から確認された情報(糖質制限による様々な改善効果)
③多数の不特定多数の人から確認されている情報(教科書的情報、再現性の高いデータなど)
④少数の信頼できる人から確認された情報(たまたま聞いた口コミ、Facebook情報など)
⑤少数の不特定多数の人から確認されている情報(ツイート、ネットニュースなど)


①が最も「事実」としての信頼性が高く、⑤が最も信憑性が乏しい情報ということになりますが、

これらはあくまでも目安であって、実際にはすべての情報は「事実度が8割、デマ度(間違い度)が2割」というようにグラデーションで理解されるべきものだと思っています。

その中で確信が持ちきれない要素がある場合は、必ずしも結論づけずに「保留」にすることを心がけています。

これは言い換えれば、少しでも異論を挟む余地がある情報は、「事実」としては認定しきらずに、必ず「保留」の要素を残しておくようにします。

そうすることで前提を誤ったまま突き進んで、どんどん理解が歪んでいく事態を未然に防ぎ、

少なくとも自分の価値観の中で世界を適切に捉えていくことにつながっていくと私は考えています。

ところが前述のマスクの例は、「マスクで飛沫を防ぐ効果があるのは明らか。だからマスクは感染防止に確実に役に立つ」というように、この情報をまるで「確固たる事実」であるかのように捉えている節があると思います。

しかしながら実際には、飛沫を防ぐのは事実でも、すべてのウイルスが飛沫内に存在している保証はどこにもないので、飛沫の脇から普通にウイルスが通過して他人に感染させてしまう可能性が否定できません。

すなわち「異論を挟む余地がある」ということになるので、この情報はその異論が完全に否定される情報が現れない限りは「保留」にすべき案件だということになります。

あるいは「ワクチンの効果は科学的に証明されている」という話も「動かしがたい事実」であるようなニュアンスが含まれていると思いますが、

ワクチン接種後に稀ながら不可逆的な後遺症を残している患者さんが実在します。これは私の優先順位分類で言えば、③か⑤に該当する話になってきます。

それが本当にワクチンの副作用なのかどうかを確認することが難しいということは以前にも触れましたが、

少なくともワクチンの副作用だと考えて矛盾のない状況であることは間違いないですし、「ワクチンの効果は科学的に証明されている」に対して異論の余地が存在するということになります。

こうなるとやはりこの案件も「保留」にすべき案件ということになります。

ただワクチンに関して言えばこの情報だけで言えば「保留」なのですが、他の様々な情報を総合して同様の事実重視型指向を進めていきますと、その効果は不完全なものであるという結論にかなりの割合で傾いていますが、ここではそれは置いておきましょう。

ともあれ異論の余地があり判断が「保留」されてしかるべき情報が、「科学的」という色を帯びることによって不自然に事実化されている状況が非常に由々しき事態だと私は感じているのです。

なぜならば事実ではないかもしれないことが事実だと解釈されてそのまま思考が進んでいってしまうことによって、

非常に偏ったバランスの悪い、一定の割合の人達が避けがたい被害を被る結果へとつながってしまうからです。

学校で小さなこども達がマスクやフェイスシールドを強要されている状況や、

ワクチンの効果を懐疑的に感じている人が周囲のプレッシャーに押される形で不本意なワクチンを接種してしまうような状況がその具体例です。

「保留」の案件は強制されることなく、せめて選択肢が準備されるべきだと私は思います。

科学は本来謎や疑問に真摯に向き合う姿勢ですが、それが暴走しているといって過言ではないほどの昨今の状況です。

「わからない」ことを素直にわからないと認め、多様な選択肢が許容される世界であるべきだと私は思います。



たがしゅう
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