無駄な指導にこだわらない

2018/09/09 00:00:01 | 普段の診療より | コメント:2件

当院へ時々、働き盛りの男性が健康診断目的で来られることがあります。

会社からの指示で受診されているのでしょうが、そういう方で高率に喫煙習慣が認められます。

喫煙は強力な酸化ストレス源となりますし、肺癌、喉頭癌、肺気腫をはじめ、呼吸器を中心とした様々な疾患の増悪リスクであることは、

今までの医学の中ででかなり確かめられてきています。

だから私も決まり文句のように禁煙することをおすすめするのですが、

これまでに禁煙指導をしてみて手応えを感じたことはほとんどありません。 「暖簾に腕押し」とはこのことで、全く相手の心に響いている実感が得られないのです。

人を動かすのは常に感動だ」ということを以前述べましたが、

禁煙すればその分タバコ代が浮いて他の有意義なことにお金を使うことができるという説得も、

喫煙はお金を払って様々な病気のリスクを軒並み上げる行為だという脅迫も、

喫煙者の心を動かす感動を与えることは到底できないのだと強く感じます。

喫煙によってもたらされるニコチンを中心とした依存物資による強固な中毒性の形成を前に、

通り一遍の禁煙指導は喫煙者達の心に響かないどころか、

かえって毎年の健康診断時に小言のように感じられるストレスを与えてしまっている可能性さえあります。

「Do No Harm(害を与えることなかれ)」の観点からすれば、禁煙指導が害を与えているといっても過言ではありません。

だから私は禁煙のことは言わなければならないとわかっていても、あえてほとんど触れずにさらっと流すようにしています。


それに、ある時は一つの建築会社の男性従業員が、

まとめて健康診断を受けに来られるということがありました。

その際に喫煙者へ禁煙についてさらっと触れても、

いつものように手応えなし、皆気のない返事で返されるだけです。

その時ふと思いました。あくまでも私の想像ですが、

もしかしたらこちらの会社では従業員達が休憩時間に喫煙しながら談笑しストレスを発散し合うようなスペースがあるかもしれなくて、

もしそうだと自分一人が仮に禁煙するとしたら、自分はその喫煙ありきのコミュニケーション空間に入ることができなくなって、

下手すれば「一人だけ抜け駆け」といった陰口を叩かれたり、ひどい場合は無視されたり若ければいじめの対象となったりする側面もあるのではないかと思いました。

孤独を楽しめるほど信念を持っている人であればよいですが、

世の中の多くの人はそういうわけにはいかないのだろうと思います。

ということは禁煙指導というのは、それを相手が希望された場合は別として、

指導が無効どころか、相手にストレスを与えて有害となりうるものなのであれば、

そんな指導を漫然と繰り返し続けるよりも、喫煙ありきでその人をできるだけ病気にさせないための別の方法を考える方がよほど得策ではないかと思います。

これは糖質制限指導をどうしても守れない糖尿病患者に対して、

低血糖リスクの低い薬剤を中心に調整して、

せめて血糖値の乱高下による酸化ストレスの悪影響を最小化しようとするアプローチに似ています。

できない糖質制限をうだうだと講釈を述べてさせようとしても無意味、有害無益なのです。

似ていると言えば、喫煙者に禁煙指導をした時の手応えのなさと、

糖質制限指導に反発する糖尿病患者への手応えのなさは似ています。

言葉ではなかなか表現しにくい感覚ですが、とにかく「これ以上何を言っても無駄」感があるのです。

そんな感覚を得た時、私は戦意を喪失します。それ以上何をしようとも思いません。

逆に私が誰かに何かを働きかけているのは、常に相手へ希望を見出している時です。

私は希望に向かって歩き続けるつもりです。


たがしゅう
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コメント

以前の私が正に最悪の患者

2018/09/09(日) 09:32:18 | URL | m.kurimoto #-
いつもお忙しい中鋭い記事をありがとうございます。

私も永年ヘビースモーカーで過剰な糖質摂取者でたがしゅう先生に出会うまでは、医師の言う事を全く聞かない最悪な患者だったので耳が痛いですね。心の中ではいつも謝ってたんですけどね。現在の所、糖質制限と出会うのは宝くじに当たるようなものなので、どこかの誰かの当選確率が上がるように私も頑張っていきたいと思います。主体的に不健康を選んでいる人を真逆に変えるのは基本的には不可能だと感じます。気付くべきは、その不健康を求める主体性がメディアに誘導されたものであって、自身の生物的欲求ではないという点なのでしょうけど、結局、逆洗脳の結果健康になったとしても、それが本当の主体性かどうかは疑問です。不幸な事ですが、なりたい理想の自分が不健康な自分であれば放っておくしかないというのが、この情報社会の現実だと思いますので、たがしゅう先生が苦悩する必要は全くないと感じますよ。気付いた人から変われば良いし、正しいことが最後には多数になるでしょうから。喫煙者も明らかに減っていますしね。

Re: 以前の私が正に最悪の患者

2018/09/09(日) 10:09:11 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
m.kurimoto さん

コメント頂き有難うございます。

> 気付くべきは、その不健康を求める主体性がメディアに誘導されたものであって、自身の生物的欲求ではないという点なのでしょうけど、結局、逆洗脳の結果健康になったとしても、それが本当の主体性かどうかは疑問です。

情報や社会の仕組みに流されて決められた事に自分が納得して行っているという状況であれば、それは「主体性」ではなくて「自主性」ですね。ところがもし本当に自分の頭で考えた結果、「喫煙すべし」と判断したのであれば、喫煙ありきで治療を行うことは立派な「主体的医療」となります。

2018年5月31日(木)の本ブログ記事
「主体性と自主性の違い」
http://tagashuu.blog.fc2.com/blog-entry-1364.html
も御参照下さい。

「主体的医療」は、時に常識の枠組みを外すことが要求される医療だと思います。

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